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強い悲しみや、重い苦しみ、切なさ、寂しさなんかがある人にはね、その思いを徹底的に表現することをオススメしたいんですね。

ブログでもいいし、twitterでもいいし、もちろん匿名で構わないので、書いて書いて書きまくる。

自分や誰かのプライバシーを侵害しない書き方で、起きた出来事や自分の感情を書いて書いて書きまくる。

悲しかったら、「悲しい」と書く。

今日も書く。

明日も書く。

明後日も書く。

書くんです。

出すんです。


少し落ち着いてきたら、「なぜ、そう思ったのか?」「なぜ、そう感じたのか?」ってことを、もうちょいわかりやすく書く。

「読んでいる人がいる」ってことを意識しつつ、そういう視点で書いていくと、多分、自分でも新たに発見することがあるはずです。



「あ、そうか。私はこういうことが悲しかったんだ・・・。」

「俺は、あれが本当に悲しかったんだ・・・。」



って感じでね。

何かに気づくとね、何かが変わります。

脳というものは1度、確かに気づいたことに関しては、もう、以前のような見方をすることは出来ないんです。

だまし絵であるでしょ?

「これは、壺なのか2人の人間が向き合っている顔なのか?」「これは、おばあさんの顔なのか?若い女性の後ろ姿なのか?」っていうようなヤツ。

あれ、1回気づいたらね、「へ?若い女性って何?どこが?」っていうところには決して戻れない。

戻ることは出来ないんですね。


そういう気付きは頭の中で考えて、酒を飲んで泣いていても中々得られるものではありませんが、書いてみたり誰かに話してみたり、表現してアウトプットすると、ふとやってきたりします。

それによって、自分が癒やされる。



あとね、そういう悲しみや思いをアウトプットしているとね、「わかります。」っていう人が必ずそのうち出てきます。

そして、「私も頑張ります。」とか、「〇〇さんのブログを読んで同じような悲しみを持っている人がいるとわかって、気持ちが楽になりました。」とかっていうことを言ってくれる人も出てきます。

不思議なもんでねえ、悲しみには、悲しみを癒やす力があるんですね。

自分の悲しみが誰かを癒やし、誰かの悲しみが自分を支えてくれたりする。

そして、それは、「あなた」だから誰かに届く、ということが確かにあるわけです。

他の誰でもダメだけれど、あなたの表現だからこそ、誰かの心を癒やす可能性がある。


私のブログを読んでくれている人だってね、友達を抜かせばほとんどが面識のない人です。

社会には、それこそ無数と言っていいくらいのブログもあるのに、そんな面識のない人が何故に私のブログを日々読んでくれているのかと言えば、「なんか、馬があった」ってことだと思うんですよ。

なぜか、私の文章があなたの何かにヒットした。

だから、あなtの表現もどこかの誰かにヒットするだろうし、どこかの誰かを救う可能性もあります。

もちろんね、「誰かの心を救うために頑張りなさい。あなたは選ばれし伝説の勇者なのじゃ。」っていうようなことを言う気はなく、気持ちや感情をアウトプットすることは有用ですよ、ってことを言いたいわけです。

そして、そこに、「匿名で友達・知り合いに読んでもらうわけではないけれど、第三者が読んでいる」っていう視点をちょっと持って書いて頂きたいということ。

自分1人が読む日記に書くのと、読む人がいるのかいないのかはわからないけれど、第三者が読む可能性がある表現では、何かが大きく変わってくるものなので。

悲しみというのは主観です。

どこまで行っても主観です。

だからこそ、そこの客観性を入れてやる。

ほんのちょっとでもいいから、客観的に考えてみる。

「死ぬほど悲しくて、こんなに不幸なのは私だけ」っていう主観に、「でも、そうかな?」っていう客観的な視点もちょっとだけ混ぜてみる。

そういうことをしながらアウトプットすることで、気づけなかった何かに気づく可能性は高まると思うんです。









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