映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

羊の木

2018年02月16日 | 邦画(18年)
 『羊の木』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、「その種子やがて芽吹き タタールの子羊となる 羊にして植物 その血 蜜のように甘く その肉 魚のように柔らかく 狼のみ それを食べる  「東タタール旅行記」より」の字幕。

 次いで、地方都市の魚深市の全景が映し出され、それからその市役所の内部。
 課長(鈴木晋介)が、机の上のパソコンの画面を見てから、部下で主人公の月末錦戸亮)を呼んで、「新規に6名の受入がある」「担当してくれ」と言いますが、月末は「えっ、6名も!」と驚きます。

 先ず新幹線の駅の改札口。
 月末が、「ようこそ魚深市ヘ 福元さん歓迎」のボードを手にして立っています。
 すると、3人の男が、プラットホームに通じる階段を降りてきて改札口に現れ、そのうちの一人が、切符を改札機に入れて出てきます。
 その男が福元水澤紳吾)で、車の中で月末が「今日はどちらから?」と尋ねると、福元は「結構遠かった」と答えます。
 さらに月末が「魚深市は初めてですか?」「結構良いところです、魚も美味しいし」と言うと、福元は「魚、結構苦手です」と応じます。
 途中で入った食堂で、福元は、味噌ラーメンやチャーハンを大慌てで口の中に放り込み、月末は驚いた様子でそれを見守ります。

 今度は飛行場。
 太田優香)を出迎えた月末は、「良いところですよ」「人も良いし、魚もうまいし」と言うと、太田は自分の来ている服の臭いを嗅いで、「服がカビ臭くて」「ずっと保管してもらってたから」と言います。
 そこで、月末が「そこらの店で服を買えば良いのでは?」とアドバイスすると、太田は服を着替えて、「お待たせしました」と言いながら現れます。

 さらに、在来線の駅に、「栗本さん 歓迎」のボードを持った月末がいます。
 月末は、栗本市川実日子)をアパートに連れて行きます。
 アパートでは、栗本が、段ボール箱に入った荷物から新聞紙に包まれた食器を取り出します。他方で月末は、掃除機を押入れの中に運び入れたりします。

 その他、月末は、大野田中泯)、杉山北村一輝)、それに宮腰松田龍平)を迎えに行くことになりますが、さあここからこの物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は6人の仮釈放された元受刑者を受け入れることになったある地方都市でのお話。主人公はその受入を担当することになった市役所職員。彼を中心にして、6人と地方都市の住人等との関わりが形成されるとともに、その地方都市における伝統的なお祭りも絡んできて、物語は思いもよらない方向に展開していきます。なかなか興味深いストーリーとはいえ、タイトルの「羊の木」の意味合いを始めとして、よくわからない感じが絶えずつきまとってもきます。

(2)本作は、原作漫画とは大幅に異なるストーリーが描かれているようです。
 例えば、第1巻だけを見ても、原作漫画の主人公が、映画には登場しない魚深市の市長だったり、本作の主人公で若い市役所職員の月末一が、原作漫画では中年すぎの仏壇店の店主だったり、原作漫画で魚深市が受け入れる元受刑者の人数も11人だったり(その全てが、本作のように殺人犯というわけではありません)、という具合です。

 映画化に際してそんな大胆な書き換えをするのであれば、例えば、登場する元受刑者の人数も3人位に絞り込んで、それぞれが刑務所に入ることになった経緯を描き出すなど、もう少しきめ細かく人物造形をしてみたらよかったのでは、と思ったりしました(注2)。

 それに、本作にはよくわからない雰囲気が終始漂っている感じがします。

 中でもよくわからないのは、タイトルの「羊の木」の意味合いです。
 本作では、冒頭に、上記(1)で示したような字幕が映し出され(注3)、また、栗本が、浜辺を清掃中に「羊の木」が描かれた古い缶の蓋(注4)を見つけて、自分のアパートのドアにぶら下げます。
 でも、本作では、「羊の木」について何も説明されません。
 ただ、劇場用パンフレットの「Key Word」に「羊の木とは?」という項目(注5)があって、「中世の時代、ヨーロッパでは「東方には羊のなる木がある」と信じられていた」と述べられています。
 ですがそれだけでは、本作のタイトルになぜ「羊の木」が使われたのかはわかりません。
 そこで、原作漫画にあたってみると、第1巻だけに過ぎませんが、そのP.49では、額縁に入った「羊の木」の絵が市長室に掲げられていて、魚深市の島原市長が「コロンブスの時代にヨーロッパの人々は 綿を「羊のなる木」と思っていたとか」「まったくうらやましくなるぐらい単純な発想だよ」「今の世の中では通用しないぐらいにね」「うらやましい」と独り呟く場面が描かれています(注6)。
 これからすると、あるいは「羊の木」とは、複雑な現代社会とは対極的な正義が貫徹される単純な世界を表すものといえるのかもしれません(注7)。
 とはいえ、本作のストーリーにそのことがどのように絡んでくるのかは、どうもはっきりとはしません。

 それから、本作で描かれる「のろろ」祭りの意味合いです。
 魚深市の伝統行事「のろろ」が映画では描かれますが、なんだか本作の物語とは遊離している感じがしたところです。
 無論、舞台とされる魚深市は地方都市ですから、伝統的なお祭りがあって当然でしょう。
 でも、本作で描かれるのは、酷く不気味さを湛えたお祭りですし(注8)、海岸べりの崖の上に聳えるのろろ様の巨大像(注9)の首が落ちて、その直撃を受けた宮腰が死ぬというのも、ことさらに伝奇小説じみていて、映画の雰囲気から逸れている感じがしました(注10)。

 もっと言えば、月末と石田文木村文乃)と須藤松尾諭)とが結成しているバンドです。
 このバンドは、月末と石田、それに石田と宮腰との関係を作り出す上で必要な設定なのかもしれません。
 でも、何かに出場するアテもない感じで、ただ3人で同じような曲を繰り返し練習だけしている様子が本作では描かれているところ、なんだか取ってつけたような雰囲気がどうしてもしてしまいます(注11)。

 総じて言えば、本作については、描かれている様々のエピソードや出来事などが、個別の話としては大層興味深いものの、ツギハギで集められていて、全体的なまとまり感が欠けているのでは、という印象を拭い去ることができませんでした。

 とはいえ、それらのことはどうでもいいのかもしれません。
 刑務所の経費削減と地方の過疎対策を狙って、一定数の受刑者を仮釈放することとした場合(注12)、彼らを受け入れた地方自治体でどんなことが起こるのかを描くという本作の基本的なアイデア(注13)は、なかなか面白いと思います。
 特に、地元の魚深市の市民と深く結びついた3人の元受刑者の様子は、観る者に何かしらの光を与えてくれることでしょう(注14)。

 また、主演の錦戸亮や、最近あちこちの映画で見かける木村文乃とか、6人の受刑者を演じた俳優は、それぞれ個性的な演技を披露していて素晴らしいと思いました。
 特に、宮腰を演じる松田龍平は、酷く難しい役柄を持ち前の演技力でとても上手くこなしているように思いました。



(3)渡まち子氏は、「ユーモラスかつスリリングな演出、俳優たちの妙演のアンサンブル、そこに浮かび上がる人間の本性。なかなか奥深い群像劇だ」として70点を付けています。



(注1)監督は、『美しい星』などの吉田大八
 脚本は、『クヒオ大佐』などの香川まさひと
 原作は、山上たつひこいがらしみきおの漫画『羊の木』(講談社)。

 なお、出演者の内、錦戸亮は『抱きしめたい―真実の物語』、松田龍平安藤玉恵は『探偵はBARにいる3』、木村文乃は『火花』、北村一輝は『無限の住人』、優香は『ブルーハーツが聴こえる』、市川実日子田中泯は『DESTINY鎌倉ものがたり』、水澤紳吾は『幼な子われらに生まれ』、松尾諭は『後妻業の女』、山口美也子は『朱花の月』で、それぞれ最近見ました。

(注2)漁船を操縦する杉山は誰に雇われているのかはっきりしませんし、太田が月末の父親(北見敏之)にいきなり強く惹かれてしまうというのも酷く唐突な感じがします。



 また、大野のヤクザぶりは随分と定型的な感じがしてしまいます。
 それで、これら3人の受刑者は省略して、宮脇や栗本、そして福元の過去などをもう少しきめ細かく描いてみたら、もっと映画の中に観る者が入り込めるのではないか、と思ったところです(特に、宮脇についても、杉山同様、魚深市での雇い主が全く現れないのはどうしてなのかなという感じがしました)。

(注3)出典が「東タタール旅行記」とされていますが、ネットで調べても該当する著書は見当たりません。あるいは、映画を観る者を煙に巻こうとして、制作側が作り出した字句かもしれません。

(注4)その「羊の木」の絵には5頭の羊が描かれていますが、原作漫画(P.49とかP.175)や、下記「注5」で触れる澁澤龍彦の本『幻想博物誌』の中に出てくる挿絵(P.13)では、4頭の羊が描かれています。ということは、5頭ということにそれほどの意味合いがないのかもしれません。
 なお、栗本は、魚とか亀などの死骸を、自分が住んでいるアパートの近くの地面に埋めて土饅頭を作っていますが、その数は5を超えているように思います(亀を埋めた土饅頭の頂上からは芽が出てきますが、あるいは「羊の木」になるのでしょうか?!)。



(注5)その項目では、「作家・澁澤龍彦も「スキタイの羊」というエッセイで詳しく触れている(河出文庫「プリニウスと怪物たち」)」と書かれていますが、当該エッセイは、河出文庫・澁澤龍彦コレクション『幻想博物誌』の冒頭にも掲載されています。
 なお、当該エッセイの中に、「スキタイの羊(「韃靼の羊」とも呼ばれる)」とありますから、ここでは、スキタイ=韃靼=タタールとされているのでしょう。

(注6)原作漫画の第1巻のP.175~P.176にも、市長が「最近はあの蜃気楼の街にこそ 「羊の木」の世界があるように思える」と言うと、友人の大塚(和洋食器店の主人)が「キミの家に代々伝わるあの銅版画か」と受け、さらに市長が「はじめて綿というものを見て 羊のなる木を連想する それを信じて疑わない単純さ まったくうらやましくなる世界さ」と言うと、大塚が「確かに今じゃありえないぐらい 牧歌的な世界だね」と受け、市長も「政治の世界にいると さらにそういう世界がうらやましくなる」「人間は何百年もかけて 正しいことなんか絶対に行われないシステムを作り上げてしまったんじゃないかとさえ思うよ」と言う場面が描かれています。

(注7)あるいは、仮釈放で刑務所から出所した元受刑者はすでに罪を償ったのだから、仮に現代が単純な発想をする社会であるとしたら、彼らを普通人としてすんなり受け入れるはず、にもかかわらず様々の問題が起きてしまうのは、「羊の木」が描かれた大昔のヨーロッパと現代社会が違ってしまっているからだ、ということなのでしょうか?
 でも、単純な発想の絵を書いているからと言って、その社会の構成員が社会生活を送る時に単純な発想になるわけではない、というのは言うまでもないことではないでしょうか?

