年末年始の続きになりますけど
やっとやって来ました宇都宮ですよ (^O^)/
前の職場を退職して
新しい職場に着任まで3日ほど休みを入れてなんですよね (;^_^A
この日も
いつもお世話になっている東川口駅からの始発です
東川口駅はJR武蔵野線なんですけど、国道R16(東京環状)と
東京外環自動車道の間を走る貨物線だったんですね ( ̄ー ̄; 当時は東京環状内側ね
横浜市の鶴見駅から千葉県の西船橋をつなぐ貨物線でしたけど
昭和47年(1973年)4月1日に府中本町駅⇔新松戸駅間で旅客線としても開業したんですね
開業当初は貨物列車の合間の住民への見返り運転だったそうですけど
ダイヤに余裕が生まれたことや沿線開発に伴う人口増から、次第に旅客列車も増発されてきたんですね
え!
いつもと雰囲気が違うって?
実は、今までは浦和方面が多かったんですけど
今日は反対側の南越ヶ谷から東武線の新越谷に乗り換えるんですよね (^^ゞ
さぁ~
始発列車がやって来ましたよ (=⌒▽⌒=) ストロボ焚かないでね
ってわけでやってきた東武宇都宮駅は
宇都宮追分まで1km足らずだったんですよね (;^_^A 前回使えば良かった
Angriff 改も組み立てて
準備は完了ですよ
サイコンをリセットして出発だぁ~ (^O^)/
東武宇都宮駅から北に伸びる道を進むと
間もなくT字路に当たります
T字路を今度は西(左)に進んで・・・
あれ? なんかの案内板みたいですよ (;^_^A 前回、気付かなかった
あ! こっち側にも・・・
町名の案内みたいですけど・・・
ふと、左の路地を覗いてみると・・・
バカでっかい銀杏の木ですよ Σ(・ω・ノ)ノ!
実はこの大きな銀杏の木は
宇都宮宿の本陣跡なんですけど
宇都宮宿は奥州街道の宿場なので
次回ちゃんとご紹介しましょうね (;^_^A 今回は日光街道ね
本陣跡の銀杏の木の見える通りから北を見ると
あそこが追分だったかな?
そうですね
前回、終了にした追分の案内板がありました
今日はここからがスタートです
サイコンはリセットせず
距離の1.01kmは記録しておきましょうね
奥州街道から分かれて清住町通りと呼ばれる道を進み
すぐに見えてくる歴史の有りそうな建物 ( ̄□ ̄;)!!
改修中ですかね
GWくらいにはお色直しも終わっていそうですよ (‐^▽^‐)
間もなく ”桂林寺” の入口にあたる交差点には
№27の ”宇都宮一里塚” があったそうですけど、現在は痕跡もなし (´・ω・`)
じきにコンビニも少なくなりそうなので
今のうちにおやつでも・・・
走りながらアンパンはお昼すぎまでかけて
4個入りの1個0.9gの脂質ですから全部で3.6g
ビスケットは100g当たり3gの脂質で180gですから約5g
合計で9g弱ですから夕食まで全部でつないじゃいます (^^ゞ
うわっ
見事な桜並木ですよ O(≧▽≦)O
もう1週間あとだったら満開だったかも (;^_^A 東川口散ってるし
σ(・_・) 実は桜だけの並木ってあまり好きではなく
このくらいにいろいろな木に桜がある方が好きなんですよね (^^ゞ
でも、学校の門には
やっぱり桜と思うのは日本人だからですかね (^^ゞ
あれ?
もうひとつ門があるんですね
実はこの ”文星芸術大学” の門に挟まれた位置にあるのが
№28の ”上戸祭(かみとまつり)一里塚” なんですね
この西塚は現存しますけど
向かいの東塚は半壊状態で塚木はありません (´;ω;`)
お! 日光まで21kmですよ
今日はショートコースですけど
ゴールの東照宮からは番外編にして
松尾芭蕉の足跡をちょっと辿ってみようと思うんですね (=⌒▽⌒=)
って言うのは、おくのほそ道では
芭蕉は奥州街道を進んだだけでなくてあちこち寄り道をしているんですね
前回の日光・奥州街道共通部で言うと
日光・奥州街道共通/Google My Map (別窓で開きます)
小山宿を出て間もなくの ”喜沢追分” がありましたけど
林の中に現存する一里塚の手前ですね
前回の写真ですけど ”喜沢追分” でもある
喜沢西交差点ですね
交差点近くのお店にあった道標に右 奥州街道、
左 日光街道とありましたけど ”日光壬生道” への追分でしたね
芭蕉はこの追分から左に進んで ”室の八島” を参拝しているんですね
室の八島は歴史ある神社で
源義経の物語 ”義経記” にも登場しているんですよね Σ(・ω・ノ)ノ!
