4年前、2月20日~24日の4泊5日の日程で、神社本庁の関連団体である神政連の研修で、皇居勤労奉仕に参加させていただきましたが、その2週間後に未曾有の東日本大震災が起きるとは予想だにしませんでした。

なお、下の5枚の画像のみクリックすると拡大します!。


その時、広島県青年神職会皇居勤労奉仕団にOBとして参加されていた、アメンバーで呉市のあーうんさんこと高尾神社宮司さんとばったり初顔合わせをしました!。

あーうんさん(右)は、私とは同い年です。



これは、石川県神道青年会の60周年記念行事の一環として募集を募り参加された当県の奉仕団で、3日目の朝合流しました。

青年会員、神社庁役員、県女性神職会の方々が参加されたので、桔梗門前で一緒に記念撮影をおこないましたが、昔のお嬢さん方に囲まれて前列中央に写っているのが私でございみす!。


勤労奉仕の場合、皇居内はカメラでの撮影や携帯電話の持ち込みは原則禁止なのですが、桔梗門をくぐってすぐの、勤労奉仕団や一般参観の休憩施設である窓明館内外のみ撮影は許されております。

窓明館では、売店で記念品を求めることもできます。


第1日目は午前中は宮殿内の特別拝観、午後からの奉仕では、上道灌堀一体から吹上御所入口付近にあたる半蔵門の内側までの約1キロを掃き掃除したのですが、日頃境内清掃で鍛えている全国より集まった神主の精鋭40名ですから、その速さに宮内庁の職員の方々はびっくりしていました。

途中、宮中三殿より少し離れた場所に、真新しい仮殿がありました。平成18年に、宮中三殿の老朽化のため行われていた耐震改修のために一時お遷しなられていたもので、主要工事がほぼ終わった平成20年3月25日に、奉遷の儀(ほうせんのぎ)により御羽車(おはぐるま)によって還御(かんぎょ)なされたのとことです。



それで、宮中三殿の賢所正門(かしこどころしょうもん)の向かい側だったと思うのですが、吹上御苑の南端にあたる林に中に、老朽化してはいましたが、重厚な蔵のような建物と両翼を広げた神社のような荘厳な建物が数棟ありました。

なお、画像は賢所正門前です。


宮内庁の職員の方にお聞きしたところ、かつては日清日露の戦役からの戦利品を納めた木造の倉庫群だったとのご説明でした。

ですが、皇居の案内地図にはそのような建物が紹介されておらず、4年間ずっと気になっておりました。

それがつい最近、ウィキペディアで調べ物をしていたらそのページにたどり着いて、御府(ぎょふ)という木造倉庫群を総称した呼び名だということがわかりました!。

つまり、中国も含めて、「御府」とは天子が収集した書画などが納められている、宮廷の倉庫のことだったのです。

さらに、ウィキペディアには…。


「朕(ちん)が子々孫々に至るまで、永く保存して忠勇なる陸海軍の功績を不朽に伝ふ」ために建てられた施設で、が大日本帝国が参戦した戦争の戦利品や記念品、また戦没者の名簿が納められていた。

戦後は廃止され、戦利品は関係各国に返還された。現在も倉庫として利用されており、天皇の所有物や宮中儀式の用具が保管されている。


とのことで、明治天皇の思召し(おぼしめし)で御造営されたことがわかりました。

さらにウィキでは…。


【振天府(しんてんふ) 日清戦争】

日清戦争、征台の役(台湾出兵)がおわったのち、明治天皇が忠勇な日本陸海将士の勲功を保存しようという聖旨(せいし)により開戦後奉献された戦利品をおさめ、戦死諸勇士の肖像をあつめ、その姓名を勒(ろく)して陳列し、これを振天府(しんてんふ)と命名した。

中央に東西82尺、南北20余尺の本館と、その西、廊をへだててわずか2間余の御休所からなる。本館正面楣上には、小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)が勅(ちょく)を奉じて書いた府の題額がかかげられ、館内南側には海軍戦利品を、北側には陸軍戦利品をそれぞれ戦闘の順番によって陳列され、御休所の床には広島大本営(だいほんえい)の図がかけられ、柱の時計にも1吊(つり)の花生もともに広島駐輦中(ちゅうれんちゅう)玉輦(ぎょくれん)の側ちかくに使用したもの、なかでもその花瓶は一名「四兵の御花生」といい、歩、騎、砲、工4兵科の武器の一片ずつをあわせて、天皇がしたしく考案して従軍将士の労苦を日夕あわれんだ記念の品であった。

