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カテゴリ:歴史
ここが変わった! ここまでわかった! 『日本の歴史』(朝日新聞社)がかなり注目されているようです。 幕末から維新を特集した号では、今の私たちが持つ「志士」像は明治政府による英雄化の産物だった、という記述があります。「幕末から明治初期に命を失った「殉難者」への贈位などを通じ、勤皇の志士を政治的に顕彰することによって、明治政府は自らの権威を高めるような歴史像を形成していった、」というわけです。 だとすれば、これまで私たちが常識と考えてきた幕末から維新の歴史が、「国家によって意図的に作られてきたものではないか」、「作られた歴史像に大きく影響されているのではないか」という問いを避けるべきではないでしょう。 今日顧みられるべきは、その時代において明治政府に対して明確に示された批判的見識ではないでしょうか。 例えば、士族から始まり民衆にも広がった「自由民権運動」は、その過程で自ら民主的な憲法案を作るなど、当時の藩閥政府に対する根本的な批判を形にしたとも言えます。しかし、それが結局、「国権論」に取り込まれ、明治政府との対決姿勢を鈍らせていったのは有名な話です。 確かに、鋭く根本的な批判となると当時の日本人にはかなり難しかった面もあるかもしれません。日清戦争あたりから、国力・軍事力拡張の流れが時代の風潮になっていくとすれば、なおさらでしょう。 しかしながら、明治政府の要人に一目置かれながらも、上記のような風潮に流されず、鋭く根本的な政府批判を行い続けた人物がいます。それは西郷隆盛とともに江戸城を無血開城に導いた勝海舟です。 勝は日本海軍の生みの親ともいうべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には終始反対し続けた。(・・・) 勝は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。 (引用は以上) 私は、勝海舟が日清戦争に反対だったことを数年前に初めて知り、感心しました。日本史の教科書には日露戦争に反対した人物(幸徳秋水や内村鑑三)は出てきますが、日清戦争に反対した人物は、出てきませんよね。 周知の通り、幕末、勝海舟は日本海軍の増強を主張し、海軍を支える人材の育成に力を注ぎましたが、あくまでその目的は日本に不当な圧力をかけてくる欧米諸国と対抗することであり、薩長両藩の優位に立つことやアジアに勢力を拡大することでは断じてなかったのです。 以下は、『氷川清話』に収められている海舟自身の言葉です。 おれは大反対だったよ 日清戦争にはおれは大反対だったよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとえ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。 今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところになるくらいなものサ。 隣国交兵日(りんごくへいをまじうるのひ) これが文字通り「アジア全体を各国が共存共栄する対等な共同体にする」という意味であればいいのですが、だとすれば日本がアジアのどこか(例えば朝鮮や台湾)を植民地支配するということはあってはならないはずです。 にほんブログ村 〔 「しょう」のブログ(2) 〕もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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