『舞台1980年代半ばの東京。
大学近くで印刷屋を営む主人公はあるとき、公害に関わる市民のための講座を記録として協力してくれ、という依頼を受けたことを機として水俣に深く関わるようになる。
それから10年あまり、公害は日常となり、講座は最後の時間を迎えようとしていた。
その中で、主人公の人生は、大きな転機を迎える。』
公害病というものを、広く知らしめることになった「水俣病」。
ワタシが生まれる前、舞台の頃は小学生に入ったか…入らないかな頃の話。「水俣病」という名を知ったのも、社会科の授業などでした。
教科書に載っていると、どこか遠い話のような気がしてしまいます。でも、昨日の新聞にも、スイスで国際的な公害についての条約(水俣条約という)が結ばれる場で、水俣病の患者の方が語られたと記事がありました。
「水俣病は決して『過去』の問題ではない」そして「今起きている問題と、根幹は同じなんだ」と、舞台を観て強く感じます。
それを『過去』にしたがっているのは、誰だろう…みたいな。
劇中で語られる「興味がある人はもともと少数で。興味がない人を動かす難しさ」が身に詰まります。こう、えらそに書いてるワタシ自身含め、大衆の「無関心」というか「関わるのが怖い」というか。「見たくない」「知りたくない」という意識。
九州(特に隣県の地域)では社会科の見学などで水俣へ実際に訪れたり…学ぶ機会も多いようですが。関東では?というと授業でささっと触れるくらいではないでしょうか。
仕事柄、ワタシは水俣病についての記事に触れる機会が多いですが、それでも、勉強会があったとして率先して行くかというと、そうではない。
興味があるか、ないかで言ったら「ある」んだけど…うん。
話は水俣病が主ではあるけれど、言葉はそのまま現代にも置き換えられて。沖縄のこと、福島のこと。その後のこととなんら変わらない…人間は変わってない。悲しいほどに。
「お殿様(チッソ)の垂れ流しで、下々が被害を受ける」「内部から指摘があったが、隠蔽しようとした」「被害者の方が差別を受けた」そんなんばっかり。
何年か前に、文学座で宮本研さんの「明治の柩」という田中正造と足尾銅山の話を原型とした作品を上演していて。その時も同じような事を思いました。
今に至るまで。そしてこれから先も。劇中で宇田先生(宇井先生にあたる)が「私が生きている間に公害はなくならない」という台詞の通りに。
高度成長のしわ寄せが水俣に向かったように。
日本のいたるところに、色んな形をして、いまも。
舞台の台詞の1つ1つが自然な言葉で語られているので、観ていて「自分もそう思ってたことある」と感じたりします。
「水俣病」という重い名前や報道のモノクロ写真の印象のまま、水俣という場所をネガティブなイメージで考えていたこととか。←昔の話ですよ
本当の水俣は、青い空と海がとても美しいところだそうです。そんな美しい場所で、こんな哀しい出来事があったことを忘れてはいけないと思う。
公害は「人の手」が生み出したものなので、なおさら。
そうした面とあわせて、つくづく「人の心」って難しいなあと思います。
「水俣に捕らわれる」といえば、そうなのかも知れないけど…印刷工場を経営するヤスさんは、先生と15年間活動していても、1番近くにいる人であるはずの奥さんからは理解を得られなかった。
かと思えば、運動を一応は理解してくれる夫がいても、子供がいても「水俣」への思いを止められなかった加山さんがいる。
2人が惹かれるのはわかるんだけど、ヤスさんの方に恋に近い雰囲気を感じてしまって(しかも蒸発に近いものだから)少しもやっとした(^_^;)ゞ
あと、講座が解散するかどうかの憂目の時の「不寛容」についての話が胸に刺さります。
対抗勢力の側の人間が「こちら側」に来るのは受け入れられるのに、「こちら側」の人間が、意図を持って「あちら側」に行くのは受け入れられなくて。話し合いの結果、相手を追い出す形になったこと。まるで全共闘の時代のように。
それをみて「この講座は長くはない」と語った、小寺役(公正であろうとする人だと思う)の齋藤隆介さんが爽やかでとても良いのです✨
宇田先生が、東和大から沖縄の大学へ(教授として)移ると告白した時の一幕もそう。
ブレヒトの「セチュアンの善人」のように、「善き人」であることを人に求めるのはいいけど…自分はどうなの?とか、求められた側の人生はどうなるの?って思ってしまう。
個と個の間であれば、どうしても理解しあえない&同じ場所にいたい理由(職場や学校が一緒とか)を見つけられなかったら、それなりの距離をとればいいと思うけど…社会の不寛容って怖いなあと。
公演パンフレットは600円。
あと、終演後に思わず購入した本「ある公害・環境学者の足取り 追悼 宇井純に学ぶ」(2700円)です。