『江戸の気分』(堀井憲一郎、講談社)、「落語を通して、江戸の気分をリアルに想像してみよう」という本だ。
江戸の人気分になれると、いまが相対化できる。ごくふつうの生活だとおもっていた現在の妙な部分に気づくことがある。
という「まえがき」に、「こりゃどうもうまいこと言うね」とうなずきながら、落語気分で『江戸の気分』を読む。
江戸の気分 (講談社現代新書) | |
堀井憲一郎 | |
講談社 |
ちょうど真ん中ほどに「蚊帳に見守られる夏」という章がある。
日本はアジアだ。
野生のサルがいて、虫もいる。
夏になれば蚊が出てくる。21世紀になっても、出てくる。
(略)
縱橫に水路がめぐらされていた江戸では、蚊から逃げられることはない。これは昭和中期ころまで似たような状況である。はるか原始の時代より、つい数十年前までは、われわれは夏は家屋を開け放ち、風通しがいいように暮らしていた。風も通るが蚊も通る。それが当然である。
だから夏は蚊帳を吊る。
(Kindle版位置No.1271付近)
そういえば、盆の休みのあいだのことだ。
女房殿実家に里帰り中につき、おさんどんしているところに珍しく蚊が出てきた。
追いかけ回して、やっとしとめたとたん、また出てきた。
それこっきりである。
以後出てこない。
アジアたる日本の、しかも地球温暖化のただ中で年々亜熱帯っぽくなってきているこの地に暮らしているが、ふだんの生活で蚊に悩まされることはめったにない(ある種の現場ではあります。蚊がいないわけではない)。そんななかで、蚊帳などというものを現実の生活用品として実感できる人間は、いくつ以上の世代なのだろうとふと考える。もちろんわたしはできる。しかも、なるだけ隙間をつくらないようにそ~っとすべり込む実感とともに(でなけりゃ人間といっしょに蚊が入る)。
ハエもいなくなった。
蚊もいなくなった。
だから昔はよかった、などという気はさらさらない。
いかなひねくれ者のわたしとて、蚊がいた夏を懐かしむなどという風流は持ち合わせてなく、虫刺されに極端に弱いわが身を思えば、蚊など一匹たりとも入ってこないほうがよいに決っているからだ。
われわれの生活はきれいにクリーンになり、とても暮らしやすくなってゆく。50年前と比べればいまの生活はおそろしく便利である。そのぶん何かを失ってゆくのだけれど、失ってゆくものに対してはあまり頓着しない。もちろん戻れったって、昔の生活にはまったく戻りたくないです。(位置No.1350付近)
「フムフムなるほどそうだよね~」とあいづちを打ちつつ、『江戸の気分』で「蚊の話」を読む。
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