 なお、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「羊の木―「不確実さ」を受け容れますか?」において、斎藤環氏は、「単純な因果律で考えるなら、「人を殺した人間」は服役後も危険人物のままであると考えるのが自然、ということになる」と述べています。
 確かに、そういう考え方もあるかもしれません。でも、そんな考えについて「そういう発想をする世界がうらやましくなる」と原作漫画の島原市長は述べるでしょうか、酷く疑問に思われます。
 また、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、脚本の香川まさひと氏は、「植物というのは、土地に根付いて、再生を繰り返すものですよね。それと同じように人間も、10年、20年とかかっても新たな土壌に溶け込んだり、何度も生まれ変われる存在であってほしい。たとえそれが「木から羊が生える」くらい、ありそうもないイメージだとしても」と述べています。
 ただ、この見方では「羊の木」という具体的なイメージにまで、ちょっと結びつかないように思えますが。
 ともかく、同じ記事で香川氏が言うように、「観た人によっていろんな解釈ができるのが、「羊の木」という話の面白さ」といったところでしょう。

(注8)なにしろ、KKKのようなのろろ様の一行が練り歩くにしても、見てはいけないということで、人っ子一人歩いていない大通りを進むのですから、陰気なことこの上ありません!

(注9)巨大像は縄文時代の土偶にそっくりにもかかわらず、祭りに登場するのろろ役が被る被り物は魚の頭部を象っているのも変な感じがしました。
 それと、すでに指摘されている点ですが、漁港から離れた海岸べりの崖の上から落下したはずの巨大像の頭部が、漁港の海底から引き上げられるというのもわけがわからないところです(海に落ちてからそこまで海底を転がってきたというわけなのでしょうか)。

(注10)原作漫画における「のろろ祭り」の不気味さは、原作漫画全体が醸し出す不気味さにマッチしているように思われますが、本作の全体からは不気味さは立ち上ってきませんので、「のろろ祭り」が浮き上げっているような感じがします(原作漫画の不気味さは、登場人物の大半が中年過ぎで、その顔付きなども殊更歪んでいるところから来るように思われるのですが、これに対して本作の登場人物は、イケメンの若者・青年が多く、不気味な感じがしません)。

(注11)リードギター担当の石田が都会に出ていた間は休止していたはずのバンドが、石田が帰郷すると直ちに再開するというのも、唐突すぎる感じがするところです(その間、3人は心境の変化など何もなかったのでしょうか?)。

(注12)月末の上司の課長は、迎えた6人の様子がおかしいことから疑問をいだいた月末に対し、「このプロジェクトには日本の将来がかかっている」「刑務所に入っている者を仮釈放するには、身元引受人が必要だ。今回、地方自治体が彼らを引き受けることになった」「彼らは、刑期が大幅に短縮されて、仮釈放されることになった」「10年間、当地に定住することが条件になっている」「彼らの勤め先などには、個人情報保護の観点から、こういったことは伝えていない」などと説明します。
ただ、原作漫画のように元受刑者の受入人数が本作の倍近くの11名であっても、そのオーダーであれば、過疎対策としてはとても効果は期待できないでしょうが。

(注13)これは本作のフレームワークにすぎず、実際のところは、吉田監督は「この映画を“友情”(あるいは、「誰かを受け入れる感覚」とも言いかえられると監督は述べています)についての物語にしたいと思うようになった」と述べていますし、脚本の香川まさひと氏は「今回は謎と向き合った際の主人公の困惑や戸惑い、ざわついた皮膚感覚のようなものを、その瞬間ごとに観ている人が体感できる映画にしたかった」などと述べていたりします(いずれも、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事から)。
 要すれば、本作は、様々の観点から議論できる作品となっているというわけでしょう。
 その点からしたら、本作は、月末と石田とのラブストーリーと把握することもできるかもしれません(とはいえ、ラストの方で、それまで月末を冷たくあしらっていたはずの石田が、海に落ちた月末に向かって大声で「月末―ッ」と叫ぶに至るのか、その経緯がよくわからないという問題があるように思いますが)。

(注14)逆に、本作では地元民の雇用主が明示的に描かれていない宮腰と杉山が死亡するというのも興味深い点です。そうだとすると、同じように、雇用主が明示されない栗本は、この先どうなってしまうのか、心配になるところです。



★★★☆☆☆



象のロケット;羊の木


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嘘を愛する女

2018年02月05日 | 邦画(18年)
 『嘘を愛する女』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編を見て面白いのではと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の時点は、東日本大震災が起きた2011年3月11日。
 人々が、電車から駅のホームに吐き出されます。
 主人公の由加利長澤まさみ)が、満員の電車で気分が悪くなったのでしょう、通勤客の間をフラフラと歩いています。
 とうとう、階段の手すりにつかまりながらしゃがみ込んでしまいます。
 駅のアナウンスが「ゆっくり、慌てずに行動してください」と注意を呼びかけます。

 そこに男(小出桔平高橋一生)が現れて、「大丈夫ですか?」「ちょっと座りましょう」「ゆっくり息をして」と言いながら、由加利の顔を見ます。

 次の場面は、マンションの前。
 タクシーが到着し、運転手が由加利に「お客さん、着きましたよ」と声をかけます。
 それで、それまで寝ていた由加利は目を覚まします。

 車を降りた由加利は、自分の家の前まで来て、ベルを鳴らします。
 中から桔平がドアを開けて、「お帰り」と言って、由加利を迎え入れます。

 翌朝、由加利は「だるい」と言いながら居間に入ってきます。
 桔平がおもちゃの超合金ロボットのカタログを見ているのを見て、由加利が「また見てるの?」「それは持ってるでしょ」と言うと、桔平は「俺が探しているのにぴったりなんだ」などと答えます。
 その後由加利は「今日はまっすぐに帰ります」と言って、出勤します。

 由加利が勤務する食品メーカーでは、由加利が商品の味を調べたりするところを雑誌社のカメラマンが撮影しています。
 さらに、記者の質問に由加利が「半歩先の商品を開発するのが、私の仕事です」などと答えると、記者は「上手く行けば、2年連続でウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれるのではないでしょうか」などと持ち上げます。

 また、由加利たちの家。



 由加利が、「お母さん来るって」「表参道でパンケーキを食べたいだって」「キッちゃんもどおって」「一緒に食べたいんだって」と言うと、桔平は「うん」と曖昧にうなずきます。

 ですが、待ち合わせの時刻がかなり過ぎても、由加利とその母親が待つ店に桔平は姿を見せません。
 ここから、本作の物語が動き出しますが、さあ、どのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、キャリアウーマンとして第1線でバリバリ働く主人公の女が、ふとしたきっかけで知り合った男と同棲しますが、5年後にその男がクモ膜下出血で倒れた時に、その男のすべてが嘘と分かり、主人公は探偵を雇ってその過去を調べていくと、…、という物語。過去を探る話はまずまずながら、判明した過去が2人のこれからの人生にどのような影響を及ぼすのかなどについて何も語られておらず、単に調べてみただけで終わっていて、一つの作品としてのまとまりに欠けているように思いました。

(以下では、サスペンス的な要素を持っている本作について、相当程度ネタバレしておりますので、未見の方は十分に注意していただきたいと思います)

(2)本作は、タイトルに「嘘」とあるからでしょうか、何かとわからなさがつきまといます。
 例えば、主人公の由加利と桔平との同棲生活は5年も続いているところ、その間、桔平の職業等に関するに嘘について何もバレなかったというのは考えられない気がします(注2)。

 本作では、由加利のところにやってきた刑事(嶋田久作)によって、桔平の持つ運転免許証の記載内容がでたらめであることを知らされ、さらに桔平が病院で着用していたはずの名札についても、由加利がその病院に行って尋ねるとすべて嘘だったことがわかります。
 とはいえ、運転免許証の記載内容について他人が確認することなど普通考えられないにしても、同棲相手の勤務先に5年間1度も連絡しなかったなどということがありうるのでしょうか(注3)?

 また、本作では、30歳を過ぎた由加利は、桔平とそろそろ結婚しようかと考えていて、母親が上京する機会をとらえて、桔平に母親を会わせようとします。
 そうであれば、由加利は桔平に、出身地やその家族や友人のことなどを、それまでに尋ねているはずです。少なくとも、「あなたのことをもっと知りたいから友人でも紹介して」というくらいのことは言うのではないでしょうか?
 でも、その後の由加利の言動からすると、デタラメにせよそうしたことを彼から聞いたフシがまるでうかがえません(注4)。
 なにしろ、桔平の過去を調査するに際し手がかりとなったものは、桔平が書いた小説だけなのですから。

 その由加利と探偵の海原吉田鋼太郎)による桔平の過去の調査行ですが、それによって明らかになった事柄が今後の2人の関係にどのように影響を及ぼすかが何も描かれていないために(注5)、単に調べただけに終わってしまっている感じがするところです。

 さらに言えば、タイトルが「嘘を愛する」とされていながら、ヒロインの由加利はどこまでも真実を追求する姿勢をとっているのはどうなのかな、と思ってしまいました。
 由加利が本当に“嘘を愛する”女であるのなら、勤務先とされる病院に「小出桔平」なる人物が存在しないとわかった段階で、桔平の“真実”などを調べようとはしないのではないでしょうか?その後の由加利の行動は、むしろ、どこまでも“真実を愛する”女の姿だったように思われます(注6)。

 とはいえ、由加利は、「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたほどの優秀なキャリヤウーマンであり、ここまで主体的に道を切り拓いてきた女性でしょうから、自分が愛する男性が単なる嘘つきでいい加減だったと思いたくはないでしょう。
 それで、詰めの段階になって怯んだりすることもあったりしますが、由加利は、桔平の背後にはきっと何か重大な秘密があるに違いないとして、執拗な調査を続けてしまうのでしょう。
 そして、探偵の海原と一緒になって明らかにした真実を踏まえて、由加利は、意識を回復した桔平と暮らしていくことになるでしょう(注7)。

 その場合、由加利は、明らかになった真実を、意識が戻った桔平には漏らさないで、むしろ、彼が創作した話の方を信じるふりをして今後とも生きていくのかもしれません。
 でも、早晩、2人は結婚式をあげることになると思われるところ、結婚式やその披露宴に親類縁者とか友人を招待しようとした時に、嘘がバレることになる(あるいは、桔平は真実を告白せざるを得なくなる)のではないでしょうか(あるいは、婚姻届だけで済まそうとするかもしれません。でも、それを提出する時には戸籍謄本(あるいは抄本)が必要になり、それを取り寄せた際にバレることになるとも考えられます)?
 そうであれば、由加利にとっては、むしろ、桔平に真実を知っていることを早めに明かして、嘘をついて真実から目をそらすのではなく、真実に真っ直ぐに対峙して生きていくべきだと桔平を説得する方がベターではないか、とも思えるところです。

 それはともかく、ヒロインの由加利を演じる長澤まさみは、『散歩する侵略者』に引き続いて、なかなか質の高い演技を披露しているなと思いました。



 また、映画は、昨年ブレイクした高橋一生からその魅力をうまく引き出しているなと思いました。



(3)渡まち子氏は、「謎めいた疑惑で始まるが、着地点は少々拍子抜けしてしまった。長澤まさみ演じる由加利と、吉田鋼太郎扮する探偵のバディ・ムービーとして楽しむと、意外な味わいがあるかもしれない」として50点を付けています。



(注1)監督は中江和仁
 脚本は、中江監督と近藤希実。

 なお、出演者の内、長澤まさみは『散歩する侵略者』、高橋一生は『ゾウを撫でる』、吉田鋼太郎は『ミックス。』、川栄李奈は『亜人』、黒木瞳は『箱入り息子の恋』で、それぞれ最近見ました。

