GW最終日の昨日は、早朝より山へワラビ採りに出掛けました。

 

ですが、山の中はGW期間中に山菜採りに来たの人たちの足跡だらけで、ポイントを荒らされながらも、おこぼれをこれだけ採って参りました。

 

 

ついでに、地鎮祭用の榊も切ってきました。

 

 

さて、前日のブログの続きを書きますが、万葉線の急患医療センター前停留所でドラえもんトラムを降り、古城公園を目指しました。

 

この駅は、古城公園西口停留所という副駅名があるからです。

 

 

高岡古城公園は、加賀藩二代藩主・前田利長公が異母弟の利常公に藩主の座を譲り、隠居城として当時客将であった高山右近に縄張り(設計)を命じ、城下町を「関野」から「高岡」に改め入城し、高岡を商業都市として発展させました。

 

しかし、利長公死去後は一国一城令により廃城となりますが、蔵や番所、それに水濠や土塁などが残され、軍事拠点としての機能は密かに維持されました。

 

 

明治となり、高岡城跡は払い下げが決定し入札者も決まっていましたが、その後払い下げを取り下げる通達が出され、明治6年には公園条例が公布されました。

 

明治7年には二上村にあった射水神社を本丸跡地へ遷座(せんざ)することが決定し、同8年に「高岡公園」として指定されました。(※後の高岡古城公園)

 

昭和40年に県史跡、同42年には県立公園に指定され、平成27年3月10日付で「高岡城跡」として国の史跡に指定されました。

 

 

古城公園内には、市民会館や市立博物館、市民体育館、動物園など市の公共施設が多く存在します。

 

9年前の平成21年10月3日、私はこの古城公園にある高岡市民会館を訪れました。

 

奉祝・天皇陛下御即位20年

天皇皇后両陛下御結婚50周年

高岡開町400年記念

「宮内庁雅楽・高岡公演」を拝聴のためです。

 

画像は9年前のものです。

 

 

そして、真っ先に向かったのは、本丸跡に鎮座する射水神社(いみずじんじゃ)です。

 

 

お参りを済ませると、参拝者の対応をしていた後輩のS禰宜(ねぎ)と久しぶりに再会しました。

 

 

新しくなった手水舎のことを尋ねると、禰宜のS君は「3年前の御鎮座千三百四十年・御遷座百四十年」を記念して建替えられたとのことでした。

 

 

旧手水舎は東屋(あずまや)として再利用されたようです。

 

 

続いて向かったのは高岡大仏です。

 

奈良、鎌倉と並ぶ日本三大大仏のひとつなのだそうですが、東大寺の大仏や長谷の大仏から比べるとウ~ンという感じですが、高岡銅器職人の技術の結晶といえるものでもあります。

 

 

高岡御旅屋通り商店街のアーケードを抜けて高岡大和セリオの前まで来ました。

 

御旅屋(おたや)とは、加賀藩主が鷹狩や参勤交代の際、高岡に宿泊するために使われていたとされる施設のことです。

 

 

当県に本社を置く大和百貨店は、金沢に旗艦店(本店)の香林坊大和があり、富山県にはこの高岡店と富山店があります。

 

かつては、当県に小松店、新潟県にも新潟店、長岡店、上越店を展開していたのですが、上記の3店を残しすべて撤退いたしました。

 

このあと、土蔵造りの防火建築が立ち並ぶ、国の重伝建地区に選定されている山町筋(やまちょうすじ)にも行きたかったのですが、また雨模様となったのであきらめました。

 

なお、私の9年前のブログ・蔵のある町並みで、山町筋を紹介していますのでぜひご覧ください!。

 

 

徒歩で高岡駅まで向かったのですが、街の中心街やアーケード街はシャッターが閉まった店がけっこう目につき、北陸新幹線の停車駅が高岡じゃなく、新高岡にしたのが響いているのかもしれません。

 

高岡駅の北口(古城公園口)から南口(瑞龍寺口)に来ました。

 

 

歩いて、国宝 瑞龍寺に向おうとしたところ、ちょうど加越能バスがやって来たのですぐさま乗り込みました。

 

2つ目のバス停で降りて100円でした。

 

 

参道の「八丁道(はっちょうみち)」の石畳を歩いて瑞龍寺に向かいます。

 