室の八島を参拝した芭蕉は元の道に戻らず
日光壬生街道を北上して合流する ”日光例弊使街道” を進んで
東照宮手前の今市宿で日光街道に合流するコースをすすんだそうなんです
そして
東照宮を参拝した後は会津西街道と日光北街道を進んで
古道でもある東山道の宿場だった ”粟野宿” は平安時代の宿場で
芭蕉の頃には黒羽藩の余瀬にしばらく滞在したんですね
奥州街道を旅した有名人と言えば
松尾芭蕉は無視出来ませんし
何より ”僕の遅道” は ”奥の細道” からのパクリ
名をいただいていますからね ( ̄ー ̄;
走行記事の文末に各街道の走行距離と、その下に
走行コースのMy Mapをリンクさせ始めていますけど
日光街道/Google My Map (別窓で開きます)
日光街道と奥州街道では
松尾芭蕉の奥の細道での足跡も平行して調べてMy Mapを作成していきますよ (=⌒▽⌒=)
おくのほそ道 芭蕉の足跡/Google My Map (別窓で開きます)
もうひとり
奥州と言って忘れてならないのが α(・_・) 源義経っ!
こちらは五街道を制覇したのちの計画ですけど
弁慶と逃げ延びた足跡を往路に
復路は少年期の平泉までのコースを逆行する
京都⇒平泉⇒京都のコースを計画してもいます
こちらは芭蕉の更に500年前になる
850年も前の東山道の資料がとても少なくて
まだまだ公開出来ないくらいの
原案的な下調べの段階なんですね (^^ゞ
義経・弁慶と静御前の足跡/Google My Map (別窓で開きます)
芭蕉の奥の細道には
曽良と言うゼネラルマネージャーが同行し
曽良随行日記と言う資料を残してくれていますので
アマチュアの研究者も多いんですけど
義経や静御前となると
伝承から推測するしかないんですよね
あっ!
静御前と言えば・・・
あの車が曲がった辺りかな
と目星をつけたところにあるのが ”光明寺”
実はこの光明寺の東側に入って
200mくらいの個人宅に
ある桜の木の原木があるんだそうです
ある桜の木は
接ぎ木されてここに植えられているんですよね α(・_・) 前回の写真ね
えっ!
静御前のお墓じゃないかって
α(・_・) そうです
頼朝から命を狙われる羽目になった義経は
源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶・静御前を従え九州に逃げようと
大物浜(尼崎市)から乗船しましたが嵐のために難破し
1kmほど西の芦屋の里に漂着したそうですけど
一行は散り散りになり、義経と静御前だけは
手を握り合って打ち上げたれたと言います (´・ω・`) 愛し合っていたんですねぇ
その後の一行は吉野の山中に逃げ込みますが
足の遅い静御前は弁慶に説得され京に帰ることに・・・
吉野山中に義経が潜んでいるとの情報で
捜索に来た追手に静御前は捕らえられ
京に護送されたのちに鎌倉に呼びつけられるのですが・・・
鎌倉殿(頼朝)の妻、政子が日本一の静の舞を見てみたい
と言う理由でなんですね
何と言う皮肉でしょうか ( ̄へ  ̄ 凸
つまり
頼朝はこう言いたいわけなんですよね
『お前の様な賤しい身分のものは、公の場で証言できるような身分ではない
白拍子なら、客から呼ばれたら鎌倉だろうがどこだろうがやって来いっ!』
静御前の身分は第二夫人としての側室ではなく
あくまでも妾であって白拍子
白拍子とは今で言えば
銀座のホステス兼ダンサーのような位置づけです
静御前は鶴ヶ岡八幡宮の舞台に立ちますが
前列の観客は睨みつけるような関東武士たち
きっと
足もすくみ、汗も止まらぬ心境だったでしょう
初めの舞では本領は発揮できず
ブーイングの嵐 ( ̄ー ̄;
生きた心地ではなかったでしょう
潰れそうになる心を振るって立ち上がり
天を見据えると
何かを悟ったのかも知れません
『どんな時でも
私は私であれば、それで良い』 と・・・
”吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ 恋しき”
(吉野山の白雪を踏み分けて奥州に消えた 人(義経)が恋しい)
と、あろうことか義経恋唄を唄い上げ、続けて
”しず(賊・身分の低い者の服布)やしず
しずのおだまき繰り返し むかしを今に なすよしもがな”
(しず布を織るために糸を巻くおだまきのように繰り返す、昔であったらどんなに良いことか)
と舞ったのです Σ(・ω・ノ)ノ!