(注2)ただし、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、中江監督は、「高校時代に辻仁成さんのエッセイを読んだことがきっかけです。その中に実際に起きた事件のことを題材にしたエピソードがありました。その事件とは、50代のある男性が病気になりながらも全く病院に行こうとせず、その行動を不思議に思った内縁の妻が男の素性を調べたところ、名前はおろか、すべてが嘘だったというもの」と述べていて、実際にも起きた出来事が題材となっているようであり、本作で描かれていることは起こり得ないと言い切ることは出来ないかもしれませんが。
 なお、その中で言及されている「実際に起きた事件」とは、この新聞記事(1991年11月4日の朝日新聞)で書かれている事件のようです。

(注3)本作では、刑事の訪問の後に、由加利が桔平の鞄を漁って名札を見つけ、そこに記載されている病院に駆けつけることになっています。そうであれば、由加利は、5年間、1度も勤務先に連絡を取らなかったことになるでしょう。
 尤も、携帯で連絡し合うのであれば、わざわざ勤務先に電話をかける必要はありません。
 ただ、院内への携帯の持ち込みが制限されていたり、携帯が使えないエリアが設けられていたりして、外部から院内の医師に連絡を取るに際しては、病院の固定電話に電話をかける必要があるように思います(なお、医師が所持している「医療用PHS」は、院内での連絡に使われるものだと思われます)。

(注4)上記「注2」で触れた朝日新聞記事によれば、過去がわからない病死した男性は、桔平とは異なり、「「過去」について雄弁だった」そうですが。

(注5)例えば、桔平が隠そうとした事実を眠っている桔平の耳元で呟くことによって、桔平の意識の回復を促そうとするなど、過去のことが現在に関わりを持つように描くこともできるのではないでしょうか?

(注6)由加利は、眠っている桔平に対し、「自分も嘘をついていた」「自分も浮気をしたことがある」「おあいこだね」などと呟きますが、彼女が“嘘を愛する”女であれば、いくら相手に意識が戻っていないとしても、そんな“真実”を言おうとも思わないのではないでしょうか?

(注7)桔平が隠そうとした出来事の核心には、自分が医師の仕事に熱中してしまい家庭を顧みなかったことによって、妻が精神的に大層不安定になってしまい、その結果、愛娘が湯船で溺死してしまったのだ、要すれば、自分が愛娘を死に追いやってしまったという後悔の念があるように思われます。
 それで、桔平は、過去の自分を消去せずには生きていられなかったと考えられます。
 でも、そうであったなら、どうして桔平は、嘘の名前で医師になりすまそうとしたのでしょうか?医師の場合には、調べればすぐに経歴の嘘がバレてしまうのですから(それに、医師の仕事の忙しさが愛娘の死をもたらしたと考えているとしたら、そしてそれを悔いているとしたら、違う職業を選ぶのではないかと思います)。
 でも、他方で由加利は、桔平がそうした人物であることが判明して、自分の選択は間違っていなかったと考えたのかもしれません〔それに、桔平が、秘かに書いていた小説に登場する少女に由加利と同じような身体的特徴(耳の後のホクロ)を与えていることを知って、なお一層、桔平に対する愛を深めたかもしれません〕。



★★★☆☆☆



象のロケット;嘘を愛する女

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キングスマン  ゴールデン・サークル

2018年01月22日 | 洋画(18年)
 『キングスマン  ゴールデン・サークル』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『キングスマン』の第1作目がなかなか面白かったので、その続編もということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、エグジータロン・エガートン)が、ロンドンのサヴィル・ロウの高級テーラー「Kingsman」から出てきて、店の前に置かれたタクシーに乗り込もうとしたところ、男が近づいてきて、「エグジー、乗せてもらえるか?」と言います。



 エグジーが、男がキングスマンの元候補生だったチャーリーエドワード・ホルクロフト)であることに気付いた時は遅く、チャーリーはピストルをエグジーに向けて、「車のドアを開けろ」と命じます。
 エグジーは、仕方なくドアを開けて、チャーリーを車の中に入れます。
 タクシーは発進しますが、中では2人が戦い、タクシーをチャーリーの仲間の車が追います。

 車の中で、エグジーがピストルを撃っても、チャーリーは、特別な鋼鉄製の右腕で弾丸を防ぎます。
 エグジーは車の外に投げ出されますが、なんとかバンパーに掴まって、後部のトランクを突き破って車内に入り込みます。
 すると、運転手がチャーリーに殺られてしまい、車は石柱に衝突して停まります。
 そこに追いかけてきた3台の車が接近してくると、エグジーが運転する車は真横に走り出します。
 車の外に出ていたチャーリーは、仲間に「始末しろ」と命じます。
 仲間は、エグジーが乗る車めがけて機関銃を放ちます。

 エグジーは、車内から、本部にいるマーリンマーク・ストロング)に応援を求めますが、「南へ進め」と命じます。
 車はハイドパークに入り込みます。
 エグジーがマーリンに攻撃許可を求めると、マーリンが「いいぞ」と応じるので、エグジーは車から3発のミサイルを発射して、追跡してきた3台の車を仕留めます。
 そして、車は湖の中に入り込み水中を進みます。

 エグジーは車をトンネルの中に入れ、自分は下水管に入り、マンホールから地上に出ます。
 後に遺された車の中には、チャーリーが残していった右腕が動き出して、座席に仕込まれていたパソコンを操作します。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあここから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作では、第1作で活躍したハリーコリン・ファレル)も登場しますが、専ら、その後継者のエグジーが、アメリカの諜報組織の手助けを受けながらも、世界最大の麻薬組織ゴールデン・サークルを壊滅すべく、様々の武器を使って戦います。荒唐無稽と言ったらそれまでですが、イギリスの諜報組織「キングスマン」に所属するエグジーとハリーが見せるアクションシーンは、なかなかも見ものです。



(2)同じシリーズですから、前作と本作とが似通ってくるのは当然でしょうが、それにしても本作は前作と随分と似通っている感じがします。
 例えば、前作のヴィランは大金持ちのアメリカ人・ヴァレンタインサミュエル・L・ジャクソン)でしたが、本作のヴィランも同じようなアメリカ人のポピージュリアン・ムーア)ですし、前作のヴァレンタインは、世界中にSIMカードを大量にバラ撒いて人口を減らそうとしたのに対し、本作のポピーは、自分が大量に供給する麻薬にウィルスを注入し、世界中の麻薬使用者を死の淵まで追い込みます(注2)。



 また、本作でも前作同様、ハリーが手にする傘が活躍しますし、記憶障害のハリーに強烈な刺激を与えて記憶を蘇らせようと、彼が暮らしている部屋にいきなり大量の水を注入しますが、これは前作で描かれたキングスマン採用試験における水攻めと類似しています(注3)。

 もっと言えば、本作で活躍するのはキングスマンという諜報組織ですが、本作でも前作同様に、諜報活動そのものは余り描かれずに、その結果を踏まえてのゴールデン・サークルとの対決場面の方に重点が置かれています(注4)。
 そのためでもあるのでしょう、本作も、前作同様に、セクシーな場面が、そんなに多くはないように思えます(注5)。

 さらには、前作で見られたアメリカに対する揶揄の味付け(注6)が、本作でもいろいろと見受けられます。
 なにしろ、壊滅してしまったキングスマンが支援を仰いた「ステイツマン」はアメリカの諜報組織で、ボスはシャンパンジェフ・ブリッジス)、エージェントとして、カウボーイ・ブーツを履きショットガンのマーリン1895SBLを使うミスター・アメリカンのテキーラチャニング・テイタム)とか、レーザー投げ縄「ラッソ」やコルトSAAを操るウイスキーペドロ・パスカル)(注7)、それにメカ担当のジンジャーハル・ベリー)がいて、いろいろ動き回るのですから(注8)。

 逆に、違っている点もいろいろあります。
 上に記したことも、別の観点から見れば違っていように見ることも出来ますし(注9)、また例えば、本作にはエルトン・ジョンが登場しますが、ほんの少し顔を見せるのだろうと思っていたら、意外と出番があるので驚きました(注10)。

 なお、本作のヴィランのポピーは、麻薬の合法化のためと自分の行為を理屈付けているところ、その議論の妥当性(注11)については別の機会に譲るとして、本作で気になったのは、アルコールの方です。
 なにしろ、麻薬には問題があるとして、「ゴールデン・サークル」の壊滅にキングスマンやステイツマンが命をかけて一生懸命となるのに反比例するがごとく、本作の登場人物が、ウイスキーやカクテルなどのアルコール類を、一時のタバコのように、無闇矢鱈と口にするのです。

 でも、今月の12日に『東洋経済Online』に掲載されたこの記事によれば、「英ケンブリッジ大学の研究チームが、アルコールの摂取がDNAを損傷して、がんのリスクを高めると発表した」とのこと(注12)。
 また、同記事によれば、英国のがん研究所は、「(がんになる)リスクは、ワインやビール、蒸留酒などアルコールの種類とは無関係で、飲む量についても「がんに関しては安全な飲酒量などない」と断言している」そうです。
 こうした研究については、タバコについて、ガンと喫煙との間に疫学上の関係性があるのかないのか長い間論争が続けられていることからもわかるように(注13)、簡単に評価できるものではないのかもしれません。
 ですが、本作のように、実にあっけらかんと飲酒場面が様々に描き出されているのを見ると、スパイ物に硬いことは言いっこなしながらも、少々行き過ぎなのではと思えてしまったところです。

(3)渡まち子氏は、「型破りでハチャメチャな中に、愛する場所から遠く離れた人々のノスタルジーを織り込んだ点がニクい。なかなかスミに置けない続編だ」として70点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「英米の豪華スターが揃って真摯に取り組むお遊び芝居には、新春顔見世興行を思わせる華がある」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 森直人氏は、「もともと冷戦時代の東西対立を背景にしたジャンルであるスパイ映画を、現代の世界像に置き換えたパロディー的な構造が持ち味。今回は悪ノリが暴走し、もはや怪作の領域である」と述べています。
 毎日新聞の山口久美子氏は、「今回もストーリーはわかりやすく、派手なアクションが盛りだくさん。でも2時間20分ともなると、それにも疲れてくる。今回の見どころといえる英国文化を重んじるキングスマンとコッテコテのアメリカ人とのすれ違いも、小ばかにしているようであまり笑えない」と述べています。



(注1)監督は、『キングスマン』や『キック・アス』などのマシュー・ヴォーン
 脚本は、ジェーン・ゴールドマンとマシュー・ヴォーン。

 出演者の内、コリン・ファースは『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』、ジュリアン・ムーアは『マギーズ・プラン―幸せのあとしまつ―』、タロン・エガートンマーク・ストロングソフィー・クックソンは『キングスマン』、ハル・ベリーは『ザ・コール 緊急通報指令室』、チャニング・テイタムは『ヘイル、シーザー!』、ジェフ・ブリッジスは『トゥルー・グリット』、マイケル・ガンボンは『カルテット! 人生のオペラハウス』で、それぞれ最近見ました。

