語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】「若い女性」のマリアは誤訳によって「処女」になった ~ギリシャ語聖書~

2018年09月22日 | ●佐藤優
 それから「神を生んだ人」に二つ目のギリシャ語の注記があります。これは「テオトコス」と読みます。
 ここでは、マリアははたしてテオトコス(神を生んだ人)か、クリストトコス(キリストを生んだ人)かの論争がありました。ネストリウスという5世紀の神学者が、このクリストトコスを唱えましたが、これは異端として追放されてしまいます。それは、マリアをクリストトコスとすると、キリストの神性が十分に担保されない、つまりテオトコスよりも一段次元の低い神である、とされてしまうと非難されたのです。キリストは真の神だから、テオトコスでもクリストトコスでも、どちらでも構わないじゃないか、とはいかないのです。
 このあたりの論争は、調べ始めると非常に面白い。でも、みんなどう思う? マリアは聖霊によって身籠もった。だから「処女」降誕ということが、キリスト教の教義になっている。でも、これは文献実証的には、かなり証明されるんだけれど、じつは誤訳なんです。本来は「若い女性」という言葉で訳さないといけないものだった。ところがギリシャ語に翻訳するときに、ギリシャではアルテミス信仰、すなわち処女は特別の力を持っているという信仰があるから、そこのところで処女という訳語があてられたのです。
 だから実証研究においては、処女降誕とは、当時の文脈においては、適齢期の女性が子どもを生んだということだった。ただ、聖霊の力によって生んだということだから、そこでは処女性に問題はなかったはずです。だから神学的には、処女降誕とは、処女で生んだわけだから、マリアは生んだあとも処女ということになる。
 そうすると、非常に神秘的な形のマリアに、果たして原罪があるのか否かの論争が、次に出てくる。この論争はキリスト教の長い歴史の中でも共通認識をつくりだせないままになっていましたが、19世紀になってから、急速にカトリックのほうで神学的な整備が進み、マリアには実は罪がない、と19世紀の半ばぐらいに確立します。これを一般に「無原罪の御宿り」とか「無原罪懐胎」と呼んでいます。
 となると、原罪がないならば、死後のマリアがどうなるかで、また矛盾が生じかねない。つまり、キリスト教では人は死後、基本的には陰府(よみ)で寝ていて、最後の審判を待っているわけです。神の右に座している、すなわち天国に、「神の国」に入っているのはイエス・キリストだけ。でも、無原罪で罪を負っていないマリアは、どうなる?
 ここでもカトリックは、1950年代に、マリア無原罪の昇天ということを、教義として確立してしまいます。だから天国には、今のところ人間ではただ一人、マリアだけがいる。マリア自身は無原罪であるがゆえに、既に天国にいる、という教義の組み立てにしたのです。
 これはカトリックの考えであって、プロテスタントはそうは考えない。神学の初心者段階では、「へぇ~、そうなっているんだ」というエピソードとして覚えておいてくれれば構いません。ただ、プロテスタントとカトリックのこうした違いは、救済観や人間観など、折々に顔を出してくることがあることも覚えておいてください。

□佐藤優『悪魔の勉強術 年収一千万稼ぐ大人になるために』(文春文庫、2017)の第3講の「*「処女」は「若い女性」である」を引用

 

 【参考】
【佐藤優】臨床で有効なコフート心理学 ~『悪魔の勉強術』~





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