普段は冷静で、取り乱すことがなかったと言う頼朝も
この時ばかりは怒りに血が登ったらしく
刀に手をかけようとしたその時
『主を想う女の心は女にしか分からぬものです』
と夫人の政子に止められたんですね (; ・`ω・´)
鎌倉で尋問された静御前は
吉野で別れて以来のことは分からないの一点張り
結局は半年後に静御前は自由の身となりますが
この時に政子や大姫(頼朝の長女)たち女性陣からは
彼女に同情してたくさん贈り物を送ったと言われますが
同情だったのでしょうか?
もしかしたら
憧れか応援だったのかも (;^_^A そう思います
伝承では2年ほどの空白がありますけど
静御前は義経を追って栗橋から古河を通っているんですね
①下辺見②思案橋③静桜原木④高柳寺(推定)
⑤移転後の高柳寺⑥静御前の墓、Aは鎌倉時代の古河の渡しの関所
伝承の辻褄を合わせてつなげると
鎌倉から一度は京に帰った静御前ですが義経を慕う思い絶ち難く
文治5年(1189年)1月に奥州平泉へと向かう旅に出ます
栗橋には義経の叔父が住職を務める高柳寺があり
立ち寄ろうと筑波道を通りますが
途中で下河辺荘司行平が古河の渡し(島川)を固めていると聞き
上の地図では ”A” が鎌倉時代の島川の渡しの関で
これを避けて栗橋に入り
高柳寺に一泊して平泉に向かいますが
迂回した道を戻り
現代で言う国道R354を通ったみたいですね
下辺見の茶屋で休んでいるところ、行き交う旅人が義経の噂をしているのを聞き
懐かしさの余りその旅人に義経の消息を尋ねたところ
一月ほど前の文治五年閏4月30日(1189年6月15日)に
平泉高舘で自害した、と教えられたそうです
この下辺見と言う土地は地図では ”①” になりますけど
飛び地が多くあって2kmほど南にも下辺見があるんですね
たぶん、思案橋の近くに茶屋が有ったのでしょう
思案橋は京に戻ろうか
平泉に進もうか思案したと言うことから名付けられていますが
行ったり来たりを繰り返したんじゃないでしょうか?
近くに、と言っても直線距離で5kmほどに
”静の椿” と ”結びの柳” と言う伝承があり
下辺見から高柳寺に戻る途中にこの地で椿の枝を箸にして食事をした静御前が
その枝を義経と生まれてすぐに殺され、鎌倉の海に流された自分たちの息子に代わり
大きく育ってほしいと願いを込めて植えたものと伝えられています
高柳寺に戻ると言うのが下辺見から直接なのか
宇都宮まで進んでから戻るのかは分かりませんが
付近には ”静帰(しずかがえり・しずごり)” と言う地名もあります
平泉に向かおうと決意して、宇都宮から日光街道を経て
会津西街道(R121)から山形経由のコースと想像しています σ(・_・)
高柳寺を発って2日ほどで野沢の地に着いたと思いますが
愛する人の死に既に生きる望みを失い、慣れない長旅の疲労から病に伏し
奥州に向かえない無念からか
野沢に1本の桜を植え義経の菩提を弔ったと言われます
そして高柳寺で剃髪 して尼僧となるんですけど
その数ヵ月後の同年9月15日
『九郎ぬし(義経様)』 という言葉を最期に22歳の若さでこの世を去りました (´;ω;`)
伝承では涙に暮れた静御前が一本の桜を
ここ野沢の地に植え、義経の菩提を弔ったのがその名の起こりといわれていますけど・・・
光明寺の東、約200mにあった桜の木 ( ̄□ ̄;)!! これか
下から
花を写してみましたけど (;^_^A 違うみたい
ちょっと久喜市のHPから拝借してきましたけど
静御前墓に植えられている ”シズカザクラ” の写真です (;^_^A
やっぱり
違うみたいですね (^^ゞ 時期も早いし
シズカザクラは里桜に分類される希少な桜で
ひとつの枝に一重と八重が混ざったような咲き方だそうで
八重に見えるのは
おしべが変化したものなんだそうですよ ( ̄□ ̄;)!!