(注2)ポピーの目的は、自分の取り扱っている麻薬の合法化で、それが認められれば解毒剤を供給すると、アメリカ大統領を脅迫します。
 前作のヴァレンタインも、人口の急激な増加によって地球の環境が破壊されており、地球を救うためには人間の数を減らさなくてはならないと考え、世界中にSIMカードを大量にバラ撒きました。
 2人のヴィランが、悪事の理由にもっともらしいことを掲げるのは、マシュー・ヴォーン監督によれば、「悪役にもしっかりと理由付けをする必要があるし、僕はそこに人々が考えさせられる問題を作りたいんだ。ヴァレンタインにしたってポピーにしたって、その解決策はとても良いものではないと思うけれど、人々がディスカッションしたり、議論したり、考えられるものを与えたかった」から、ということによるようです(この記事)。

(注3)前作の水攻めテストでは全員が失格と判定されますが、本作の水攻めでも、ハリーの記憶は蘇りませんでした。

(注4)なにしろ、前作でも、キングスマンのリーダーのアーサーマイケル・ケイン)は、ヴァレンタインに操作されているとしてエグジーに殺られてしまいますが、本作の場合も、敵の組織ゴールデ・サークルが放つミサイルによって、リーダーのアーサーマイケル・ガンボン)らは簡単に殺られてしまうのですから、組織的な行動をなかなか取ることが出来ません。

(注5)尤も、エグジーは、ポピーの手下のチャーリーの恋人クララポピー・デレビンニュ)の体内に追跡装置を注入するシーンがありますが。そのために、エグジーはクララとベッドインするのですが、愛する王女ティルデ(ハンナ・アルストロム)の許可を得られずに、………。

(注6)『キングスマン』を巡る拙ブログのエントリの(2)において、「イギリスのキングスマンは、教官のマーリンが「チームワークが大切」とは言いながらも、あくまでも個人個人で敵に向かうのに対して、敵のアメリカ人大富豪・ヴァレンタインは数量で立ち向かってくるように見える」などと申し上げました。
 なお、本作の劇場用パンフレット掲載の町山智浩氏のエッセイ「英国紳士とカウボーイ、イギリスとアメリカの間に育ったマシュー・ヴォーン」が参考になるでしょう(町山氏の指摘によれば、マシュー・ヴォーン監督は「イギリス人の労働者階級の母と、イギリスを訪れたアメリカ人俳優ロバート・ヴォーンの間に生まれた婚外子」だったとのこと←同氏は、さらに「生物学的な父はヴォーンではなく、英国貴族だった」と述べています←Wikipediaを参照)。

(注7)ここらあたりの銃については、こちらの記事が参考になります。

(注8)尤も、テキーラは、登場するだけで余り活躍はせず、やや肩透かしの感じですが。



(注9)例えば、前作のヴィランのヴァレンタインは男ですが、本作のヴィランのポピーは女ですし、またポピーは、本拠地にしているカンボジアの「ポピーランド」の外に出られないのに対し、ヴァレンタインはアメリカのみならず、アルゼンチンの山小屋などに基地を持っていて、あちこちに出没します。
 ただ、アルゼンチンの山小屋は、本作におけるイタリアの秘密工場に類似しているようにも思われます。

(注10)マシュー・ヴォーン監督は、「実は前作の時もオファーをしていたんだが、実現しなくて。続編では映画をパワーアップさせるため、ぜひ彼に出てもらい、アクションシーンをしてほしかった」と語とか立っています(この記事)。

(注11)上記「注6」で触れた町山氏のエッセイでは、「この話はドラッグを肯定しているのか否定しているのか、考えれば考えるほど混乱する」として、「現在、欧米ではドラッグの供給源を取り締まるために、個人使用の非犯罪化が進んでいる」、「それを反映して、(本作の)ドラッグ使用者は、みんないい人ばかりだ」などと述べています。
 でも、麻薬取り締まりの厳しい日本の現状からしたら、そんな議論は机上の空論なのかもしれません。

(注12)記事によれば、「英ケンブリッジ大学のケタン・パテル教授率いるチームが、英MRC分子生物学研究所で行った研究について、科学誌『ネイチャー』に発表した」もののようです。

(注13)例えば、JTによるこの記事



★★★☆☆☆



象のロケット:キングスマン: ゴールデン・サークル


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ニューヨーク、愛を探して

2018年01月20日 | 洋画(18年)
 『ニューヨーク、愛を探して』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)ネットの紹介記事などを見て、なんとなく良さそうだなと思って映画館に行ってきました。

 本作の冒頭(注1)では、リグビーセルマ・ブレア)が、カメラにフィルムを入れたりして撮影の準備をしています。
 次いで、ライブ会場。
 リグビーは、舞台で上半身裸で歌うリード・ヴォーカルのクインルーク・ミッチェル)を狙って、そのそばを動き回りながらシャッターを切ります。

 次いで、リグビーのモノローグ「母親の感覚を持ったのはいつ?」「世界の見方を決めた時」「私はその瞬間を覚えている」。
 そして、幼い頃のリグビーと母親との会話が挿入されます。
 幼いリグビーが、アパートの窓を見て「あれは何?」と尋ねると、母親は「額縁よ」「あの部屋では、クリスマスツリーを作っているの」などと答えます。
 そして、リグビーのモノローグ「どの額縁にも物語がある」。

 今度は、下着デザイナーのジョージナミラ・ソルヴィノ) の部屋の中。
 ジョージナが鏡に向かって化粧をしています。
 同居しているモデルのセバスチャンクリストファー・バックス)が、「化粧品はいつでも持っている」「そんなメイクの仕方では台無しだ」などと話します。

 ジョージナは、自分がデザインしたブラのことで、TV番組に出演します。
 MCが「いままでにない製品と思いますが、どういうコンセプトで?」と尋ねると、ジョージナは「より美しいシルエットを作り出しながらも、値段はお手頃なところに」と答えます。
 さらに、MCが「下着のままでも街を歩けそう」と言うと、ジョージナは「機能性とファッション性が重要です」と答えます。

 番組が終わると、セバスチャンは「上出来だった」と言います。

 こんなところが本作のホンの始めの方ですが、さあここからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 でも、本作で映し出される物語のあまりの酷さに、呆気にとられてしまいました。
 例によって、主人公(注2)は、今や羨望の的のカメラマンで、それも女性。登場する男性は、皆女性の添え物的存在。そして、ニューヨークで暮らす相互にあまり関係がない5組の母親と娘の関係が綴られます(注3)。どの話も似たり寄ったり。映画料金を返してくれと言いたくなります。

(2)例えば、カメラマンのリグビーは、上記(1)でも記したように、バンドのリード・ボーカルのクインのライブ活動などを写真に収めていて、彼から1年間ツアーに同行して写真を撮ってくれないかと言われ、大いに張り切ります。
 彼女は、妊娠が判明しても(注4)、ツアー同行を優先するために、中絶を考えます。そうしたところ、クインが、泥酔している女の子をレイプしようとするのを目にして、その女の子を救出する一方で、たちどころに中絶は取りやめにして、歳をとった時に一人きりになるのは堪えられないという理由から、子供を産むことになります。
 でも、見ている方は、「エッ、そんなに簡単に考え方を変えてしまうの」「事務所を開設して大々的にやっていこうという計画はどうなるの?」などと思ってしまいます(注5)。

 おまけに、クインの方は、リグビーの剣幕に気負されたのか酷く反省して、離れて暮らしている母親に電話して、「今、自分は危機に瀕している」「どうか、一緒に暮らして、自分を見守ってほしい」などと、マザコン全開の願い事をする有様。「上半身裸でロックを歌っている時のあの姿はいったい何なんだ」と言いたくもなります。

 また、レベッカクリスティーナ・リッチ)の場合、産まれた時から母とされた人が実際には祖母であり、叔母(母の妹)だと言われていた人(ベスコートニー・コックス)が実のところ母だと最近になって判明し、20年以上にわたって親が子供に嘘をついていたのかと怒って、家を飛び出してしまいます。
 ですが、すぐ後に、最近亡くなった祖母の残してくれた謝罪の手紙を読み(注6)、祖母が230万ドルもの大金を自分と弟・トニー(注7)に残してくれたことがわかると、たちどころに両親との関係は元通りの円満なものに戻ってしまうのです。
 まるで、大金を手にした途端に、2人の子供は、それまで頭にきていたことを綺麗サッパリと水に流してしまった感じなのです。
「何なんですかこの話は!」と叫びたくなります。

 とてもこんな底の浅いつまらないお話に付き合ってはいられないと、さすがのクマネズミも、後半になると眠気に襲われました(注8)。
 要すれば、との話も、当初、重大な葛藤が母娘間にあるように見せながらも、しばらくすると、ホンのちょっとしたきっかけで両者は和解してしまい、結局ハッピーエンドで終わるというパターンの繰り返しでしかないように思えます。
 少なくとも、5組の物語にもっと繋がりをつけて、例えば、カメラマンのリグビーがどの話にも登場するといったような何かしらの工夫を凝らすべきではないのか、と思いました。それでも、つまらなさは救い難いでしょうが(注9)。



(注1)監督・原案はポール・ダドリッジ(本作が監督デビュー作:なお、この記事によれば、Nigel Levyとの共同監督とされています)。
 脚本はペイジ・キャメロン。
 原題は『Mothers And Daughters』(2016年)。
 なお、本作は、2017年8月にWOWOWで放映されているようです。

 また、本作でゲイルエヴァ・アムリ)の母親役を演じるスーザン・サランドンは、『ランナウェイ 逃亡者』や『ソリタリー・マン』で、見ています。

(注2)リグビーは、主人公というよりも、本作に最初に登場する女性にすぎないともいえます。

(注3)ただし、下着デザイナーのジョージナの話は、ファッション雑誌編集長・ニーナシャロン・テート)とその娘のレイラアレクサンドラ・ダニエルズ)との話に繋がってきますが。

(注4)リグビーは、元の鞘に収まりたいと言って別れていったばかりの男との間にできた子供を妊娠したのでしょう。

(注5)加えて、妊娠している自分を診てくれたイケメンの産科医コンラッドデイヴ・バエズ)と、リグビーは一緒になってしまうなんて(まあ、これはご愛嬌でしょうが)。

(注6)母親のベスがレベッカを妊娠した時の年齢は15歳で、相手のピーター(大人になってからポール・アデルステイン)も17歳。それで、祖母は二人の仲を引き裂いて、レベッカを娘として育てざるを得なかったという事情が手紙には書かれていました。

(注7)よくわからないのですが、レベッカの弟ケニーは、誰がいつ生んだのでしょうか?
本作によれば、ベスの相手だったピーターは、長い間軍隊に入っていて、その間ベスとは交際していなかったようなのですが。それに、ケニーに対しては、祖母やベスとの関係をどのように言っていたのでしょう?本作では、ケニーも、レベッカと同じように、ベスやピーターの態度を怒っているようなのですが。

(注8)尤も、こうした感想を抱くのは、クマネズミが本作の細部を誤解しているからかもしれませんし、あるいはクマネズミが男性であるためなのかもしれませんが。

(注9)本年1月18日にTBSTVで午後8時から放映された番組「メイドインジャパン」では、5歳と7歳の幼い姉妹だけでイギリスへ“はじめてのおつかい”をする話が取り上げられていました。
 もう少し言えば、母親の強い反対を押し切って日本に嫁いできてしまい、母親との関係が険悪になってしまった娘が、自分の幼い子供たちに日本の「こたつ」を届けてもらって、母親との関係をよくしようとする話です。実話ベースの話であり、登場するのが幼い姉妹であるという点で、本作で描かれるいろいろなエピソードよりも、一つだけでもずっと感動的に思えました。
 〔ただ、実際には、幼い姉妹に同行した番組スタッフの方から様々なサポートがあったように思われ、ある意味で“やらせ”なのかもしれませんが〕



