営業の現場には矛盾が溢れている。量を増やせと言えば質が落ち、質を上げろと言えば量が落ちる。新規開拓だと言えば既存客が放置され、既存フォローをと言えば新規アプローチが減る。顧客のためにと言えば値引きやタダ働きが横行し、利益をとれ業績を上げろと言えば顧客不在な押し売りをし始める。あちらを立てればこちらが立たないという多くの矛盾が営業部門の改革、改善を阻んでいる。
そこで、孫子兵法家、長尾一洋がその矛盾をズバッと解決する本を書いた。「普通の人でも確実に成果が上がる営業の方法」(あさ出版)である。表紙はこちら↓。
ほとんどの会社は、普通の人が勤める普通の会社なのだが、普通の会社の普通の人に、特別な人にしかできない特別なことをやらせようとする会社が多過ぎるのだ。普通の人には普通の人なりのやり方がある。
実は、そのやり方のヒントが「矛盾」にある。多くの矛盾を抱えた営業部門だけに、その矛盾をクリアできれば大きな成果が見込まれる。矛盾とは、そもそも韓非子の一節から生まれた故事成語だ。韓非子の難一篇にこうある。「楚人に盾と矛とを鬻(ひさ)ぐ者有り。之を誉めて曰く『吾が盾の堅きこと、能く陥(とお)すものなきなり。』と。また、その矛を誉めて曰く『わが矛の利(と)きこと、物において陥さざるなきなり。』と。ある人曰く『子の矛を以て、子の盾を陥さばいかん。』と。その人応(こた)ふること能(あた)はざるなり。」
ご存知の方も多いだろうが、盾と矛を売っていた人間が、どんなものも通さない盾だと盾を売り込みながら、通さないものはない矛だと言って矛も売り込もうとしたら、その矛でその盾を突いたらどうなるのかと問われて答えに窮したという話である。
たしかに、何も通さない盾と何でも通す矛は、同時には成り立たず矛盾した存在だ。だが、それをどちらが本当に強いか勝負しようと考えるのではなく、普通の会社の普通の人は、そんなにすごい矛と盾があるなら、両方使ったらいいんじゃないの?と考えるべきなのだ。要するに、「矛か盾か」と考えるのではなく、「矛も盾も」と考えてみる発想の転換だ。
これは、韓非子の矛盾という問題提起に対して、孫子の兵法で答えるものだと言って良い。当時、かき集めた農民兵(普通の人)を強い軍団に仕立てなければならなかった孫子ならではの智恵だと考えれば良いだろう。
まず、孫子は強い軍団に仕上がった状態を示した。
『善く兵を用うる者は、譬うれば卒然の如し。卒然とは、恒山の蛇なり。其の首を撃てば則ち尾至り、其の尾を撃てば則ち首至り、其の中を撃てば則ち首尾倶に至る。』
巧みに兵を動かす戦上手は、たとえて言うなら卒然のようなものだ。卒然とは恒山に棲む蛇のことである。その頭を撃つと尾で反撃してくるし、尾を撃つと頭で反撃してくるし、その真ん中を撃つと頭と尾の両方で反撃してくると言ったのだ。
すると、そんなにすごいことが農民兵(普通の人)の寄せ集め集団に出来るのか?と疑問の声が上がる。
『敢えて問う、兵は卒然の如くならしむ可きか。』
「では、あえて尋ねたい。軍隊をその卒然のようにすることはできるのだろうか。」と。
その疑問に孫子は答えて、有名な呉越同舟の例を挙げる。呉と越は、まさに矛と盾に相当する矛盾した存在だ。その呉越が戦うのではなく両方が協力し合えば、普通の人の寄せ集め軍団を思うままに、卒然の如く動かすことが出来ると説いたのだ。
『曰く、可なり。夫れ、呉人と越人の相い悪むも、其の舟を同じうして済り、風に遇うに当たりては、相い救うこと左右の手の如し。是の故に馬を方ぎて輪を埋むるも、未だ恃むに足らざるなり。勇を斉えて一の若くするは、政の道なり。剛柔皆な得るは、地の理なり。故に善く兵を用うる者の、手を攜うること一人を使うが若きは、已むを得ざらしむればなり。』
兵士たち全員に等しく勇気を奮い起こさせ一つにまとめるのは、軍を司り統制するやり方による。剛強な者も柔弱な者もそろって役割を果たすのは、その地勢の道理による。やはり、兵を動かすのが上手な者が、軍全体を手をつなぐかのように連動させ、まるで一人の人間を使っているかのようにできるのは、そうせざるを得ないように仕向けていくからだと孫子は言うのだ。要するに、普通の会社の普通の人には、それをまるで最強軍団のように機能させるやり方があるのだと。
そのやり方、方法を、問答形式で分かりやすくまとめたのが、拙著「普通の人でも確実に成果が上がる営業の方法」(あさ出版)である。韓非子の問題提起に対して、孫子の兵法の応用で答え、7つの矛盾を乗り越える方法を具体的に提示しているので、是非読んでいただきたい。
2017年04月17日