栗橋にある静御前の墓と思案橋は
ぜひ、訪れてみて欲しいんですけど
秋には栗橋で静御前まつりが開催されますし
静御前まつり/久喜市 (別窓で開きます)
ソメイヨシノが散るころから開く
静桜も静御前の墓に植えられていますよ (^O^)/
静桜の里くりはし/久喜市 (別窓で開きます)
静桜は原木のほか
接ぎ木されて静御前ゆかりの地に数ヶ所植えられていますけど
久喜市栗橋は全国で最も多く植えられ
静桜マップも用意されています
静桜マップ/久喜市 (別窓で開きます)
静御前の墓は侍女の琴柱によって弔われた後
杉の木を目印に植えられたそうですけど
享和3年(1803年)に勘定奉行の ”中川飛騨守忠英” によって
武蔵国栗橋宿に静御前の墓碑がないことを哀れみ「静女之墳」の碑が建立されたんですね
思案橋のすぐ横には静御前の伝説を伝承し、まちの活性化にと
トモエ乳業が工場の一角に静御前の銅像を建立しています α(・_・) 思案橋のすぐ横
それにしても・・・
シズカザクラの原木(親木はすでに枯れ、ひこばえが成長したものらしい)は
個人宅と言うこともあって詳しくは公表されていない事もあって (´・ω・`) みつからない
まぁ~
見つからないってことは、そっとしておいて欲しいんでしょう ( ̄ー ̄; 静かにね
そうと分かれば
先に進みましょう ≡≡≡(o*-ω-)o ←もう忘れてる
しばらく進むと東北自動車道が見えてきますけど・・・
たしか
東北道の手前の辺りだから・・・ ( ̄□ ̄;)!! あれか?
上の写真にも写っていますけど、見えてきたのは
№29の ”高谷林一里塚” です (=⌒▽⌒=)
倉庫のすぐそばにあって
写真を撮っていたら中から工事の方から声をかけられ
『日光まではキツイよぉ~
私も中学の頃によく走ったけど・・・』 と数分でしたけど色々なお話を聞かせていただきました
この日は午前中だけでしたが
他のサイクラーとは十数名とすれ違っていますけどほぼ全員がロードでしたから
写真を撮りながらと言うのは少ないんでしょうね
日光は東京から150kmほどですから
ロードなら前日の早朝にスタートして
夕方に日光に到着してホテルに泊まり
帰路はゆっくりスタートならこの辺りですれ違う計算になりますからね (=⌒▽⌒=)
あまりなれていない方でも
宇都宮からか別コースで鹿沼からなら45kmくらいですから
日光をゴールに日帰りか
日光に泊まって往復するにはちょうど良いくらいですね о(ж>▽<)y ☆
ゆるい坂なので足に疲労はたまりますけど
ゆっくりペースで上り、帰りはほとんど漕がずに帰ってきます (=⌒▽⌒=) 峠もないし
足を伸ばして中禅寺湖となると
ちと、とんでもない話しですけどね (;^_^A いろは坂が
さぁ、日光まではあと5ヶ所の一里塚が有るはず
のんびり行きましょうか
東北道を越えると・・・
何やら異様な建造物が・・・ ( ̄□ ̄;)!! お城が埋まってる?
実はこれ、浄水場から配水場までの高低差からくる圧力差を調整するための設備で
大正4年(1915年)に建築されたものなんですね
高低差30mごとに設置されたそうですけど
昭和24年(1949年)の今市地震によって大半が倒壊してしまったそうですけど
この第六号接合井だけは
創設当時のままの姿を今も残しているんだそうですよ α(・_・)
え、と、
案内表示によると、このまま直進で良いみたいですね
で、
信号を越えるときに何やら頭を出している石碑らしきもの発見っ! Σ(・ω・ノ)ノ!
何だろうと思ったら
”大谷観音” への参道だった ”大谷道” の分岐点の道標ですね
塀などに使われる ”大谷石” はご存知と思いますけど
昔から大谷石の産地に弘法大師が千手観音を刻んでこの寺を開いたと言われるお寺で
平安中期から進行の地だったんですね α(・_・) 廃道になってます
数百メートルで日光街道として最初の宿場になりますけど
共通部から数えると18番目の宿場 ”徳次郎(とくじら)宿” に入ります
徳次郎宿は ”上徳次郎” と ”中徳次郎” そして ”下徳次郎” の3宿に分かれていて
月の上10日を中徳次郎、中10日を上徳次郎
下10日を下徳次郎に割り当て交代で継立していたんですね α(・_・) 写真は下徳次郎宿ね
下徳次郎から中徳次郎に入ろうとしたところに・・・
えっ!
徳次郎ってお城が有ったんだ ( ̄□ ̄;)!!