★★☆☆☆☆

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希望のかなた

2018年01月17日 | 洋画(18年)
 『希望のかなた』を渋谷ユーロスペースで見てきました。

(1)カウリスマキ監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、フィンランドのヘルシンキ。
 夜になって、貨物船の船倉に積み込まれた石炭の中から、真っ黒になった男(カーリドシェルワン・ハジ)が顔を出します。
 カーリドは、船倉から階段を上ってデッキに向かいます。船室では、船員がテレビを見ています。カーリドは気付かれないように傍を通り過ぎ、船に取り付けられているタラップを降りて、港に降り立ち、あたりを見回します。

 場面は変わって、1軒の住宅の中。時刻は夜中の12時。
 その家の主人のヴィクストロムサカリ・クオスマネン)は、鏡の前に立ちネクタイを締めています。
 それから、上着を着て、トランクを持ちます。
 妻(カイヤ・バカリネン)は、椅子に座ってタバコをくゆらせながら、夫の行動を見守っています。



 ヴィクストロムは、黙ったまま家の鍵と結婚指輪を机の上に置いて、その家を出ていきます。
 妻は、置かれた指輪を灰皿の中に入れ、空になったコップに酒をつぎ、飲み干します。

 ヴィクストロムは、駐車場に置かれている車の中に荷物やトランクを積み込み、エンジンを掛けて出発します。
 その前を、カーリドが歩いて横切ります。

 次の場面では、ストリート・ミュージシャンがギターを弾きながら、「あゝ母さん ランプを明るくして もうすぐこの世を去る俺に ………冷たい土の下で眠りにつく俺に」と歌います。

 ヴィクストロムは、簡易宿泊所に泊まります。

 街中を歩いていたカーリドは、ギターを弾いて歌う男を見ると、その前の箱にお金を入れ、「シャワー?」と尋ねます。すると、ギターを引く男は、カーリドを駅のシャワー室に連れて行きます。
 カーリドがシャワーを浴びると、下から黒い水が流れ出てきます。

 カーリドは洗面所で身だしなみを整えて、警察署に赴きます。
 受付で、「難民認定の申請をします」と言うと、受付は「ようこそ、こちらへ」と言って、事務室に連れていきます。
 カーリドは写真を撮られ、また身体測定をされ(注2)、両手の指紋もとられます。
 その上でカーリドは、収容施設に入れられます。



 こんなところが本作の始めの方ですが、さあここからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、フィンランドのカウリスマキ監督の作品で、シリアからの難民の青年をめぐるお話。同青年は、はぐれてしまった妹を探すうちにフィンランドに入りこんだわけですが、難民申請を出すも当局から却下されたりする一方で、レストラン経営者に助けられたりもします。難民について様々な角度から光を当てている作品ながら、ただ本作では一人の難民に焦点を合わせているために、欧州が直面している問題の大きさを理解できない憾みがあるような気もします。

(2)主人公のカーリドは、内戦の続くアレッポからヨーロッパへ脱出してきたシリア人として描かれていて(注3)、上記(1)に記したように、正規の窓口に出向いて難民申請をするのですが、却下されてしまいます(注4)。
 確かに、昨年3月のこの記事を見ても、アレッポにおける戦闘は終結しているようですから、フィンランド当局が、カーリドの送還を決めても仕方がないのかもしれません。
 ですが、アレッポの現状は、とても人が住めないほど破壊しつくされている上に、カーリドは、はぐれてしまった妹・ミリアムニロズ・ハジ)をなんとか探し出したいという強い願いがあるのです。

 そこで、カーリドは収容施設を脱走します。
 その際、出会って手を差し伸べてくれたのがヴィクストロム(注5)。
 ヴィクストロムは、それまでは、本作の主な流れとは全く別の物語の中にいました(注6)。
 いかついた年寄りくさい顔をして、余り話をしないところから、ヴィクストロムがそんな行動に出ると、奇異な感じを受けてしまいます。
 でも、ラストの方では、従業員と一緒になってレストランの業績を回復させようとしたり(注7)、別れた妻に手を差し伸べたりするところなどを見ると(注8)、本当は人情家なのかもしれません。

 それはともかく、ヴィクストロムは、ひとたびカーリドを自分のレストランに雇い入れると、当局の調査に際しても、積極的に擁護しようとします(注9)。
 それで、カーリドは、はぐれてしまった妹・ミリアムに出会えることにもなります(注10)。

 本作は、ヨーロッパが直面している難民問題を、かなり特異な視覚から捉えていて(注11)、たいへん興味を惹かれます。
 ただ、前作『ル・アーヴルの靴みがき』では、ル・アーヴルの人達の善意に支えられて、アフリカから流れてきたイドリッサ少年は、無事に目的地のロンドンに行くことになりますが、本作では、ヴィクストロムらの善意が描かれている一方で、当局の係官の厳しい姿勢とか、難民を敵視するネオナチも描かれていて(注12)、世の中が善意でばかり成り立っているものでもない状況がわかります。

 それと、カーリドは、ヘルシンキに着くと、警察に自ら出向き、正規の手続きによって難民申請をしますが(注13)、中東の人々の矜持を描き出そうとしているのでしょう。

 とはいえ、ヨーロッパにおける難民問題は、その数の膨大さが一番の難題のはずながら、本作では、カーリドとその周辺にしか焦点が当てられていないのでは、と思えてしまいます。
 無論、本作で描かれるカーリドは、前作『ル・アーヴルの靴みがき』のイドリッサ少年と同様に、数多い難民の一人だとみなせばいいのでしょう。
 でも、『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』で描き出されている大量の難民の姿は、数として描き出さないとなかなか伝わってこないようにも思えるところです。

(3)渡まち子氏は、「カウリスマキは、差別や偏見にNOと叫び、つつましく生きる市井の人々の優しさにYESと言っている。私たち観客は、誰かを助けるその勇気に感動する。物語の余韻はビターなものだが、その先にはきっと希望があると信じたくなる作品だ」として75点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「今日の難民問題を真正面から取り上げ、監督独特のスタイルでアイロニーを込めて描いている」として★5つ(「今年有数の傑作」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「ひょっとしたら人情って、人がお互いに共有する夢なのかもしれない。その夢を共有するからこそ、生きる意味があるのかもしれない。このおかしくてやさしい映画を観て、多くの感想を刺激されました」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『ル・アーヴルの靴みがき』のアキ・カウリスマキ

(注2)身長は171cm、体重は71kg。

(注3)カーリドは、当局の係官に、「アレッポの修理工場で働いていた」「ある日、家に戻ると、粉々に破壊されていた」「誰のミサイルによるものかはわからない」「瓦礫を取り除いて死体を見つけた」「ボスに6000ドル支払って埋葬した」「それから、3000ドルを密航業者に支払ってギリシアに行った」「ハンガリーで混乱に巻き込まれて、妹とはぐれてしまった」「ハンガリーやスロベニア、セルビアなどで妹を探したが、見つからなかった」「国境を超えるのは簡単だ、誰も僕らを気にかけないから」などと事情を説明します。

(注4)当局の係官は、「今やアレッポでは戦闘は行われていない」「重大な害といえる危険は起きていない」「保護の必要性は認められない」として、カーリドをトルコに送還する決定を下します。

(注5)あるいは、フィンランド人より相当安い賃金で雇い入れることができるという利点がヴィクストロムには魅力だったのかもしれません。

(注6)ヴィクストロムは、それまでやっていた事業(衣類販売)を売却し、それで得たお金をポーカーに注ぎ込み、勝負に勝って大金を手にします。そのお金で、売りに出ていたレストランを購入し、経営者として立て直しを図ります。

(注7)従業員の提案で「寿司」を出すことになりますが、フィンランドで手に入る日本関係の書籍を読んで作っただけのシロモノで、ニシンの酢漬けに山盛りの辛子が添えられたものが出されると、入ってきた日本人の団体客は逃げ出してしまいます〔それでも、日本的なものが壁に飾られていたり、日本の曲(「竹田の子守唄」など)が流れたりするのですが。なお、前作『ル・アーヴルの靴みがき』でも、主人公・マルセルの家の食卓の上には日本の「お猪口」が置かれていたりします〕。



(注8)ヴィクストロムは、妻が働いている店に行き、「帰りは送っていくよ」と言って彼女を車に乗せます。車の中でヴィクストロムが、「どうしてた?」と尋ねると、妻は「少し寂しかった」と答え、今度は妻が「あなたは?」と尋ねると、彼は「今、レストランをやっている」「フロアー長が必要なんだ」と答えます。

(注9)皆でカーリドをトイレに匿ったりします。

(注10)フィンランドで知り合ったマズダックサイモン・フセイン・アルバズーン)が、ミリアムがリトアニアの難民施設にいるとの情報を、カーリドに持ってきます。そして、リトアニアからやってきたトラックの荷物室の中から妹が出てきたのです(これには、ヴィクストロムが尽力しました)。

(注11)以前見た『ル・アーヴルの靴みがき』と同様に、カウリスマキ流と言ったらいいのでしょうか。

(注12)「フィンランド解放軍」と書かれた革ジャンを着た連中が、ヘルシンキの町を闊歩していますが、カーリドは、その中の一人に付け狙われます。ただ、スキンヘッドの男が、カーリドを刺した後、「警告しただろ、ユダヤ野郎!」と言うのですが、カーリドはもちろんユダヤ人ではありませんから、この集団の意識の低さが伺われるところです。

(注13)さらに、ヘルシンキに着いた妹のミリアムも、偽の身分証を作ってあげようとする兄に、「自分は、自分の名前を大切にしたい」「ちゃんと難民申請したい」と言って、警察に出向きます。



★★★☆☆☆



象のロケット:希望のかなた

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勝手にふるえてろ

2018年01月15日 | 邦画(18年)
 『勝手にふるえてろ』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、ハンバーガーショップの場面。
 主人公のヨシカ松岡茉優)が、「あたしってクソヘタレで、思っていることたくさんあるのに、何一つ言えてないんですよ」と言うと、金髪店員(趣里)がヨシカの頭を撫でます。



 するとヨシカは、「あなたってフィギュアみたいにかっこいい」「私も触っていい?」と言いながら、金髪店員の頭の髪の毛を撫でます。
 そして、ヨシカは、「一度でいいから金髪に触ってみたかった」「手の届かないものばかり求めてしまう」「イチ(注2:北村匠海)と結婚しても、幸せになれない」「(注3:渡辺大知)なら堪能できちゃう」「だけどやっぱりイチが好き」と呟きます。

 ここでタイトルが流れます。

 ヨシカが勤務する職場(経理課)。
 ヨシカが計算機を叩いていると、営業課のニが書類を差し出します。
 すると、ヨシカが、書類の数字をさしながら「ココ、間違ってます」と指摘します。
 これに対し、ニは「ほんとだ」「俺、今、億動かしてるから、神経が弱ってるんだ」「昨日も3時間しか寝ていない」と応じ、さらにヨシカの机にある鉛筆で数字を直した挙句、「鉛筆借ります」と言います。

 女子トイレの手洗い場。
 ヨシカが「借りました、でしょ」と怒ると、同僚の来瑠美石橋杏奈)が「怒りなさんな」と慰めますが、ヨシカは「経理って、舐められている」と怒りはなかなか静まりません。

