江戸と浅草「江戸幕府の行政機構について」(その9)
御家人は宝永年間の「御家人分限帳」によると、一万三千二人、一方享保七年のちょすあでは一万七千三百九十九とされています。
家禄は三百石の所領を持つ武士を上限とし、四十九俵未満の御家人が大多数を占めていたことが判ります。
譜代・ニ半端・抱入の三つの家格があって、徳川家康以来四代将軍の家綱までの間に留守居与力・同心などの職を継為田者の子孫を譜代と言いました。
そして家綱以後に大番組与力・同心などに新規採用されたものを抱入れといい、また、家康から家綱までの快打に西丸留守居同心などを勤めた者の子孫を二半端と言って区別し、譜代二半端の家は家督相続が認められていました。
一方抱人は前にも述べたように一代限りの奉公であったので交代は新規召し抱えの形式をとったのであります。
それではここから旗本と御家人たちのそれも家禄の少ない武士の禄高とその生活がどのようなものであったかをいくつかの例を挙げてみていきます。
旗本。御家人の家禄には次のような支給方法があります。その一つが「知行取」で百姓(農民)付きの土地である時かたを領地として与えられ土地と農民を直接支配し、その年貢諸役を収益として得たものであります。
例えば「千石」のような石高で表示します。
原則として江戸に居住して貢納その他の知行所支配を行いました。
年貢米は知行高の三十五パーセント(3.5公6.5民)が給付基準であったので千石高の場合は三百五十石が収入となるわけであります。
もう一つが切米飯(蔵米取)で浅草御蔵に納められた蔵米が給付されるものをいいます。
例えば「千俵」のように表米する一俵は米三斗五升入りであるから千俵は三百五十石に該当しました。
従って知行千石取りの者と切米千俵の者の収入は同じであることが判ります。
即お米の単位に記されているように江戸時代の一俵は三斗五升で現在の一俵より少ないことが判ります。