ちょっと興味が・・・ (//・_・//) かなりかな
さっそく案内に従って進んでみると
辛夷(こぶし)が咲いています O(≧▽≦)O
東京近郊ではすでに桜が満開ですけど
標高200mほどですし、直線で100kmほど北に位置するので
桜はまだほころび始めた頃なんですよね
もうじき若葉の季節・・・
いや、ちびたい若葉がゾロゾロと・・・ (;^_^A
さぁ
この奥にお城が・・・
どんなお城なんでしょうかね ((o(´∀`)o))
*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*
風評被害をなくしましょう 地震速報
*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*
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東京外環自動車道の間を走る貨物線だったんですね ( ̄ー ̄; 当時は東京環状内側ね
横浜市の鶴見駅から千葉県の西船橋をつなぐ貨物線でしたけど
昭和47年(1973年)4月1日に府中本町駅⇔新松戸駅間で旅客線としても開業したんですね
開業当初は貨物列車の合間の住民への見返り運転だったそうですけど
ダイヤに余裕が生まれたことや沿線開発に伴う人口増から、次第に旅客列車も増発されてきたんですね
え!
いつもと雰囲気が違うって?
実は、今までは浦和方面が多かったんですけど
今日は反対側の南越ヶ谷から東武線の新越谷に乗り換えるんですよね (^^ゞ
さぁ~
始発列車がやって来ましたよ (=⌒▽⌒=) ストロボ焚かないでね
ってわけでやってきた東武宇都宮駅は
宇都宮追分まで1km足らずだったんですよね (;^_^A 前回使えば良かった
Angriff 改も組み立てて
準備は完了ですよ
サイコンをリセットして出発だぁ~ (^O^)/
東武宇都宮駅から北に伸びる道を進むと
間もなくT字路に当たります
T字路を今度は西(左)に進んで・・・
あれ? なんかの案内板みたいですよ (;^_^A 前回、気付かなかった
あ! こっち側にも・・・
町名の案内みたいですけど・・・
ふと、左の路地を覗いてみると・・・
バカでっかい銀杏の木ですよ Σ(・ω・ノ)ノ!
実はこの大きな銀杏の木は
宇都宮宿の本陣跡なんですけど
宇都宮宿は奥州街道の宿場なので
次回ちゃんとご紹介しましょうね (;^_^A 今回は日光街道ね
本陣跡の銀杏の木の見える通りから北を見ると
あそこが追分だったかな?
そうですね
前回、終了にした追分の案内板がありました
今日はここからがスタートです
サイコンはリセットせず
距離の1.01kmは記録しておきましょうね
奥州街道から分かれて清住町通りと呼ばれる道を進み
すぐに見えてくる歴史の有りそうな建物 ( ̄□ ̄;)!!
改修中ですかね
GWくらいにはお色直しも終わっていそうですよ (‐^▽^‐)
間もなく ”桂林寺” の入口にあたる交差点には
№27の ”宇都宮一里塚” があったそうですけど、現在は痕跡もなし (´・ω・`)
じきにコンビニも少なくなりそうなので
今のうちにおやつでも・・・
走りながらアンパンはお昼すぎまでかけて
4個入りの1個0.9gの脂質ですから全部で3.6g
ビスケットは100g当たり3gの脂質で180gですから約5g
合計で9g弱ですから夕食まで全部でつないじゃいます (^^ゞ
うわっ
見事な桜並木ですよ O(≧▽≦)O
もう1週間あとだったら満開だったかも (;^_^A 東川口散ってるし
σ(・_・) 実は桜だけの並木ってあまり好きではなく
このくらいにいろいろな木に桜がある方が好きなんですよね (^^ゞ
でも、学校の門には
やっぱり桜と思うのは日本人だからですかね (^^ゞ
あれ?
もうひとつ門があるんですね
実はこの ”文星芸術大学” の門に挟まれた位置にあるのが
№28の ”上戸祭(かみとまつり)一里塚” なんですね
この西塚は現存しますけど
向かいの東塚は半壊状態で塚木はありません (´;ω;`)
お! 日光まで21kmですよ
今日はショートコースですけど
ゴールの東照宮からは番外編にして
松尾芭蕉の足跡をちょっと辿ってみようと思うんですね (=⌒▽⌒=)
って言うのは、おくのほそ道では
芭蕉は奥州街道を進んだだけでなくてあちこち寄り道をしているんですね
前回の日光・奥州街道共通部で言うと
日光・奥州街道共通/Google My Map (別窓で開きます)
小山宿を出て間もなくの ”喜沢追分” がありましたけど
林の中に現存する一里塚の手前ですね
前回の写真ですけど ”喜沢追分” でもある
喜沢西交差点ですね
交差点近くのお店にあった道標に右 奥州街道、
左 日光街道とありましたけど ”日光壬生道” への追分でしたね
芭蕉はこの追分から左に進んで ”室の八島” を参拝しているんですね
室の八島は歴史ある神社で
源義経の物語 ”義経記” にも登場しているんですよね Σ(・ω・ノ)ノ!
