語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】見えるお金が見えない心を縛る ~『なぜ私たちは生きているのか』~

2018年02月22日 | ●佐藤優
 <佐藤 貨幣にはそもそも宗教的な要素があります。商品が貨幣に姿を替えることができる、ということには実は命がけの飛躍があります。しかし、この飛躍を信じている人が大多数なわけです。たくさん持つことで何にでも姿を替えられるようになるから、持てば持つほどいいという幻想や執着が生まれ、ホリエモンのように「お金がすべて」と言う人が出てくるのです。
 また、高橋さんがおっしゃっていた、お金に見えないものが縛られているという点は、マルセル・モースの贈与論にも通じると思います。モースは、何かを贈与されたら返さなければならないという心理が人間には埋め込まれていると論じました。たとえばお金を借りたとしたら、返せても、返せなくても、その人との関係が変わってきてしまう。力関係になってしまうということです。

高橋 ドイツ語で、「借金」を意味する「Schuld」という語が頭に浮かびました。「Schuld」は、本来は「罪、負い目」という意味なのです。「借りがある」という言い方をしますが、それは関係性が貨幣に縛られているということですね。

佐藤 はい。たとえば私の子どもが大学に行きたいけれどもお金がなかったとしましょう。それで高橋さんに頼んでお金を出してもらったおかげで大学に行けることになった。私、あるいは私の子どもは一生懸命働いてお金を返すことになります。元金(がんきん)だけでなく、法定利息もつけて、きっちり返済したとしましょう。でも、そうしたからといって、「借りた」という見えない関係はチャラにはなりません。親戚でもないのに、私を信頼して貸してくれたということですから、今度はどこかで「高橋」という名前を見ても何らかのシンパシーを抱くことになるでしょう。だから借金というのは、返しても終わりにはならない、難しい問題なのです。
 キリスト教は、神に対して返せない借りがあるという発想でしょう。神が自分の子をこの世に送ってきて、イエスには悪いところはないのだけれど、他の人間が持っている罪を背負い身代わりになって十字架にかかったことにより、みんなが救われる可能性があるという構成です。それですから、一生かかっても返せないほどの借りが人間にはあるから、教会に来て献金しろというような仕組みも成り立ちます。

□高橋巖×佐藤優『なぜ私たちは生きているのか シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話』(平凡社新書、2017)の「Ⅱ資本--お金と働くこと」の「見えるお金が見えない心を縛る」から一部引用
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 【参考】
【佐藤優】生活のなかに植え付けられた資本主義 ~『なぜ私たちは生きているのか』~
【佐藤優】プロテスタンティズムと資本主義は関係ない ~『なぜ私たちは生きているのか』~
【佐藤優】個別主義・全体主義・普遍主義 ~『なぜ私たちは生きているのか』~
【佐藤優】ルター派教会とナチズム ~『なぜ私たちは生きているのか』~
【佐藤優】キリスト教は「絶対他力」の宗教 ~『なぜ私たちは生きているのか』~
【佐藤優】『なぜ私たちは生きているのか シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話』目次

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