子供の頃から学ぶ多くのこと。
人に優しく
思いやりを持って
他人の嫌がることはしない
明るく・楽しく・元気良く
我慢強く
迷惑をかけない
などなど、いっぱいありますが、とにかく「他者との関わりにおいて、自分はどうあるべきか?」っていう視点からの、「他者への貢献・自己の抑制」っていう教えが多かった気がします。
あんまね、「自分を大事にしよう。」ってことは言われてこなかった。
自分を大事にすることよりも、「所属する組織」や、「誰かのルール・思惑」に沿うことが求められてきた感じが強いんですね。
私ね、相当わがままな性格であり、相当あまのじゃくな性格で、年上の人間・目上の人間に対して、敵意というか、「偉くもねえのに偉そうにするんじゃねえよ、ボケ!」っていう意思をかなり強く持って人生を歩んできました。
教育の力と他者からのプレッシャーっていうものはすごいもので、そんな私でもね、「他者への貢献・自己の抑制」ってものを、自分で解釈した形ではありながらも、従ってきてしまった部分はでかい。
つまり、「自分を大事にする」ってことをないがしろにしがちなところはたくさんありました。
「面倒な性格である」ってことを自覚している私ですら、そうなんです。
これが、心優しく、人の言うことは素直に聞き、誰かに貢献して喜ばれることに何の疑問も持たないような「良き人」だったらね、「自分を大事にする」なんてことは、二の次、三の次になるのも当然過ぎるほど当然のことですよね。
今、自分の目の前に3人のアドバイザーがいたとします。
で、3人はそれぞのことを言う。
Aさん。「親孝行しなきゃダメだよ。」
Bさん。「世間様からバカにされないように生きないとね。」
Cさん。「自分を大事にすることが大事だよ。」
この3人のアドバイスがあったら、誰の言うことを大事にしますかね?
でも、この言葉が、
先生。「親孝行をしなきゃダメだよ。」
母親。「世間様からバカにされないように生きないとね。」
昨日、読んだブログ。「自分を大事にすることが大事だよ。」
っていう、特定の人間からの言葉からだとすると、重みは変わります。
怖いよね。言葉の重みって。
こんな私でも、「親に孫の顔を見せてやれない。」っていうようなチクっとした痛みはいまだにあります。
それほどね、「結婚して子供を産むのは当たり前」っていうような、世間のルールやしきたりが強烈に刷り込まれているわけです。
結婚したからって幸せになれるかどうかなんてのは全くわからないし、結婚したから子供が生まれる、なんてことも、どうなるかは全くわからないことなのに、それでも、「そうするのが当たり前」って思わされているところがある。
ま、私の場合、そんな思いがあっても、「親のために生きているわけじゃないし、子供を生むために生きているわけでもねえ!」って思いが大幅に勝って、独身街道を突っ走っているわけですが。
私は色んな事をかなり極端に辛目に書いたりします。
ついこの前も、「合わない友達なんて、そもそも『友達』じゃないんだから、絶交しちゃえばいいじゃん。」っていうようなことを書きましたが、なぜ、そんな書き方をするかと言えば、「視点を思いっきり変えるきっかけにしてもらいたい」っていう思いがあります。
一緒にいて楽しくない友達との関係で悩んでいる人に、優しく、穏やかに、「ちょっとづつでも、その人に費やす時間を減らしていってみるのはどうですかね?」っていうのも1つの手でしょうが、「そんな奴はそもそも友達じゃねえ!」「時間の無駄。つうか、人生の無駄。絶交しよう♪」ってことを強烈に言った方が響く人もいるはずなんですね。
優しい人は優しいから、「じゃあ、3回来るメールのうち、1回はそっけない感じにしてみようかな・・・。」とか、「これまではランチのあとに、どっかに買い物に行ったりしてたけど、ランチだけで帰ってみようか・・・。」的な感じで、「結局、その人のことで色々と悩んでしまう状態」は変わらなかったりします。
でもね、「そんなん、友達じゃねえから。」って言い切っちゃって、それに同意してもらえれば、「確かに♪ 別に友達じゃないやw」って感じになって悩むことはなくなります。
そこから「自分を大事にすること」を大事に出来る。
社会には、自分で思っている以上に、「世のため、人のために頑張りなさい。(自分を大事にすることなんて後回しに決まっているだろ。)」っていう呪いがかかっています。
それが呪いに思えないのは、「基本的に正しいこと」であったりするから。
だって、「人にやさしく♪」って正しいんだもの。
正しいけどさ、まずは自分を大事にすることですよ。
まずは自分を心地よくすること。
腹が減っていたら、人にやる前に自分が食べること。
疲れていたら休むこと。
悲しかったら、悲しい、っていうこと。
泣きたかったら、泣くこと。