 会社の休憩室。
 ヨシカが「営業の出来杉君?」と言うと、来留美は「高杉君」と訂正しますが、ヨシカは「私は、恋愛と仕事は分けたい」と応じます。それに対し、来留美は「イチがずっと好きなんだから」と言います。



 誰かが「電気消すよ」と言うと、休憩室は暗くなり、そこにいた女子職員は皆、横になって午睡を取ります。

 ここで、中学時代の回想が入ります。
 教室でヨシカが、『天然王子』の漫画を机に座って描いていると、イチがやってきて、「なんで王子なの?」と尋ねます。それに対し、ヨシカは「生まれながらの王子だから」と答えます。
 さらに、イチは「変な髪型」と言いますが、ヨシカは自分の髪型について言われたものと思いますが、イチは、漫画に描かれた王子の髪型について言ったようです。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、作家・綿矢りさの小説『勝手にふるえてろ』を映画化したもの。主人公は若いOLで、中学の同級生に対する片思いを未だに引きずっていながらも、同期入社の社員から告白をも受け、2つの恋の間で思い悩みます。さあ一体彼女はどうするのでしょうかというところですが、コミカルなタッチの中に今時の若い女性の生態も描かれていて、まずまず面白いなと思いました。

(2)本作は、脳内が妄想で一杯の24歳の女の子(注4)の物語。
 であれば、『脳内ポイズンベリー』のような映画になってもおかしくないように思えます。でも、主人公のヨシカは、特段、脳内にいろいろな葛藤を抱え込んでいるわけでもなく、様々な妄想がふくらんでいるだけなので、本作は全然違った味付けの作品となっています。
 例えば、上記(1)の最初の方で描かれているヨシカと金髪店員との会話は、単にヨシカが頭の中で作り上げたもので、実際にはヨシカは金髪店員と何の会話もしていないことが後の方でわかります(注5)。
 また、本作の前半では、ヨシカが駅員(前野朋哉)とか釣り堀のおじさん(古舘寛治)などと大層親しげに話す場面がいくつか映し出されているところ、これもヨシカの妄想の中の出来事と判明します。
 さらには、コンビニの店員(柳俊太郎)とかバスに乗り合わせた編み物おばさん(注6:稲川実代子)などとも、ヨシカの妄想の中で会話します。

 ただ、これらの人達は、原作では見受けられず、映画で初めて登場するのです。
 こうなると、主人公ヨシカの雰囲気は、原作とかなり離れてくる感じがします。
 原作のヨシカは、確かに中学時に同級生のイチを好きになって以来、10年間、ずっとイチのことを思い続けていますが、そのくらいのことなら誰にでも心当たりがあるでしょう。
 原作のヨシカは、少々変わっているとしても(注7)、ごく普通の女の子のように思えます。
 でも、映画で描かれているヨシカのように、外出先で出会う人達と頻繁に妄想の中で会話をするというのは、どうなのでしょう?
 なんだか、統合失調症一歩前といった感じにもなってきます。
 
 それでも、後半になって、イチが自分の名前を知らないことがわかって強いショックを受けると(注8)、ヨシカは、そうした妄想が消滅して、現実的な姿に戻ります(注9)。
 ですから、ヨシカの脳内に妄想一杯という前半の描き方は、妄想が多すぎる感じは否めないとしても、本作を映画として制作するにあたって必要とされたものにすぎないのでは(注10)、と考えた方がいいのかもしれません。

 それと、原作との違いを言えば、タイトルの「勝手にふるえてろ」ですが、原作の場合は、「イチはもう心の支えにはなってくれない。なんで私の名前もおぼえてないわけ、………、もう言い、思っている私に美がある。………私の中で十二年間(注11)育ちつづけた愛こそが美しい。イチなんか、勝手にふるえてろ」という文脈で登場します(文庫版P.131)。
 これに対して、本作では、最後の最後で、ヨシカが自分に対して言う言葉とされています(注12)。
 原作での使い方はよく理解できるものの、本作においては、騒々しいラストでヨシカとニとが抱き合う中で言われるものですから、誰に向かって何のつもりで言っているのか、イマイチピンときませんでした(注13)。

 と言っても、本作は、これまで『リトル・フォレスト』などでしか見たことがなかった松岡茉優が、その持てる才能を十分に発揮した、なかなかの快作といえるように思います。



 特に、途中でヨシカは、ミュージカルのように自分の気持ちを歌い上げるのですが(注14)、なかなか声も良く、実に様になっているなと思いました。
 また、ニに扮した渡辺大知も、二番手という役どころをなかなかうまく演じています。



(3)渡まち子氏は、「イタい笑いたっぷりのラブストーリーだが、同時に個性的な味わいの人生讃歌と見た」として60点を付けています。
 暉峻創三氏は、「現実生活での愛への臆病さと引き換えに、果てしない脳内妄想に生きる滑稽なヒロイン。だが、けっしてやりすぎない演技、やりすぎない演出が、一級のコメディーに結実した」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「本作の主人公ヨシカの悩みも自己中心的なものだが、恵まれた国・日本で、多くの若者たちが抱えている屈折を松岡茉優が高い身体性で演じきった」と述べています。



(注1)監督・脚本は大九明子
 原作は、綿矢りさ著『勝手にふるえてろ』(文春文庫)。

 出演者の内、松岡茉優は『リトル・フォレスト』、石橋杏奈は『22年目の告白―私が殺人犯です―』、北村匠海は『あやしい彼女』、古舘寛治は『淵に立つ』、前野朋哉は『エミアビのはじまりとはじまり』、片桐はいりは『シン・ゴジラ』で、それぞれ最近見ました。

(注2)ヨシカが一番思っている人であり、また原作によれば、名字が「一宮」なので、イチ。

(注3)ヨシカにとって2番目に現れた男性なので、ニ。

(注4)原作では、自分について「江藤良香、26歳」云々とヨシカはニに話します。

(注5)イチからショッキングな話を聞いた後(下記「注8」参照)、ヨシカはハンバーガーショップに入りますが、ヨシカは金髪店員を見て、「この人の名前を知らない」「だって、この人と話したことがないんだもの」と呟きます。それに、ヨシカは、金髪店員が話す外国語が理解できないのです。

(注6)実は、ヨシカの会社の清掃員。

(注7)例えば、ヨシカは、アンモナイトなど絶滅した動物について関心を持っています。

(注8)同窓会が開かれたマンションで、イチと二人きりになれたヨシカは、イチと色々話をしますが、イチがヨシカのことを「きみ」と言うのが気にかかって、「イチ君て、人のことをきみと呼ぶの?」と尋ねると、イチは「ごめん、名前何?」と言うのです。

(注9)ただ、ラストの方で、ヨシカの隣に住むオカリナを吹く女(片桐はいり)とコンビニ店員が、色違いながら同じ柄のかっぱを着て雨の中に立っているのをヨシカは見ますが、これは現実の出来事でしょうか?

(注10)原作のままだと登場人物があまりにも少なく、映画として面白みに欠けるものになってしまう恐れがあります。この点については、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、原作者の綿矢りさ氏が、「登場人物が少ない小説なので、大丈夫かなと。脚本読んだら人が増えていたのでありがたかったです(笑い)」と述べています。

(注11)原作では、ヨシカの年齢は本作よりも2歳上となっています。

(注12)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、監督の大九明子氏は、「自分に向けた言葉にしたいと脚本を書き始めた早い段階で考えていました。若い女の子なんてものはどうせ大変だと言いながら、意外と死なない生きものだから、勝手にふるえてろよ、と。そういう過去の自分に対しての言葉でもありますね」と述べています。

(注13)上記「注12」で記したように、ヨシカが自分の過去に向かって言うとしても、それまでのヨシカはあまり自分を客観視するようなことをしていないので、突如このように突き放つ言葉が言われると、なんだか唐突な感じになってしまいます。

(注14)イチが自分の名前を知らないことにショックを受けたヨシカが、金髪店員やコンビニ店員、釣り堀のおじさんなどを巡り歩いている最中に、大九監督の作詞による「アンモナイト」という歌(♪この人の名前を私は知らない~絶滅すべきでしょうか?♪)を歌い上げます。



★★★☆☆☆



象のロケット:勝手にふるえてろ

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お知らせ

2018年01月09日 | その他
 gooブログのTB機能が廃止になった後、ブログ記事をいくつかアップしても、物足りない感じがどうしても拭えませんでしたので、本年より、トラックバック用に新しくFC2ブログ「冥府の映画的・絵画的・音楽的」(http://mpm0531.blog.fc2.com/)を開設することといたしました。

 本来なら、この機会にすべてを新しいブログに移してしまえばいいのかもしれません。ですが、gooブログを10年ほど使ってきたクマネズミとしては、それなりに愛着もあります。それで、当分の間は、メインのブログをこれまでどおりのgooブログの「映画的・絵画的・音楽的」とし、FC2ブログの「冥土の映画的・絵画的・音楽的」については、TB用としてごく簡単な記事を掲載するにとどめることといたしました。

 どうかよろしくお願いいたします。

 なお、FC2ブログの「冥土の映画的・絵画的・音楽的」ですが、gooブログのTB機能が廃止になった後にエントリした6つの記事から始めております。

2017年映画 マイベスト10

2018年01月06日 | その他
 明けましておめでとうございます。
 本年もまたどうぞよろしくお願いいたします。

 新年の始めは、ここ4年ほど、「日本インターネット映画大賞」に投票する形で、前年に見た映画の上位ランク付けを行ってきましたが、同賞の内容が大幅に変わって邦画中心となってしまったため(注1)、本年は昔に戻って、拙ブログ独自のやり方でマイベスト10を作成することといたしました。

 昨年は、一昨年とは様変わりして、邦画よりも洋画の方に興味深い作品が多かった感じがし、結果的に100本のエントリを拙ブログにアップいたしましたが、そのうちの57本は洋画であり、また、★を4つ以上付けた作品は、洋画が23本なのに対し、邦画は10本に過ぎませんでした。
 そうしたこともあって、本年は、「日本インターネット映画大賞」の投票は行わないことといたしました。

 それでは、早速マイベスト10です。
 と言っても、これはあくまでもクマネズミの個人的な順位付けであって、まあ、お遊びの範囲を出ないものであることは言を俟ちません。

①洋画
 ★を4つ以上つけた作品は23本ありましたが、その中から10本を選び出し、クマネズミが良いと思うものから順番に並べますと、以下のようになります。

マンチェスター・バイ・ザ・シー』★5
パターソン』★4
エル ELLE』★4
ローサは密告された』★4
KUBO/クボ 二本の弦の秘密』★4
裁き』★4
セールスマン』★4
メッセージ』★4
哭声/コクソン』★4
雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』★4

 それぞれの作品の感想については、それぞれのエントリをご覧いただくとして、アメリカ映画以外でも、フィリピン映画(『ローサは密告された』)、インド映画(『裁き』)、イラン映画(『セールスマン』)、それに韓国映画(『哭声/コクソン』)になかなかの秀作があったように思います(注2)。

②邦画
 ★を4つ以上つけた作品は10本ありましたので、クマネズミが良いと思うものから順番に並べますと、以下のようになります。

バンコクナイツ』★5
夜空はいつでも最高密度の青色だ』★4
幼な子われらに生まれ』★4
』★4
南瓜とマヨネーズ』★4
夜明け告げるルーのうた』★4
夜は短し歩けよ乙女』★4
愚行録』★4
ゾウを撫でる』★4
PARKS パークス』★4

 興味深いことに、洋画の上位10作品の中に入っている『パターソン』と同様に、『夜空はいつでも最高密度の青色だ』も、現代詩を下敷きにした秀作でした。

③洋画と邦画の区別を取り払うと
 さらにお遊び度を増して、洋画と邦画を混ぜ合わせた場合の上位10作品となると、下記のようなものになるでしょうか。

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』★5
『バンコクナイツ』★5
『パターソン』★4
『エル ELLE』★4
『ローサは密告された』★4
『夜空はいつでも最高密度の青色だ』★4
『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』★4
『幼な子われらに生まれ』★4
『裁き』★4
『セールスマン』★4

④ワースト
 ★を2つしかつけなかった作品は、洋画で5作品、邦画で3作品あるところ、それぞれ2つずつ選びだすと以下のようになります。

イ)洋画
ロスト・イン・パリ』★2
アサシン クリード』★2

ロ)邦画
ナミヤ雑貨店の奇蹟』★2
斉木楠雄のΨ難』★2

 洋画の『ロスト・イン・パリ』と邦画の『斉木楠雄のΨ難』は、コメディと謳われているにもかかわらず、クマネズミの感性の歪みからでしょう、全然笑えなかった作品です。


 以上が、昨年の映画についてのマイベスト10ですが、さあ本年もまた面白い映画に巡り合うことができるでしょうか?