なお、御休所の北に、参考室があり、ここに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)、北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)以下、陣没陸海両軍将校の写真をかかげ、室内3段の棚には戦病死将卒1万626人の姓名を録した十数巻の巻物が安置されていた。

またべつに鹵簿(ろぼ)の大砲をおさめた砲舎があり、庭上には清国兵が威海衛(いかいえい)の海軍公署にたてた帆檣(はんしょう)、敵艦・定遠号(ていえいごう)の水雷防御鉄網、金州城永安門の門扉等が配置されていた。

府の設計意匠はもちろん、凡百(ぼんぴゃく)の列品の陳列にいたるまで、ことごとく天皇の案に出て、将士の写真を額面にはさむまで手づからおこなったとつたえる。また、有光亭(ゆうこうてい)という、日清戦争威海衛戦(いかいえせん)
の鹵簿品(ろぼひん)をもって構築された建造物が振天府参考室の西にあった。

四阿(あづまや・しあ)つくりで、きわめて淡雅(たんが)で、その梁柱は清国兵が港口に沈置(ちんち)した防材をもちい、周壁は敵の砲台にあった砲門上の石額で築かれ、楣上(まぐさじょう)にかかげられた額は有栖川宮威仁親王(ありすがわのみやたけひとしんのう)が勅命(ちょくめい)を奉じて揮毫(きごう)したもので、背面に文事秘書官・股野琢(またのたく)撰有光の亭記(ていき)がしたためられていた。



                  振天府(しんてんふ)


【懐遠府(かいえんふ) 義和団の乱=北清事変】

霜錦亭(そうきんてい)の北にあった。明治天皇が、明治33年義和団の乱平定ののち、日本将士の勲労(くんろう)をつたえようという叡旨(えいし)によって、戦利品をおさめ、陣没将卒の肖像と名簿を保管するために造営された。昭和43年に東御苑(ひがしぎょえん)に移設され、諏訪の茶屋として一般公開されている。

         今は諏訪の茶屋として利用されているかつての懐遠府


【建安府(けんあんふ) 日露戦争】

日露戦争ののち、明治天皇が忠勇な日本将士の英烈をつたえようという聖旨(せいし)にもとづき考案して造営し、勅を閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)にくだして、題額を揮毫させた。

中央本館は東西65尺、南北26尺、南面してたてられ、海陸両軍の戦利品をおさめた。前庭西側に曲廊(きょくろう)を架して、これに連続する2階建て別館には戦病将卒の写真、姓名録、ならびに日本軍が使用した小型武器、被服等がおさめられ、のちに当時出征した後備歩兵聯隊(れんたい)にさずけられた軍旗50余が追加陳列された。

このほかに日本軍使用の大型武器を陳列した一宇(う)と、戦利に属する大型武器を陸海両軍にわかって格納されていた二宇の舎屋(やかず)があった。


                    建安府(けんあんふ)


【惇明府(じゅんめいふ) 第一次世界大戦】

建安府の西にあり、大正3、4年対独戦争終了後、大正天皇が日本兵がイギリス軍と力をあわせ、青島(ちんたお)を包囲してこれをやぶったときの戦利品を保存しようという叡旨により、明治天皇の振天(しんてん)、懐安(かいあん)などの諸府(しょふ)の制にならって造営したもので、題額は東伏見宮依仁親王(ひがしふしみのみやよりひとしんのう)が勅を奉じて揮毫したものである。

           神社の造りのような惇明府(じゅんめいふ)


【顕忠府(けんちゅうふ) 日中戦争】

顕忠府は日中戦争の戦利品を保存するため造営されたもので、ウィキにもネットにも画像がありませんでしたが、私の記憶では、惇明府とまったく同形の建造物で、両翼をもった神社のような建物だったことをおぼえています。

このように、皇居の吹上御苑内に、今でも「御府」と呼ばれていたこれら5棟の建物(1棟は東御苑に移築)が現存していることに驚愕した次第です!。

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