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「管理」か、「自由」か

2015年10月03日(土)

老年臨床看護9.10月号は、「管理」か「自由」か、で書いた。→こちら
管理という上から目線が認知症を悪化させることを指摘した。
さらに、病院と牢屋、そして施設との違いを考えてみた。
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第3回 「管理」か、「自由」か  長尾和宏
 
「管理」という上から目線が認知症を悪化させる

 老人はいつの時代からか「管理」される存在になりました。いや、正確に言うと医療保険や介護保険のお世話になる限りは、「管理されること」を甘受しなければいけません。病院に入院すると、1日に何度かバイタルサインをチェックされます。介護施設に入所しても同様です。デイサービスや訪問入浴でさえ、「管理」の下で行われます。この世に「管理」がある限り、必ず「管理する側」と「管理される側」に分れます。管理職と労働者の関係と同様に、そこには必ず上下関係が生まれます。こうしてできあがる「上から目線」は、必ずジワジワと別の問題を生み出します。
 
 もし認知症の人を上から目線状態に晒したらどうなるでしょうか?不安、徘徊、怒り、暴言など、いわゆる周辺症状と呼ばれる症状が出るはず。それを見た管理する側は、「それみたことか」とさらに管理を強化します。身体拘束や抑制や鎮静です。「管理」した結果の症状に対してさらに管理を強化することは、なにひとつ当事者を利することはありません。しかしその理不尽さに気がついている“管理者”は、まだまだわずかです。私に言わせれば、それに気がついていない管理者こそ、本質を認知する能力に相当の課題がある、と言わざるを得ません。

 では、管理をしなければどうすればいいのか。「自由」にさせてただただ「見守る」ことでしょう。よほどのことが起こらない限り、“放置プレー”でいい。“放牧”でいい。ただし横からしっかり見守っていればいい。しかしヨチヨチ歩きの赤ちゃんの見守りはできても、ヨチヨチ歩きの高齢者の見守りができる看護師は、日本にはそう多くはありません。なぜなら「管理」したほうがずっと簡単で、自分が楽だからです。
 
 2000年以前は、介護保険制度なんてものはこの世にありませんでした。「措置の時代」と呼ばれていますが、今ほどに「管理」という言葉も意識も無く、今思えばずいぶんおおらかな時代でした。介護保険ができてからケアマネジメントという概念が導入され、「管理、管理」となりました。看護も同じです。確かに管理しましたよという証(あかし)を、しっかり記録に残すことこそがいい看護になりました。人を看ることより、人を管理することが看護師の仕事に変容したのです。まるで笑い話のような現実の中、みなさまはどのような看護を目指しますか。
 
 
唯一、“自由”が残っているの施設とは

 人はなぜ生きるのでしょうか?何のために生きるのでしょうか?そんな答えが出ない命題にも真剣に向き合った時期が誰にでもあることでしょう。青春時代は、過ぎてから分るものです。人間は人生の後半になればなるほど、そんなことを考えなくなります。考えても意味がありません。私自身も57歳になり、もうそんなことを考えることがほとんど無くなりました。しかし「もうすぐ死ぬのに、何のために生きているの?」と問われたら、なんて答えるのでしょうか。きっと、「良く分からないけど、自由を楽しむために生きている」と答えるのではないだろうか。
 
 私は幸か不幸かまだ牢屋に入った経験がありません。あまりの忙しさに、どこか静かな場所で粗食に読書三昧したいな、なんて想う時があります。「じゃあ、牢屋がピッタリじゃないか」と誰かに言われました。それを聞いてから、もし機会があれば1週間でも牢屋生活をするのも悪くないかも、なんて想像します。しかしよく考えれば、牢屋に入るとは、「移動の自由」を奪われること。囚人服を着せられて看守に見張られたら、どれほどのストレスかかかるのだろうか。きっと想像以上のストレスがかかるのだろう。
 
 しかし考えてみれば「病院」という場所も牢屋とそれほど変わらない所。病人着を着せられ、手錠の代わりに腕輪を付けられ、時間が来れば機械的に病人食を食べないといけません。寝る時間も起きる時間も看護師という看守に監視されています。どこまでも牢屋と似ています。ただ病院が牢屋と決定的に違うのは、管理されることを我慢した結果、病院では「病気を治してもらえる」という御褒美がもらえる点です。素晴らしい果実が待っているからこそ、辛い監禁生活にも耐えて耐えて忍んでいるのが大半の入院患者さんです。しかしもし、その御褒美が無かったらどうなるのでしょうか。
 
 期待した成果が出なければ、「落胆」という新たな大きなストレスが生まれます。それでも「管理」というムチが容赦なく入るのが病院という場所です。決して大袈裟ではありあせん。病院という場所は、それほど一人の人間の自由を奪いながらも奇跡を期待させる場なのです。
 
