仕事は楽しいかね? (きこ書房) | |
デイル・ドーテン | |
きこ書房 |
「仕事は楽しいかね?」
なんぞという質問をされた日には、20年前なら「90%の辛苦と10%の達成感。それをして”楽しい”というか”楽しくない”ととるか。そもそも仕事が楽しいってどういう感覚なんだ?」なんて答えにならない答えをしていたのだろうか。
それが10年前なら・・・?
そしてただ今は・・・?
だがそれ以上、答えは出さない。
そりゃそうだ。わたしにとって「楽しいか」「楽しくないか」は、こと仕事においてはどちらでもよいことであり、それゆえ、「楽しい」からよし「楽しくない」から悪しという判断基準も存在しない。「それじゃあアンタはどんな感情を持って仕事をすることをよしとするんだい?」、と問われたとするとそれは、「おもしろい」だろうか。
なんてことを考えつつ読み始めた『仕事は楽しいかね?』(デイル・ドーテン)。
出張の帰りに、大雪のため一昼夜空港のロビーに足止めされた「私」。そこで出会ったある老人に、つい仕事で鬱積(うっせき)した感情をぶつけてしまう。老人は実は、企業トップがアドバイスをほしがるほどの高名な実業家。その含蓄ある言葉に「私」はしだいに仕事観を揺さぶられていく。(Amazon商品説明より)
全編を通じてのキーワードは「試す」だ。
毎日毎日、違う自分になること。これは”試すこと”を続けなければならないということだ。そして試すこととは、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、試行錯誤を繰り返しながら、それでもどうにかこうにか、手当たり次第に、あれこれやってみるということだ。(位置399)
ただ、いいかい。何かをやってみて、それがろくでもないアイデアだとわかったとき、きみはもとの場所に戻ることは絶対にない。必ず、何かを学ぶからだ。学ぶべきことが何もなかった場合は、その前にしていたことに高い価値をおくべきだってこと。そういう意味で僕は、試してみることに失敗はないというのは真実だと思っている。(746)
「試す」、原文では何という単語で表現されてるのかわからないが、一般的に考えれば try だろうか。try だとすればしっくりくる。さらにそれを、「やってみる」と訳したらなおさらしっくりとくる。
まず「やってみる」。
やったことをふりかえると、「気づき」がもれなくついてくる。
その「気づき」を、さらに上のランクの成果にできるかどうかは、まずはそこから「学び」を起動させられるかどうかにかかっている。だが、「やってみた」からといっていつも「学び」が起動するとはかぎらない。さらに「学んだ」からといって成果があがるとはかぎらない。いくつかの偶然や、その偶然を必然にする努力や感性やもろもろが合わさることが必要なそれは、いつもいつでも誰にでも転がりこんでくるものではないし、ターゲットを狙いすまして撃ち抜くことによって得られるものでもない。優秀きわまりない人はいざ知らず、少なくとも凡百の人間にとっては、そういうものではない。
だが、「やってみる」は誰にでもできる。
もちろん、「やってみることができる」能力というものは厳として存在していて、若いころのわたしのように、「やればできる」と言われつづけ「オレはやればできるんだもんネ」とうそぶきつづけているような人間には、「やる」もしくは「やってみる」という能力が(少なくともそう言いつづけている時点では)欠けているだけのことではある。
だが、それを承知で、またそれを経てきた体験があるからこそあえて言う。
「やってみる」は誰にでもできる。
そして、
考える→やってみる→うまくいかない。
考える→やってみる→うまくいった。
前者のほうの割合が圧倒的に多いにせよ、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」的なその繰り返しからは、小さな成果なら必ず得ることができる。そいつが大事だ。そのささやかな成功体験を糧にして、また「やってみる」。
すると「おもしろさ」を感じるようになってくる。わたしは、そこで生まれた「おもしろい」という感覚をたいせつにしてきた。今でも「仕事が楽しい」という感情はよくわからない。だが、「仕事がおもしろい」という感覚は身体が覚えこんでいる。
で、結論。
『仕事は楽しいかね?』というタイトルの本に対し、少し斜に構えた姿勢をとって読み始めたわたしだが、
「試す=try=やってみる」
これがもっともたいせつだ、という著者の説に同意。
読み終わるとさっそく、『仕事は楽しいかね?2』をクリックしたわたしなのである。
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