室の八島を参拝した芭蕉は元の道に戻らず
日光壬生街道を北上して合流する ”日光例弊使街道” を進んで
東照宮手前の今市宿で日光街道に合流するコースをすすんだそうなんです
そして
東照宮を参拝した後は会津西街道と日光北街道を進んで
古道でもある東山道の宿場だった ”粟野宿” は平安時代の宿場で
芭蕉の頃には黒羽藩の余瀬にしばらく滞在したんですね
奥州街道を旅した有名人と言えば
松尾芭蕉は無視出来ませんし
何より ”僕の遅道” は ”奥の細道” から
名をいただいていますからね ( ̄ー ̄;
走行記事の文末に各街道の走行距離と、その下に
走行コースのMy Mapをリンクさせ始めていますけど
日光街道/Google My Map (別窓で開きます)
日光街道と奥州街道では
松尾芭蕉の奥の細道での足跡も平行して調べてMy Mapを作成していきますよ (=⌒▽⌒=)
おくのほそ道 芭蕉の足跡/Google My Map (別窓で開きます)
もうひとり
奥州と言って忘れてならないのが α(・_・) 源義経っ!
こちらは五街道を制覇したのちの計画ですけど
弁慶と逃げ延びた足跡を往路に
復路は少年期の平泉までのコースを逆行する
京都⇒平泉⇒京都のコースを計画してもいます
こちらは芭蕉の更に500年前になる
850年も前の東山道の資料がとても少なくて
まだまだ公開出来ないくらいの
原案的な下調べの段階なんですね (^^ゞ
義経・弁慶と静御前の足跡/Google My Map (別窓で開きます)
芭蕉の奥の細道には
曽良と言うゼネラルマネージャーが同行し
曽良随行日記と言う資料を残してくれていますので
アマチュアの研究者も多いんですけど
義経や静御前となると
伝承から推測するしかないんですよね
あっ!
静御前と言えば・・・
あの車が曲がった辺りかな
と目星をつけたところにあるのが ”光明寺”
実はこの光明寺の東側に入って
200mくらいの個人宅に
ある桜の木の原木があるんだそうです
ある桜の木は
接ぎ木されてここに植えられているんですよね α(・_・) 前回の写真ね
えっ!
静御前のお墓じゃないかって
α(・_・) そうです
頼朝から命を狙われる羽目になった義経は
源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶・静御前を従え九州に逃げようと
大物浜(尼崎市)から乗船しましたが嵐のために難破し
1kmほど西の芦屋の里に漂着したそうですけど
一行は散り散りになり、義経と静御前だけは
手を握り合って打ち上げたれたと言います (´・ω・`) 愛し合っていたんですねぇ
その後の一行は吉野の山中に逃げ込みますが
足の遅い静御前は弁慶に説得され京に帰ることに・・・
吉野山中に義経が潜んでいるとの情報で
捜索に来た追手に静御前は捕らえられ
京に護送されたのちに鎌倉に呼びつけられるのですが・・・
鎌倉殿(頼朝)の妻、政子が日本一の静の舞を見てみたい
と言う理由でなんですね
何と言う皮肉でしょうか ( ̄へ  ̄ 凸
つまり
頼朝はこう言いたいわけなんですよね
『お前の様な賤しい身分のものは、公の場で証言できるような身分ではない
白拍子なら、客から呼ばれたら鎌倉だろうがどこだろうがやって来いっ!』
静御前の身分は第二夫人としての側室ではなく
あくまでも妾であって白拍子
白拍子とは今で言えば
銀座のホステス兼ダンサーのような位置づけです
静御前は鶴ヶ岡八幡宮の舞台に立ちますが
前列の観客は睨みつけるような関東武士たち
きっと
足もすくみ、汗も止まらぬ心境だったでしょう
初めの舞では本領は発揮できず
ブーイングの嵐 ( ̄ー ̄;
生きた心地ではなかったでしょう
潰れそうになる心を振るって立ち上がり
天を見据えると
何かを悟ったのかも知れません
『どんな時でも
私は私であれば、それで良い』 と・・・
”吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ 恋しき”
(吉野山の白雪を踏み分けて奥州に消えた 人(義経)が恋しい)
と、あろうことか義経恋唄を唄い上げ、続けて
”しず(賊・身分の低い者の服布)やしず
しずのおだまき繰り返し むかしを今に なすよしもがな”
(しず布を織るために糸を巻くおだまきのように繰り返す、昔であったらどんなに良いことか)
と舞ったのです Σ(・ω・ノ)ノ!
