もっとひとつひとつに愛着をもって丁寧に行おう、と思うきっかけ。
先日名古屋市博物館で開催されている「ヴェネツィア展」に行ってきました。
時代を感じる絵や調度品を間近で見てロマンを感じたと同時に、
ちょっと考えさせられることがありました。
今回行った「ヴェネツィア展」に限って感じることではないのですが、
古い時代の絵や物を見ると「丁寧だなぁ」と感じることがよくあります。
古い時代というのは、現代の日本と違って、
一枚の絵を描くために筆を買うことも絵の具を買うこともたやすくなく、
さらに言えば、絵を描く立場になれることもたやすくなかった。
また、それに没頭できる時間を保ちやすく、魂をこめて制作活動を行っていたのではないか?
と、私は時々思います。
最近の日本は、なんでもたやすく手に入り、なんでもたやすく造ることができ、なんにでも自由になれる時代。
例えば、以前は「本を出す」と言えばとても博識な方の行うことのように思えましたが、最近は「本を出した」と言えば、信頼されるからという浅い理由で、どこかで読んだことのあるような内容をリメイクしただけのようなものが出回っています。
私の仕事であるデザインは、
今ではパソコンひとつでなんでもできるようになりました。
とても便利な道具なので、作ってみて、満足いかなければ作り直すこともたやすくなりました。
便利な反面、作り直すことが難しかった時代と比べて心構えが軽くなってしまったのではないか?とも思うのです。
そして、なんでもできるようになったということは、昔は作業分担していたものをひとりが請け負うのですから、全体を見渡しやすくなったど同時に、ひとつひとつの知識も薄くなって、ひとつひとつの動作に愛着が薄く、ただの作業と化していないか?
そして、ひとつのことではなく、多くのことを担当することで、没頭できる時間をとり難くなってはいないか(=追求度が不足しているのではないか)?
とも思うのです。
昨今、デザイン専門学校も沢山あります。
毎年沢山の卒業生がデザイナーの仲間入りを果たします。
容易にその立場になれることは、自分の立場に誇りと責任を持ちにくくなっていないか?
誇りも責任もない状態でモノを創る(=デザインする)ということは、
完成品にも誇りや責任が無いのではないか?
古い時代の記録や物や美術品を見るたびに、
現代を生きる人たちの行動や制作物や完成品が薄く見えてしまったり・・・、考えさせられます。
そして、仕事も生き方も、もっとひとつひとつに愛着をもって丁寧に行おう、と思うきっかけになります。
時代を感じる絵や調度品を間近で見てロマンを感じたと同時に、
ちょっと考えさせられることがありました。
今回行った「ヴェネツィア展」に限って感じることではないのですが、
古い時代の絵や物を見ると「丁寧だなぁ」と感じることがよくあります。
古い時代というのは、現代の日本と違って、
一枚の絵を描くために筆を買うことも絵の具を買うこともたやすくなく、
さらに言えば、絵を描く立場になれることもたやすくなかった。
また、それに没頭できる時間を保ちやすく、魂をこめて制作活動を行っていたのではないか?
と、私は時々思います。
最近の日本は、なんでもたやすく手に入り、なんでもたやすく造ることができ、なんにでも自由になれる時代。
例えば、以前は「本を出す」と言えばとても博識な方の行うことのように思えましたが、最近は「本を出した」と言えば、信頼されるからという浅い理由で、どこかで読んだことのあるような内容をリメイクしただけのようなものが出回っています。
私の仕事であるデザインは、
今ではパソコンひとつでなんでもできるようになりました。
とても便利な道具なので、作ってみて、満足いかなければ作り直すこともたやすくなりました。
便利な反面、作り直すことが難しかった時代と比べて心構えが軽くなってしまったのではないか?とも思うのです。
そして、なんでもできるようになったということは、昔は作業分担していたものをひとりが請け負うのですから、全体を見渡しやすくなったど同時に、ひとつひとつの知識も薄くなって、ひとつひとつの動作に愛着が薄く、ただの作業と化していないか?
そして、ひとつのことではなく、多くのことを担当することで、没頭できる時間をとり難くなってはいないか(=追求度が不足しているのではないか)?