八丁道は、高岡の開祖である前田利長公墓所(国の史跡)とその菩提寺である瑞龍寺(国宝)とを東西に結んでいます。

 

長さが八丁(約870m)であることからこの名がつけられました。

 

 

総門左手前の拝観受付所で拝観料(500円)を納め、いよいよ見学です。

 

でも、私は瑞龍寺にはもう何度も足を運んでいますが、女房が初めてなので来たのです。

 

 

「一つやいと」の立て札が掲げられておりました。

 

一つやいとは、テレビで毎年紹介しているので有名ですよね。

 

 

一つやいとは、その昔、瑞龍寺の雲水らが修行に臨むにあたり、お灸(きゅう)をすえていたことが始まりとされ、杷針灸治(はしんきゅうじ)として広まりました。

 

元々は、座禅や行脚で疲れた僧侶を対象としていましたが、明治の初め頃から農家の人達や参拝者にも施すようになったといわれています。

 

毎年6月1日と7月1日におこなわれ、無病息災を祈願して8,000人以上が訪れるとのことです。

 

 

山門は、残念ながら保存修復工事中で拝することはできませんでした。

 

 

近年、修復を終えたばかりの山門の金剛力士像です。

 

山門に向かって右の口を開けたのが阿形(あぎょう)像、左の口を閉じたのが吽形(うんぎょう)像です。

 

 

3年後にすべての修復が完了すると、こういう伽藍になるのですね!。

 

 

参拝順路にそってお参りします。

 

 

手前が仏殿、奥が法堂です。

 

 

仏殿の天井の木組みは素晴らしいものでした。

 

さすがに、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(※代々「善右衛門」を名乗る)が棟梁となって手掛けたものです。

 

 

法堂にお参りをしました。

 

 

いろんな角度から撮ってみました。

 

 

瑞龍寺から今度は前田利長公墓所を目指します。

 

前田家の古文書に墓所が1万坪という記述があり、近年の調査で合致する約33,000m2であることが確認されました。これは現存の3倍以上の規模であり、戦国武将の墓としては国内最大級となります。

 

 

また八丁道に戻ってきました。

 

前述のとおり、瑞龍寺と前田利長公の墓所とは、この道で一直線に結ばれております。

 

 

八丁道の説明板がありました。

 

 

それにしても、とてつもなく長い道です。

 

10数年前に訪ねた時は、観光バスで移動したのでこれほど長いとは思いませんでした。

 

 

やっと墓所入り口に到着しました。

 

ですが、瑞龍寺はたくさんの観光客で賑わっていましたが、ここは私たち二人だけでした。

 

しかしながら、金沢の者なら利長公の墓所に詣でるのは当然です!。

 

 

「前田利長墓所」「国指定史跡 加賀藩主 前田家墓所 平成二十一年二月十二日」とあります。

 

つまり、平成21年2月12日に、は金沢市の野田山にある前田家歴代の墓所とともに「加賀藩主前田家墓所」の名称で国の史跡に指定されました。

 

なお、金沢・野田山の前田家墓所については、私の9年前のブログ・加賀藩前田家墓所を訪ねて・国史跡に指定され♪をご参照ください!。

 

 

加賀藩二代藩主・前田利長公は、慶長14年(1609)に高岡城を隠居城に定め、生涯を閉じました。

 

この「前田利長墓所」は、三代・利常公が兄・利長公の三十三回忌にあたる正保3年(1646)に造営したものです。


一辺約180mの正方形区画を有し、大名個人墓として全国でも最大級の規模を誇ります。

 

 

墓域は、外堀、内堀の二重の堀で囲まれ、高い規格性を有し、その中心に一辺15.51mの御廟(ごびょう)が位置します。

 

御廟は、金沢で産出する戸室石(とむろいし)で覆った二重基壇上に笠塔婆(かさとうば)型墓碑が立っています。

 

基壇の立面(りつめん)には、狩野探幽(かのうたんゆう)の下絵と伝承される130枚の「蓮華図(れんげず)」が陽刻(ようこく)されています。

 

 

金沢の前田家墓所と同じ神道墓なので、二拝二拍手一拝でお参りをしました。

 

 

石の献備台には、ちゃんと前田家の「剣梅鉢(けんめいばち・加賀梅鉢)」の家紋が施されていました。

 

藩政時代、この墓所警護のため家臣が交代制で常駐していたそうです。

 

 

つ・づ・く…。

 

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