(注1)日本インターネット映画大賞ブログの「概要」に、「外国映画部門は縮小し日本映画部門を中心にして行います」とあり、部門賞として「ベスト外国映画作品賞」が設けられているものの、「最も今年ベストだった外国映画1作品に授与」とされているだけです。

(注2)『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』を邦画としてみたら、洋画の上位10本の内、半分がアメリカ映画以外の作品となります。


 
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火花

2017年12月22日 | 邦画(17年)
 『火花』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)芥川賞受賞作の映画化ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、漫才をやっている声がします。
 「山下、起きてるか?」「うん」「昨日の漫才バトル、見たか?」「見たよ」「◯◯が一番面白かったな」「俺、漫才で天下取ってフェラーリ買いたい。もう一つは、……」「何や、忘れたのか?」「うん」「お前、やっぱアホやな」。
 画面では花火が2つ上空に上がっていきます。

 次の画面は、熱海の砂浜。神谷桐谷健太)が、体を地面に埋め、頭だけを出して、口にはタバコを咥えています。
 神谷が首を動かし周りを見ていると、子供が寄ってきて、「大丈夫ですか?」「何やってるんですか?」「なぜタバコを?」などと尋ねます。
 そのそばには、神谷の衣服などがキチンと並べて置いてあります。

 場面は変わって、熱海の商店街。人々が歩いていて、その奥に舞台が設けられていて、漫才コンビ「スパークス」の徳永菅田将暉)と山下川谷修二)がネタをやっています。



 「僕、徳永です」「僕、山下です」「覚えて帰ってください」「ペット、飼いたい」「インコがいいよ」「どんなことするの?」「ちょっとずつでも年金払っときや」。

 そこへバイクに乗った若者たちが、爆音を立てて舞台の近くにやってきます。
 スパークスは漫才を止めます。
 すると、バイクの若者が「なんか面白いことやれよ」と怒鳴ります。
 徳永は山下に「悔しくはないか」と言い、「インコは貴様だ」と言い放つと、山下は「どうもありがとうございました」と収め、舞台を降ります。

 次に出る「あほんだら」の神谷が「仇とったるわ」と徳永に言って、大林三浦誠己)とともに舞台に上がり、ネタを披露します。



 「今日は、花火大会やな」(花火がドーンと打ち上げられます)「お客さん、キョトンとしてはる」。
 「花火は、音を楽しむものやない」。
 そして、神谷はバイクの若者たちを指して、「地獄」「なんや、罪人ばっか」と言います。
 大林は若者らと喧嘩になりますが、他方で、神谷は聴衆を指差しながら「地獄、地獄、地獄」と言い続け、聴衆の中に若い女性と子供の二人連れを見つけると、「楽しい地獄」と言います。
 こんな光景を徳永は見守り続けます。

 主催者は、神谷らに対し、「君たち、地方の興行を舐めているんじゃないか」「地獄、地獄って、何が面白いのか」「ともかく、二度と呼ばないから」と怒ります。
 神谷は、「お疲れ様でした」と言って、その場を立ち去ります。

 次いで、徳永は神谷と居酒屋で酒を酌み交わして弟子にしてもらいます。



 ここらあたりが本作の始めの方ですが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、お笑タレントの又吉直樹氏の芥川受賞作を、これまたお笑いタレントの板尾創路監督のもとで映画化したもの。コンビを組んでデビューしたもののさっぱり売れないお笑い芸人が、先輩芸人の漫才を見て弟子入りして後を付いていくというお話。お笑いを題材にしているからといってコメディ作品ではなく、お笑いとは何かを巡るむしろ観念的な映画というべきでしょうか。原作に書き込まれている頭でっかちな部分をもっと削っても良かったのではとも思いました。

(2)漫才を描いている映画作品としては、『漫才ギャング』とか『エミアビのはじまりとはじまり』がクマネズミには想起されますが、前者では、佐藤隆太上地雄輔とのコンビ、後者では前野朋哉森岡龍のコンビが、皆俳優でありながら本職さながらの達者な芸を披露します。
 これに対し、本作の漫才コンビは、「スパークス」にしても、「あほんだら」にしても、一人は現職のお笑いコンビの一方だったり、元芸人だったりします。
 確かに、本職となると、自ずと俳優が演技で演るものとは違ってくるとはいえ、本作における菅田将暉にしても桐谷健太にしても、本当によく演っていると思いました。
 そうした二人の頑張りが、2時間の本作を最後まで引っ張っていっているのでしょう(注2)。

 さて、本作では、徳永が神谷に心酔して、弟子入りを申し込みますが、受け入れるにあたって神谷は、「俺の伝記を作って欲しい」「お前の言葉で、俺について、今日見たものを、生きているうちに書いてほしい」という条件をつけます(注3)。
 徳永は、熱心に徳永の行動や言ったことをノートに付け、そうしたノートが何冊もたまります。

 ところで、先般の日曜日(12月3日)の夜にテレビ朝日から放映された「M1グランプリ」を見ました。全国の予選などを勝ち抜いてきた10組が、最終的に競い、優勝者には賞金1000万円が与えられるとのこと。
 お笑い番組を余り見るわけではないので、登場した10組は初めてのコンビばかりでしたが、どのコンビもなかなかレベルが高いなと驚きました。
 結局、結成15年目の「とろサーモン」が優勝しました。

 ただ、アレっと思ったのは、5番目にネタを披露したマヂカルラブリーと10番目にやったジャルジャルです(注4)。
 マヂカルラブリーのネタは、ボケの野田が「野田ミュージカル開催中!」と言って動き回るので、ツッコミの村上が歌を聞けると思っていたら、単にミュージカルを見ている観客を演じているというもの。
 また、ジャルジャルのネタは、福徳が「今から変な校内放送をやる」「ピン、ポン、パン、ポーンのへんなやつやるから盛り上げてほしい」と言って、後藤が「うん」と頷くと、あとは「ピン、ポン、パン、ポーン」の様々に変形したものが福徳から繰り出されます。
 マヂカルラブリーのネタについては、審査員の上沼恵美子が酷評したこともあり、順位は10番目となり、ジャルジャルのネタについても、審査員の松本人志は最高店の95点をつけたものの、6位に終わりました。

 ここでこの2組に触れたのは、彼らのやったネタは、クマネズミには、本作で神谷が言っているネタになんだか近いものではないのかと思えたからです。
 特に、ジャルジャルが何度も繰り返す校内放送の「ピン、ポン、パン、ポーン」は、神谷が、熱海の舞台で披露した「地獄、地獄、地獄」に似通っているのではないか、またマヂカルラブリーの野田が一人で演じているミュージカルは、神谷がその後で演じているものに、ある程度類似しているのでは、と思えました。

 クマネズミには、本作で神谷が笑いについて述べていることや(注5)、さらには舞台で演っていることは(注6)、どうも頭でっかちで、現実の漫才では見かけることができないものでは、と思っていたのですが、もしかしたら、実際の漫才界でも、神谷が言っていることをある程度実践しているコンビがいるのかもしれないと思って驚いた次第です(注7)。

 そんなことはともかく、本作は、全体としてはなかなか興味深い作品ながらも、本作の構成としては、スパークスの最後の漫才で盛り上がったところでジ・エンドにすることもありうるのではないか(注8)、その後の神谷の話などはかなり抽象的なものでなくもがなではないのか、などと思ったりしました(注9)。

 また、本作では、神谷を一つの手がかりとして徳永の青春時代を描いているわけながら、神谷や、徳永の相方の山下には女性が添えられているにもかかわらず、徳永には女性の気配が殆どないのはどうしたことなのかな(注10)、とも思いました。

(3)渡まち子氏は、「漫才界から多くの人材が参加し、大御所のビートたけし(主題歌の作詞・作曲)まで動員した本作は、お笑いの世界に生きるすべての人々に向けた、ほろ苦くも切ない応援歌なのである」として65点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「エンディングで主演2人がうたう、ビートたけしの「浅草キッド」がそうであるように、これはすぐれた青春映画であると同時に、すべてのお笑い芸人たちにささげる歌でもあるだろう」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 森直人氏は、「まっすぐに役者の芝居をとらえ、自己実現に向けての模索の軌跡をフィクションとして紡いでいく。その愚直な演出が、登場人物たちの不器用な生き方と相まって、言わば男料理の優しい味。表現の微熱に浮かされた人間の宿業が、愛おしさと共によく伝わってくる」と述べています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「夢と現実、売れることと売れないこと、才能の有無といった普遍的なテーマに、監督、俳優ともに正面から誠実に向き合った青春映画だ」と述べています。



(注1)監督は、『板尾創路の脱獄王』や『月光ノ仮面』の板尾創路
 脚本は、『I’M FLASH!』の豊田利晃と板尾創路。
 原作は、又吉直樹著『火花』(文春文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、菅田将暉は『銀魂』、桐谷健太は『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、木村文乃は『追憶』で、それぞれ見ました。

(注2)とはいえ、『漫才ギャング』は前篇漫才が溢れかえっていますし、また『』はかなりファンタジーの色合いが濃い作品になっています。これに対し、本作は、コミカルなところがないわけではないながらも、全体のトーンは至極地味なものとなっています。

(注3)徳永が書き留めた何冊ものノート(「神谷日記」)は、実際には、神谷の単なる行動記録でしかなく、それだけでは「伝記」のごく一部にしかならないように思われます(伝記となれば肝心の、父母を始めとする家族状況とか、小さいときからこれまでの神谷の履歴などには何も触れられていないのです)。

(注4)それぞれのネタは、下記で見ることができます。
 マヂカルラブリーのネタ
 ジャルジャルのネタ

(注5)実際には、神谷は、余りまとまったことを言っていませんが、例えば、「いつでも思いついたことをやっていい」と言ったりします。
 また、徳永は、「神谷さんの相手は世間じゃない。むしろ、世間を振り向かせようとしていた」と語りで言いますが、それは神谷の姿勢を的確に言い表わしているのでしょう。
 さらに、スパークスが最後のネタで、「世界の常識をくつがえすような漫才を演る」と言って「思っていることと逆のことを全力で言う」という喋りをし、「どうかみなさまも適当に死ね」「死ね、死ね、死ね」と叫んだりするのは、神谷の精神の表れではないかと思われます。

(注6)例えば、「あほんだら」は、ある漫才コンクールの決勝戦で、予選で演ったネタを録音したものをスピーカーから流しながら、実際にはクチパクめいたことをするという常識破りのことをします(芸人らや観客などには受けましたが、審査員は酷評します)。
 また、相方の大林が喋っている間、神谷は喋らずに、いろいろのポーズを決めて立っているだけというのもあります。

(注7)もちろん、神谷の演っていることは荒削りすぎ、「M1グランプリ」の決勝戦に勝ち残るものは遥かに洗練されていて、比較すること自体無意味なのかもしれませんが。

(注8)無論、熱海の花火で幕が上がる本作が、熱海の花火で幕が下りるのは、全体の構成の調和が取れて格好がいいのですが、何もそんな格好にとらわれなくともかまわないのではないでしょうか?