とも思うのです。
昨今、デザイン専門学校も沢山あります。
毎年沢山の卒業生がデザイナーの仲間入りを果たします。
容易にその立場になれることは、自分の立場に誇りと責任を持ちにくくなっていないか?
誇りも責任もない状態でモノを創る(=デザインする)ということは、
完成品にも誇りや責任が無いのではないか?
古い時代の記録や物や美術品を見るたびに、
現代を生きる人たちの行動や制作物や完成品が薄く見えてしまったり・・・、考えさせられます。
そして、仕事も生き方も、もっとひとつひとつに愛着をもって丁寧に行おう、と思うきっかけになります。
都会の温泉「アーバンクア」 in 名古屋
↑天然温泉アーバンクア(一階はパチンコ屋です)
たぶん大学生の頃から、私は温泉が大好き。
私の通っていた大学では1年生のほとんどが、寮に住むのが慣習でした。
私も1年間大学の寮に住んでいました。
お風呂はもちろん大浴場。毎日毎日大浴
卒業してから10年以上経ちますが、大きなお風呂でゆったり過ごす時間は私にとってとても大切な時間です。
名古屋市内ではあまり温泉を見かけませんが、
アーバンクアは自宅から案外近くの都会の天然温泉。
毎週通ってます
↑天然温泉アーバンクアのHPより。
香りが毎月変わるミストサウナがオススメです
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都会の天然温泉 アーバンクア 052-324-0261
〒460-0014 愛知県名古屋市中区富士見町16-17 キャッスルタウン記念橋3F
営業時間:(年中無休)
平日 10:00~25:00 土・日・祝 6:00~25:00
※最終受付は24:30となります。
入泉料金:
(大人)平日:600円 / 土日祝:700円
(小人)小学生以下 全日:300円 ※2歳以下は無料
大きな地図で見る
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「次の人のために…」を受け取れていますか?
時々、意味も分からずもやもやしたり、理由無く腑に落ちなかったりすることがあります。
後々思うと、その時は理由は分からないでいたけれど、
自分の中でどうにも納得できない部分があったりすると、どうやらそういう気持ちになるようです。
例えば、ある日の話…。
その日は、はりきってソフトバンクショップへ行きました。
前に使っていた携帯の二年のしばりから開放され、
前々からずっとほしいと思っていたアイフォンを手に入れるために、颯爽と!
お店のスタッフから長々説明を受け、その間にSIMカードも装着!
お店を出る時には、晴れて私のアイフォンとなり、
家に帰ってから、箱からアダプタやなにやらを取り出して、
自分用にカスタマイズ開始しました。
みなさんも、アイフォンを購入された時って、大体そんな感じなんじゃないでしょうか?
けれどその特、私はなぜか何か腑に落ちなくて、どうにもずっとひっかかっていたんです。
今思えば、それは、どうやら「箱」が原因だったと思われます。
家に帰って内容物や説明書を見ようと思って開けたアイフォンの箱は、
すご~くしっかりつくられていて(デザインもシンプルで私好み)。
"開けた感"がすごくありました。
私が自分でも気づかない中で納得できていなかったのは、
お店でアイフォンを買うとき、私はまず、その「箱」を自分で開けて、まず、自分で手にとってみたかった…それなのに…ということ。
アイフォンの箱は本当に良くできています。
きっと、私が思うような感激(箱を開ける感激=ほしかった物を手に入れた感激)を味ってもらう為に工夫されているのだろうと思います。
けれど、お店の人は、素早くスムーズに私にアイフォンを渡すために、そういった感激を省いてしまったのだろうと思うのです。
まあ、これは日常の一コマですが・・・。
生活のあらゆる中で、自分の手元に物や事が回ってくるまでに色々な仮定があって、
きっと誰かしら一生懸命考えてるそれらを、私自身がどれだけ気づけてるのかなって、時々思うんです。
自分が受け取ったその何かが、自分が気に入らないように出来てた時、
「なんでこんななの?」と思う事は簡単ですが、
前の人の「次の人のために…」を気づけないで、そう言っているなら、とっても浅はか。
まだまだ未熟者な私ですが、
前の人の心を受け取れる自分でありたい・・・と、思う今日この頃。