さて、話を介護施設に移してみましょう。元来、施設とは病院と違って自由で楽しい場所だったはずです。しかし2000年以降、施設も医療の悪い面を後追いしている気がしてなりません。つまり介護も「管理、管理」の世界に年々なっています。大病院の看護師が1日中、看護記録を書いているように、施設の介護士も介護記録に追いまわされて、本来の介護業務に手が回らないところがあります。そこに厳しい人手不足が重なり、大変なことになっています。
 
 そんな介護施設の中で、唯一「管理」と縁遠い場所があります。それは小規模多機能です。宅老所と呼ばれていたものが介護保険制度にのり8年が経過しました。利用者にとって一番自由で使い勝手のいい、居心地がいいのが小規模多機能ですが、思ったように増えていないことは大変残念です。増えない最大の理由は、あまり儲からないからでしょうか。こぶし園の故・小山剛さんは、「長尾先生、小規模多機能は上手くやれば黒字になるんですよ」なんて笑っていましたが、現実には経営は厳しい、と聞きます。それにしても一番儲からない施設が一番楽しい介護、もっと言うならば質の高い介護を実現できているという現実は不思議ですね。もしかしたら我々の青春時代のように貧乏だから自由であり、管理から遠いので楽しめるのかもしれません。当院の近くにも小規模多機能があり、独居の認知症の方が何人かお世話になっています。ここに入るとみるみる元気になります。普通の生活を見守るだけの人がいるからでしょう。ここはいつ訪問しても、みなさん笑顔です。介護スタッフからの電話が少ないのも、この小規模多機能です。実は小規模多機能は正確には介護施設ではなく、「機能」であることは指摘しておかねばなりません。
 
地域包括ケアと小規模多機能

 地域包括ケア時代に必要なものは、ひとことで言うと「管理からの脱却」ではないか。歳を取り、認知症が出て、一人で歩けなくなっても、もし足りないところだけを補ってくれる人がいれば住み慣れた地域で普通に生活できます。自由に食べること、移動すること、排泄すること。それに必要な“機能”こそが、小規模多機能なのです。なにより地域に密着しています。その最大の特徴は、介護報酬が包括制ですが、これは病院のDPC制度とどこか似ています。
 
 さらに言うなら地域包括ケアとは、街全体を小規模多機能化することです。ちょっと分りにくいかもしれませんが、中学校区がひとつの小規模多機能化していくのです。いや、そうなると“大規模多機能”と言ったほうがいいのかもしれませんね。そしておそらく近い将来、地域でパイを奪い合うのではなく、パイを分け合う時代になるのでしょう。出来高から包括制への移行は必至である、と個人的に考えています。そうなると、“小規模多機能”というヘンテコな名前はもっと親しみ易い名前に早く改名して、各地域にもっともっと増やさないといけません。いや、医療政策的には既存のサービス付き高齢者向け住宅を、小規模多機能へ転換したほうが早いかもしれないと私は考えます。そして、有料老人ホーム、グループホーム、療養病床にまで「管理からの脱却」が広がっていけばいい、と夢見ています。
 
 さきほど「管理からの脱却」と書きましたが、この言葉を理解できる看護師さんがどれだけいるのでしょうか。個人的にたいへん興味のあるところです。あるいは、お医者さんはどれくらいいるのでしょうか。私の勝手な推測では、おそらく1%もいないのではないか。骨の髄まで「管理」が沁み込んでいる中堅以上のスタッフにはどう説明しても理解できないでしぃう。しかし本書の読者のみなさまには、是非とも「管理から脱却した看護」、「患者さんの自由を重んじた見守り」にバージョンアップして頂けたら幸いです。

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この記事へのコメント

「管理」か、「自由」か ・・・・・・ を読んで


「管理」されるのが良いか? 「自由」に振る舞える
のが良いか? と尋ねられた時、100人いたら100人
全員が「自由」を選択すると思います。


では何故こんなにも「管理」が幅を利かせているの
でしょうか? 私は“これは・・・・・必要悪!”では?
と考えています。


「管理」は、選択肢の1つしかない(或いは少ない)
 状況。
「自由」は、選択肢の多い(時には無限大)状況。


時々、ほとんど何も制約を受けない〔=放牧状態〕
小規模多機能施設に入居している人たちが、とても
落ち着いて、会話と笑顔が絶えず、日々の生活を
存分に楽しんでいる! という夢のような話が出て
来ますが ・・・・・・、私にはいくつかの疑問を感じます。


「自由」・・・・・ 沢山の選択肢を許容するということは、
例えば“入浴”を考えてみると、人によって“朝入浴
したい”“昼間に入浴したい”“夕食の前に入浴して
さっぱりとした状態で食事をしたい”“寝る直前に入浴
して、リラックスした状態で床につきたい”・・・・ 等
など、いろいろなバリエーションが考えられます。


人それぞれ好みが異なりますから、それはそれで
自然なことと思いますが、それに対応する施設側
の職員さんがそれに応えることが出来るか? 
というと疑問を感じます。 


現状の「管理・・・・管理・・・・」の状態でも、職員さんは
多忙に悲鳴を上げています。

「自由」を認めることで、入所者さんと職員さんの
間の信頼関係が増大し、入所者さんの気持ちが落ち着
き、心が穏やかとなり、不要なナースコールや頻繁な
要求が減るといった効用が伝えられますが、「自由」
を認めることは、職員さんの負担が無尽蔵に増大する
ように思えてなりません。


「入浴」「食事」「散歩」「団欒」・・・・・・、施設に
入居して集団生活を送る以上、「管理」は止むを得な
い〔必要悪〕のではないのでしょうか?