(注9)神谷は、芸人をやめて不動産会社のサラリーマンになっている徳永に、「芸人は引退などない」「徳永は、ずっと劇場で人を笑わせてきたわけだが、それは特殊能力を身につけたということ」「それは、ボクサーのパンチと一緒。ただし、芸人のパンチはボクサーと違って、人を殺さずに人を幸せにする」とか、「漫才は2人だけではできない」「周りに漫才師がいっぱいるからできる」「大会で優勝するコンビだけだったら、面白くないだろう。負けたコンビがいて初めてそいつらがいるんだ」などと喋りますが、至極抽象的な話ではと思います。
 徳永が言う引退というのは、お笑いを生活の糧にすることをやめるという至極現実的なことのはずなのに、神谷は、頭で考えたお笑いというものを問題にしているのではないでしょうか。

(注10)徳永は、神谷と一緒に暮らしている真樹木村文乃)を憧れの目で見ていますが、自分からアプローチすることはありません(なお、真樹は、神谷の愛人というよりも、神谷の方が真樹の間借り人にすぎなかったようですが)。





★★★☆☆☆



象のロケット:火花



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DESTINY鎌倉ものがたり

2017年12月20日 | 邦画(17年)
 『DESTINY鎌倉ものがたり』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、新婚旅行からの帰りなのでしょう、主人公の一色正和堺雅人)とその妻の亜紀子高畑充希)がクラシックなベンツに乗っています。
 亜紀子が窓の外をボーッと見ているので、正和が「どうした?」と尋ねると、亜紀子は「できますかねー、作家の奥さん」「まさか、先生と結婚するなんて」と答え、それに対し正和は「僕は、信じられないくらい幸せだ」と応じます。

 正和が運転する車は、大仏のそばの路を通り、片瀬海岸から江ノ電の踏切を渡り、坂道を上っていきます。
 漸く家に着き、2人は車を降ります。
 亜紀子が「これからは、先生と腕を組んで歩かなきゃ」「この街は、なんだかゆっくりしているわ」などと言うと、正和は「東京とは時間の進み方が違う」と応じます。



 ここでタイトルが流れ、場面は正和の書斎。
 正和は、原稿にペンを走らすも、クシャクシャにしてしまいます。
 その時、雑誌編集者の本田堤真一)が玄関先に現れます。
 亜紀子は「困ります」と言って、書斎に行こうとする本田を阻もうとしますが、本田は「先生、仕上げてもらわないと」と大声で言いながら、上がり込んで廊下を進みます。
そして、亜紀子が「どうですか?」と書斎に顔を出すと、正和は「見ればわかるでしょ」「作家に向いてないんじゃないかな」と苛々します。
 正和が「お酒を飲ませて眠らせてしまおう」と言うと、亜紀子は「二日酔いだそうです」と答えます。すると、正和は「亜紀子が冷たいから書けないんだ」となおも八つ当たりします。

 応接室で待つ本田に対し、亜紀子は「もうすぐですから」と告げて、もう一度書斎に戻ると、正和は鉄道模型を動かしています。
 それを覗き見した本田が「先生、もうすぐですね」と言うと、正和は「本田さん、分かってますね」と応じます。



 本田は「玉稿を受け取ります」と、正和から原稿を受け取ると、「あんな歳の離れた中村君と結婚するとは」などと呟きながら帰っていきます。
 本田を門の先まで出て見送ったミ正和と亜紀子が玄関に向かうと、2人の前をカッパが通り過ぎます。
 亜紀子が、思わず「今のはなんですか?」と尋ねると、正和は「カッパだろ。ここは鎌倉、夜になると妖気が貯まるんだ」と答えます。
 でも、亜紀子は「そういうの信じられない」と言います。

 こんなところが、本作のほんの始めの方です。さあ、これからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、ベストセラーの漫画を実写化したものですが、ファンタジー物としてなかなか良くできていると思いました。特に、主人公の作家先生(堺雅人)が黄泉の国に乗り込む途中の景色や、乗り込んでから天頭鬼などと戦うシーンのVFXはよくできているなと思いました。ただ、鎌倉を舞台にして妖怪や怪物などを登場させるのであれば、滅びた北条氏関係の物があってもおかしくないのではないかと思い、総じて江ノ電以外の鎌倉的なものが本作にはあまり取り入れられていないような感じがしたところです。

(2)本作は、天頭鬼(注2)にさらわれて黄泉の国に行ってしまった亜紀子を、夫の正和が取り戻しに行って現世に連れ戻すという冒険ファンタジーであり、他愛ないお話しながらも、「現世」の駅からタンコロ(注3)に乗って「黄泉」の駅まで行くときの周りの景色は、VFXがなかなか良くできていて見入ってしまいます(注4)。
 また、天頭鬼やその部下と正和との戦いも、VFXを使ってなかなか見事に描かれていると思いました。

 さらには、亜紀子を演じる高畑充希は、まさにうってつけの役柄であり、その魅力を存分に発揮している感じですし、夫の正和に扮する堺雅人も、久しぶりの映画出演ながらさすがの演技を披露しています。
 また、死神役の安藤サクラも、地味ながら着実に演じています。
 


 ただ、次のような点があるように思いました。
 タイトルが『鎌倉ものがたり』となっているわりには、鎌倉的なものがあまり映し出されていない感じがしました。
 確かに、江ノ電とか鎌倉大仏は登場します。
 でも、鎌倉と言ったらすぐに思い出されるのが、鶴岡八幡宮でしょうし、江ノ島とか小町通りなどでしょうが、そういった名所的なものはほとんど本作には登場しません。

 それならば、本作で数多く登場する魔物とか妖怪・怪物の中に鎌倉的なものがあるのかと見ていても、そうしたものはあまり登場しないように思われます。
 正和が対決することになる天頭鬼や豚頭鬼・象頭鬼などの外観は、むしろ中国的な感じがします(注5)。
 夜の鎌倉を徘徊する魔物であるのなら、公暁に殺された源実朝とか、新田義貞に滅ぼされた北条高時以下の北条一門に関連するものがあってもおかしくはないように思うのですが。

 他方で、江ノ電が黄泉の国と現世とを往復するのを見ると、本作で言われている「現世」とか「黄泉の国」と言っても、普通名詞のそれらではなく、鎌倉に限定されたもののようにしか思えません。
 なにしろ、「現世」の駅から乗る人達は、正和の隣近所の者のようですし、「黄泉」の駅で彼らを出迎える者たちも、彼らの知り合いたちばかりなのでしょう(外国人など全く見かけません)。

 要すれば、登場する魔物たちは国籍不明で地域の特定が難しいものの、舞台とされている「現世」「黄泉」は鎌倉限定版と言ったところでしょう。
 それはなんだかおかしな感じがしますから、このファンタジーはすべて、おかしなキノコを食べた亜紀子のおかしな夢物語といえるのかもしれません。

 それにしても、黄泉の国の木造家屋が岩山に沿って幾層にも立ち並ぶ様子は、なんだかブラジルのファベーラ(注6)を思い起こさせてしまいました!
 理想郷であるはずの黄泉の国(注7)の外観が、極貧層が住む貧民窟と類似してしまうというのは何とも皮肉な感じですが、こんなところも、おかしな夢物語の特徴が現れているようにも思います。

(3)渡まち子氏は、「見終われば、壮大なラブ・ストーリーだったが、レトロ・モダンなファンタジーとして楽しんでもらいたい作品だ」として65点を付けています。
 北小路隆志氏は、「山崎貴の映画にあって時間旅行は、過去・現在・未来の区別を超えて、すぐ横に広がる隣町めいた異世界への空間上の横滑りとしてあり、もちろんそれに伴うのは、目くるめく視覚的冒険である」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『海賊とよばれた男』の山崎貴
 原作は、西岸良平著『鎌倉ものがたり』(双葉社)。

 なお、出演者の内、堺雅人は『その夜の侍』、高畑充希は『アズミ・ハルコは行方不明』、堤真一は『本能寺ホテル』、安藤サクラは『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』、田中泯は『無限の住人』、市川実日子橋爪功は『三度目の殺人』、ムロツヨシは『斉木楠雄のΨ難』、要潤は『ブルーハーツが聴こえる』、大倉孝二は『秘密 THE TOP SECRET』、國村隼は『哭声/コクソン』、鶴田真由は『64 ロクヨン 前編』、薬師丸ひろ子は『ハナミズキ』、吉行和子は『亜人』、三浦友和は『葛城事件』、さらに天頭鬼の声を担当する古田新太は『土竜の唄 香港狂騒曲』で、それぞれ最近見ました。

(注2)公式サイトの「相関図」において、「天頭鬼」と記されています。ですが、どうして「天燈鬼」と書かないのでしょう?
 あるいは、「豚頭鬼」とか「象頭鬼」に倣って「天燈鬼」を「天頭鬼」としたのかもしれません。でも、その風貌は、興福寺にある康弁作の「天燈鬼」そっくりです。
 それに、「天」は「豚」とか「象」とかと同じレベルの概念でしょうか?

(注3)劇場用パンフレット掲載の「PRODUCTION NOTE」によれば、「昭和初期から約50年間運行していた江ノ島電鉄の旧車両で、1両の単車だったことから「通称タンコロ」と呼ばれている」とのこと。

(注4)黄泉の国は、劇場用パンフレットに掲載の山崎貴監督の解説(「CONCEPT ART」)によれば、中国の湖南省にある武陵源を参考にしているようですが、その景色は既に『アバター』にも取り入れられているところです。

(注5)豚頭鬼は、『西遊記』に登場する猪八戒に似ている感じがします。

(注6)劇場用パンフレットに掲載の山崎貴監督の解説(「CONCEPT ART」)によれば、中国の鳳凰古城を参考にしているようですが。
 なお、ファベーラ(あるいはファベイラ)については、『ワイルド・スピ-ド MEGA MAX』についての拙エントリの「(2)」とか、ある写真展についての拙エントリの中、『バケモノの子』についての拙エントリの「(2)」などで触れています。

(注7)劇場用パンフレット掲載の「DIRECTOR INTERVIEW」の中で、山崎貴監督は、黄泉の国について、「僕が理想とする、自分が行ってみたい死後の世界」であり、「亡くなった友人たちとこういうところで再会っできたらいいなという世界を作りたかったんです」などと語っています。ただ、あるいは、黄泉の国は「天国」といったものではなく、単に死者が暮らすところにすぎないのかもしれませんが(天頭鬼のような鬼もいるところでしょうし)。



★★★☆☆☆



象のロケット:DESTINY鎌倉ものがたり


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