普段は冷静で、取り乱すことがなかったと言う頼朝も
この時ばかりは怒りに血が登ったらしく
刀に手をかけようとしたその時
『主を想う女の心は女にしか分からぬものです』
と夫人の政子に止められたんですね (; ・`ω・´)
鎌倉で尋問された静御前は
吉野で別れて以来のことは分からないの一点張り
結局は半年後に静御前は自由の身となりますが
この時に政子や大姫(頼朝の長女)たち女性陣からは
彼女に同情してたくさん贈り物を送ったと言われますが
同情だったのでしょうか?
もしかしたら
憧れか応援だったのかも (;^_^A そう思います
伝承では2年ほどの空白がありますけど
静御前は義経を追って栗橋から古河を通っているんですね
①下辺見②思案橋③静桜原木④高柳寺(推定)
⑤移転後の高柳寺⑥静御前の墓、Aは鎌倉時代の古河の渡しの関所
伝承の辻褄を合わせてつなげると
鎌倉から一度は京に帰った静御前ですが義経を慕う思い絶ち難く
文治5年(1189年)1月に奥州平泉へと向かう旅に出ます
栗橋には義経の叔父が住職を務める高柳寺があり
立ち寄ろうと筑波道を通りますが
途中で下河辺荘司行平が古河の渡し(島川)を固めていると聞き
上の地図では ”A” が鎌倉時代の島川の渡しの関で
これを避けて栗橋に入り
高柳寺に一泊して平泉に向かいますが
迂回した道を戻り
現代で言う国道R354を通ったみたいですね
下辺見の茶屋で休んでいるところ、行き交う旅人が義経の噂をしているのを聞き
懐かしさの余りその旅人に義経の消息を尋ねたところ
一月ほど前の文治五年閏4月30日(1189年6月15日)に
平泉高舘で自害した、と教えられたそうです
この下辺見と言う土地は地図では ”①” になりますけど
飛び地が多くあって2kmほど南にも下辺見があるんですね
たぶん、思案橋の近くに茶屋が有ったのでしょう
思案橋は京に戻ろうか
平泉に進もうか思案したと言うことから名付けられていますが
行ったり来たりを繰り返したんじゃないでしょうか?
近くに、と言っても直線距離で5kmほどに
”静の椿” と ”結びの柳” と言う伝承があり
下辺見から高柳寺に戻る途中にこの地で椿の枝を箸にして食事をした静御前が
その枝を義経と生まれてすぐに殺され、鎌倉の海に流された自分たちの息子に代わり
大きく育ってほしいと願いを込めて植えたものと伝えられています
高柳寺に戻ると言うのが下辺見から直接なのか
宇都宮まで進んでから戻るのかは分かりませんが
付近には ”静帰(しずかがえり・しずごり)” と言う地名もあります
平泉に向かおうと決意して、宇都宮から日光街道を経て
会津西街道(R121)から山形経由のコースと想像しています σ(・_・)
高柳寺を発って2日ほどで野沢の地に着いたと思いますが
愛する人の死に既に生きる望みを失い、慣れない長旅の疲労から病に伏し
奥州に向かえない無念からか
野沢に1本の桜を植え義経の菩提を弔ったと言われます
そして高柳寺で剃髪 して尼僧となるんですけど
その数ヵ月後の同年9月15日
『九郎ぬし(義経様)』 という言葉を最期に22歳の若さでこの世を去りました (´;ω;`)
伝承では涙に暮れた静御前が一本の桜を
ここ野沢の地に植え、義経の菩提を弔ったのがその名の起こりといわれていますけど・・・
光明寺の東、約200mにあった桜の木 ( ̄□ ̄;)!! これか
下から
花を写してみましたけど (;^_^A 違うみたい
ちょっと久喜市のHPから拝借してきましたけど
静御前墓に植えられている ”シズカザクラ” の写真です (;^_^A
やっぱり
違うみたいですね (^^ゞ 時期も早いし
シズカザクラは里桜に分類される希少な桜で
ひとつの枝に一重と八重が混ざったような咲き方だそうで
八重に見えるのは
おしべが変化したものなんだそうですよ ( ̄□ ̄;)!!
