あの頃、都会で暮らしていた
お江戸での居住・仕事場を離れてかなりの月日が経ちます。
いま振り返れば「若かった」のひと言に括れる気がしています。
あの頃、都会への憧れとかではなく、ビジネスの戦場の一番先を歩み、勝負に勝つためには「そこ」が必須な場所でした。
時が経ち久しぶりに同じ地に立ってみた時、不思議な眩暈を覚える程の疲れをそこに感じた自分がいました。
モデルさんにも見える綺麗なお姉さんが綺麗な服を着て歩き、
個性と言う名の服を身に纏って心姿を消しているような若者、
妙に若くも見えるお年寄り・・・etc.
本来は土なのに全面をアスファルトで覆われ、呼吸出来ない地球の息苦しさと、飛び交い・襲い来るような積み重なった人々の念が風になびくベールのように纏わりついてくるような息苦しさをそこに感じていました。
エネルギーの住処
新しいものに溢れる「都会への憧れ」は、いつの時代も消えぬものなのかも知れません。
自分自身が都会に暮らしている時にはそんなことを微塵も感ずることは無かったのですが、いま振り返り、現在と比較をしてみれば、同じ容器内で飼育し、互いに共食いさせ、勝ち残ったものが神霊となるためこれを祀る(時としてそこから最強の毒を作る)「蟲毒」のなかで過ごしていたようにも思え、背筋に寒ささえ覚えたほどだったのでした。
「住めば都」とは正にその通りなのですが、若さゆえのエネルギーに満ちていたから都会の毒のような力さえ、何も感ずることなく凌駕して過ごすことが出来たのでしょうか。
そして、そんなエネルギーも弱くなり、自然に包まれた中での暮らしをするがゆえに、人工物で覆われた都会のなかでは息苦しさを感じ、普段なら心地良い風さえも、多くの彷徨う念を運ばれているような気分になってしまうのでしょうか。
街の面影
用事を済ませて、お江戸のなかで住んでいた何か所かの近くを通るルートで茅ヶ崎へと帰ってみようと思いました。
面影は残るも記憶のなかの風景とは違ってしまっている場所々に、致し方のない当然の事ながらも込み上げて来る想いを感じていました。
若かったあの頃の自分と爺になった今の自分
時の流れを残酷とは思いませんが、あの頃の自分には今の自分は想像できる欠片も無かったように思います。
これこそが老いの感覚なのだろうかと思いながら茅ヶ崎の海岸線に出ると、正面に大きな富士山の姿があり、深紅の夕暮れに包まれて、黒い稜線を見せていました。
都会に住みながら通い続けた海は、いまはいつでも目の前に広がり、CDを流して聴いていた潮騒の音は窓を閉じていても聞こえてきます。
玄関に出向かいに来てくれた愛息子を思わず抱きしめると、「センチメンタルに浸ってるのもいいけど、先にメシにしてくれや」と鳴き声を上げられ、住めば都以上の優しい現実にホッとため息を吐き出したのでした。
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