認知症になった時に受け容れてくれる施設はいろいろ
とありますが、私は認知症にならない道、予防する道
を選びたいと思います。 そこで期待しているのが ・・・・
“つどい場”です。 “つどい場”は、いろいろな職種の人が
まじくっていて、とても自由で落ち着けるところです。 が、
15時に行って「お昼ごはんが食べたい!」と言っても、
「今の時間帯はティタイム ・・・・・ ごめんね!」と言われ
ると思います。 それで良いと思います。

どのような「自由」にも、限りがあります。


完全な「自由」を望むのであれば、「自宅(在宅)ケア」
を貫くしかないように思っています。


「管理」か、「自由」か問われれば、「自由」を望み
ますが、「管理から脱却した看護」、「患者さんの自由
を重んじた見守り」にバージョンアップした看護を!
という今回の長尾先生の提言を、真面目な職員さんが
必要以上に反応して、自分を追い込まないように、そし
て“つぶれる”ことのないように祈念しています。

Posted by 小林 文夫 at 2015年10月03日 09:41 | 返信

今までに
有料老人ホームの利用者さま お二人に 訪問看護に行っています
ハテナが多くて はてな はてななんです
家族じゃない施設スタッフに 尋ねても 明確な答えが帰ってきません
ケアマネージャーさんに 聞いても 施設の中のことは ホントに わかりにくいとのお返事です

施設は 閉ざされた世界なんでしょうか

自由は 自分で掴むもんですね

Posted by 訪問看護師 宮ちゃん at 2015年10月03日 10:06 | 返信

認知症の方々が施設に入所する理由は介護する家族が自由を得るためですね。それと引き換えに認知症の入所者は管理下におかれて自由は奪われ、抗精神薬による薬剤抑制も管理目的の下に正当化される。
最後まで配偶者の自宅介護で精神的に疲弊しきって、介護対象者の死後、深刻な認知症が現れるケースを何人もみてきました。何か誰かが犠牲にならないとダメな構造になっていますね。

Posted by ある実践医 at 2015年10月04日 11:58 | 返信

 私は措置の時代、痴呆症と言われているときから介護を仕事にしています。
 
 措置時代の老人ホームは身体拘束が当たり前でした。認知棟では手の届く範囲には何も置いていない無機質な空間が広がっていました。職員もあまり声をかけることなく、ガラス越しに認知棟の隣にある寮母室から見ている感じでした。私は実習に行って、その認知棟に入り認知症の方たちと過ごしましたが、ガラス越しに観察される体験をし、本当にいやな気分を味わいました。

 それよりもっと前の時代はベッドを高い柵で囲んで閉じ込めていたと聞きます。認知症の歴史についての写真集もあるので、見てみてください。昔はボケ老人におおらかだった訳では無いとおもいます。

 今から15年ほど前に身体拘束は良くないよね?と言うムーブメントがおこり、私が働いていた老人ホームでも身体拘束を一切止めました。止めた当初は転倒の嵐でしたが、それなりに対応策を図り、対応していました。
 その頃から認知症の方たちを自由にしようと言う動きが加速したと思います。

 私が特別養護老人ホームで働いていたとき、グループホームが新しくできて、グループホームでは毎日買い物に出かけ、生き生き過ごしている。これはすごいって理想的だって思いました。
 そして今は小規模多機能もあり、理想的だとおもいます。

 ただ、介護職の人が足りない時代、介護職の質が低下してきている時代に、一人の認知症の人にこれほど手厚くするサービスは理想ではあっても、経済的に、人口割合的に、長続きさせる事は難しいのではないかと思います。 

 でもやはり人として自由にさせてあげたいですね。

Posted by みるく at 2015年10月04日 09:13 | 返信

老人にとって、自由と言う状況は、独居しかないでしょうね。
自由だけれど、いつ強盗が入って、殺されて、金品を盗まれてもおかしくない自由でしょう。
息子夫婦と同居したら、息子と嫁に管理されるし、老人ホームに入れば、老人ホームの施設長やスタッフに管理される。
どの道を選択するか、老人本人の責任ですね。
自治会や町内会は独居老人が火災や、強盗殺人事件で世の中を騒がすのは嫌がります。
自分達の土地の値段が下がるからです。
何かのはずみで気絶なんかしたら、大変です。救急車が呼ばれて、救急病院に入院させられて、結局老人ホームに入れられます。
そんな高齢女性が、最近亡くなったと風の便りに聞きました。
母の友達のクリスチャンでした。
私の無力さをつくづく無念に思いました。

Posted by 匿名 at 2015年10月06日 01:34 | 返信

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