栗橋にある静御前の墓と思案橋は
ぜひ、訪れてみて欲しいんですけど
秋には栗橋で静御前まつりが開催されますし
静御前まつり/久喜市 (別窓で開きます)
ソメイヨシノが散るころから開く
静桜も静御前の墓に植えられていますよ (^O^)/
静桜の里くりはし/久喜市 (別窓で開きます)
静桜は原木のほか
接ぎ木されて静御前ゆかりの地に数ヶ所植えられていますけど
久喜市栗橋は全国で最も多く植えられ
静桜マップも用意されています
静桜マップ/久喜市 (別窓で開きます)
静御前の墓は侍女の琴柱によって弔われた後
杉の木を目印に植えられたそうですけど
享和3年(1803年)に勘定奉行の ”中川飛騨守忠英” によって
武蔵国栗橋宿に静御前の墓碑がないことを哀れみ「静女之墳」の碑が建立されたんですね
思案橋のすぐ横には静御前の伝説を伝承し、まちの活性化にと
トモエ乳業が工場の一角に静御前の銅像を建立しています α(・_・) 思案橋のすぐ横
それにしても・・・
シズカザクラの原木(親木はすでに枯れ、ひこばえが成長したものらしい)は
個人宅と言うこともあって詳しくは公表されていない事もあって (´・ω・`) みつからない
まぁ~
見つからないってことは、そっとしておいて欲しいんでしょう ( ̄ー ̄; 静かにね
そうと分かれば
先に進みましょう ≡≡≡(o*-ω-)o ←もう忘れてる
しばらく進むと東北自動車道が見えてきますけど・・・
たしか
東北道の手前の辺りだから・・・ ( ̄□ ̄;)!! あれか?
上の写真にも写っていますけど、見えてきたのは
№29の ”高谷林一里塚” です (=⌒▽⌒=)
倉庫のすぐそばにあって
写真を撮っていたら中から工事の方から声をかけられ
『日光まではキツイよぉ~
私も中学の頃によく走ったけど・・・』 と数分でしたけど色々なお話を聞かせていただきました
この日は午前中だけでしたが
他のサイクラーとは十数名とすれ違っていますけどほぼ全員がロードでしたから
写真を撮りながらと言うのは少ないんでしょうね
日光は東京から150kmほどですから
ロードなら前日の早朝にスタートして
夕方に日光に到着してホテルに泊まり
帰路はゆっくりスタートならこの辺りですれ違う計算になりますからね (=⌒▽⌒=)
あまりなれていない方でも
宇都宮からか別コースで鹿沼からなら45kmくらいですから
日光をゴールに日帰りか
日光に泊まって往復するにはちょうど良いくらいですね о(ж>▽<)y ☆
ゆるい坂なので足に疲労はたまりますけど
ゆっくりペースで上り、帰りはほとんど漕がずに帰ってきます (=⌒▽⌒=) 峠もないし
足を伸ばして中禅寺湖となると
ちと、とんでもない話しですけどね (;^_^A いろは坂が
さぁ、日光まではあと5ヶ所の一里塚が有るはず
のんびり行きましょうか
東北道を越えると・・・
何やら異様な建造物が・・・ ( ̄□ ̄;)!! お城が埋まってる?
実はこれ、浄水場から配水場までの高低差からくる圧力差を調整するための設備で
大正4年(1915年)に建築されたものなんですね
高低差30mごとに設置されたそうですけど
昭和24年(1949年)の今市地震によって大半が倒壊してしまったそうですけど
この第六号接合井だけは
創設当時のままの姿を今も残しているんだそうですよ α(・_・)
え、と、
案内表示によると、このまま直進で良いみたいですね
で、
信号を越えるときに何やら頭を出している石碑らしきもの発見っ! Σ(・ω・ノ)ノ!
何だろうと思ったら
”大谷観音” への参道だった ”大谷道” の分岐点の道標ですね
塀などに使われる ”大谷石” はご存知と思いますけど
昔から大谷石の産地に弘法大師が千手観音を刻んでこの寺を開いたと言われるお寺で
平安中期から進行の地だったんですね α(・_・) 廃道になってます
数百メートルで日光街道として最初の宿場になりますけど
共通部から数えると18番目の宿場 ”徳次郎(とくじら)宿” に入ります
徳次郎宿は ”上徳次郎” と ”中徳次郎” そして ”下徳次郎” の3宿に分かれていて
月の上10日を中徳次郎、中10日を上徳次郎
下10日を下徳次郎に割り当て交代で継立していたんですね α(・_・) 写真は下徳次郎宿ね
下徳次郎から中徳次郎に入ろうとしたところに・・・
えっ!
徳次郎ってお城が有ったんだ ( ̄□ ̄;)!!
ちょっと興味が・・・ (//・_・//) かなりかな
さっそく案内に従って進んでみると
辛夷(こぶし)が咲いています O(≧▽≦)O
東京近郊ではすでに桜が満開ですけど
標高200mほどですし、直線で100kmほど北に位置するので
桜はまだほころび始めた頃なんですよね
もうじき若葉の季節・・・
いや、ちびたい若葉がゾロゾロと・・・ (;^_^A
さぁ
この奥にお城が・・・
どんなお城なんでしょうかね ((o(´∀`)o))
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