「世のため、人のため」なんていうお題目は一旦捨てて、とことん自分のために生きてみてもいいんじゃないですかね。
私達のほとんどは、50年前は生まれていないし、50年後も生きてはいない。
人生なんて、そんくらいの短い日々なわけで、ワガママだろうが、自分勝手だろうが、それほど大した違いはねえよ。
当然ですが、今日の文章は「やさしい人向け」であって、「ワガママなバカ向け」の話ではありません。お前はもうちょい、世のため人のために頑張れw
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コメント
コメント一覧 (10)
時と場合や状況や環境、立場によっても仕方ない事もあるでしょうが
有給はあっても使えない会社とか
具合が悪くても休めない環境の会社とか。
努力する事や頑張る事と無理する事は
違うのに、無理してこその好評価的な会社とか。とか。とか。。。
本当の意味で自分を大切にすることができる人なら、自然に他人に対しても思いやりを持って接することができると思います。
「こういう人生でなければならない」「こういう倫理観でなければならない」という、ある一定の水準が通俗道徳として広がるのはそれはそれで必要なことだとは思うのですが、
例えば平均年齢で結婚してない人とか、学校に行けれなくなった子など、その水準から外れている人間は、差別の対象になってしまうというところが問題だと思います。
ドロップアウトした人生だろうと、そうでなかろうと、一人一人が価値のある人間であり、様々な生き方があっていいと思うんですけどね・・・。
あ、新しいプロフィール画像がしぶくてかっこいいです^^!
いつも楽しく拝読しています。
苦しいときに、驚くほどジャストなタイミングの日記が公開されていて、
心が救われたことも1度や2度ではありません。
ありがとうございます。
私はワガママなバカなのに、苦しいです。
ワガママなバカなりに、人にやさしくなりたくて
頑張るのに、すぐに息苦しくなってしまいます。
頑張り方が間違っているのかな?とも思うのですが、
正しい頑張りの方向がどっちなのか・・・
私はワガママなバカだけど、このままの自分じゃ、
自分で自分を大事にしたいとも思えません。
いつかゴリさんの気が向いたときに、
ワガママなバカのための指南的な日記が公開されたらうれしいです。
気が向かなくても、今後もステキな日記や、笑いのシェアを楽しみにしています。
とりあえず、呪いがかかっていることに気付くことが大事だと思われます。
しゃーさん。
結局、誰かの作った「枠」や「鎖」だったりしますし。
あおいさん。
ちょっと書いてみますね。
「世のため、人のため」とは思ってないのですが、どうしても人の気持ちに
合わせてしまいます。そして、疲れてしまう時があります。
ごりさんのこの記事を読んで気をつけよう、自分を大事にしようと思いました。
いつもありがとうございます!
いくつか記事を読ませていただき、非常に真理をついた
共感できる内容で、爽快に感じています。
私もいつも思うことですが、この世にある「社会的通念」は
結局のところ、これまでに庶民を支配してきた権力者が、
人々を都合よく扱えるように作り上げてきたものや、
もしくは商売的な観点から、商売をしやすいように
作り上げられてきたものが殆どだと思います。
こういう視点を持つと、とにかく何よりも「自分自身が」
実際に見て、聞いて、触って、考えた結果で価値を感じた物だけを
選択するようになるので、人や社会に流されることでおこる悩みや失敗を
防げますし、自分で決めたという物事への納得感も持つことができます。
私は「自分自身にとってどうなのか」という点を大切にして
人生を送ることが、本当の幸せであると考えておりますので、
こういった視点を持つことを大変重視しています。
どういたしまして♪
あちたんさん。
ありがとうございます♪
男性は他人を気にしない人が多いので、「男は少しは他者のことを考えろ」という意味かもしれません。
まあ中性的な人や女っぽい人も居ますが。
女性は言われなくても相手のことを考えるので、これを聞くと余計に背負い込むのかもしれないですね。
男性に向けた言葉を女性が聞けば、負担になるのは無理もありません。
相当に強い女性であれば、このセリフが活きることもあるでしょう。
なんにせよ、僕はいちおうは男なので、「自分の回りの人間さえよければいい」という考えをしやすいので、「世のため人のため」という考えは大切にしたいです。
関係ないけど中性になりたい。
先生は、
「親孝行はできる時にしなさい」
お母様は、
「世間に恥じる行動をしてはいけない」
ブログ読者様は、
「人生を大切になさって下さい」
と、伝えたかったのかと思いました。
同意義の言葉でも全く違います。