よどみにうかぶうたかた

よどみにうかぶうたかた

淀んだ頭に時たま浮かんでくる泡沫を書き残しています。



Amebaでブログを始めよう!

このたび、何年振りかにブログを更新した。

 

私の生きる指針となっている

無ー空

の思想の追究の一貫として最近試みた『般若心経』の現代語訳をアップしたものである。

 

しかしアップ後、このテーマについては別のブログにまとめたほうが良いのではないかと思い立ったので、新たに開設することにした。

http://oguraki.blog.fc2.com 

 

 

 

 

このアメブロには、また気が向けば何かアップすることにしたい。

 

よろしくお願いいたします。

 

 


最後の箇所では、世界を構成する要素が全て《それ自体は存在しない》ことを覚ることで、智慧の完成の彼方に到達できることが述べられる。


無智亦無得。
以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙。
無罣礙故、無有恐怖、遠離(一切)顛倒夢想、究竟涅槃。
智も無く、亦た得も無し。
得る所無きを以ての故に、菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し。
罣礙無きが故に、恐怖有ること無く、(一切の)顛倒夢想を遠離し、涅槃を究竟す。
知るということも無くまた獲得するということも無い。
獲得されるものが無くなるので、求道者は、智慧の完成によって、心に妨げとなるものが無くなる。
心に妨げとなるものが無くなるので、恐れが無くなり、(全ての)倒錯した迷いの思いを離れて涅槃に到達する。

無智亦無得…「智」「得」の対照はベクトルの違いか? 私見では、「智」は内→外、「得」は内←外、という働きがイメージされる。先達は「証智」↔「所証」(最澄)、「能達」↔「所証」(空海)などと説いている(岩波文庫本p.36)。
以無所得故…この句が前にかかる説と後ろにかかる説とがあるが、後者を採る。私見ではそのほうが文意が自然。具体的には、「得」以外の法は無であることをただ列挙したのに、前にかけて「得」にだけ補足説明をする必要性が感じられない。また、後ろにかけて、空観によって涅槃に到ることができる理由の第一とすることは必要だろうと思われる。
罣礙=覆い。妨げ。こだわり。
一切…日本の流通本には通常有るが、縮冊蔵・卍蔵・大正蔵には無いとのこと。サンスクリット文にも無い(岩波文庫本p.33)。

三世諸佛、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
三世諸仏は般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得。
過去・未来・現在の覚った人達は、智慧の完成によってこの上ない正しい覚りを得た。

三世=過去・未来・現在(仏典では通常この順序で表記される)の三時。
阿耨多羅三藐三菩提=無上正等覚。最上の正しく完全な覚り。仏の覚りの境地。

故知。
般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒。
能除一切苦、眞實不虚。
説般若波羅蜜多咒。
故に知るべし。
般若波羅蜜多は是れ大神咒なり。是れ大明咒なり。是れ無上咒なり。是れ無等等咒なり。 
能く一切苦を除き、真実不虚なり。
故に般若波羅蜜多咒を説く。
よって知るべきである。
智慧の完成は大いなる神聖な真言である。大いなる覚りの真言である。この上ない真言である。比類のない真言である。
全ての苦しみを除くことができ、真実であり偽りでない。
よって智慧の完成の真言を述べる。

咒=真言。マントラ。
故説…この「故」を前にかける説と後ろにかける説とがあるが、後者を採る。通常の漢文法に従う。文脈的にも自然。もし前にかけるなら、「真実なり。虚ならざるが故に。」と訓むべきか。

即説咒曰。
掲帝、掲帝、般羅掲帝、般羅僧掲帝、菩提僧莎訶。
般若(波羅蜜多)心經
即ち咒を説きて曰く、
掲帝、掲帝、般羅掲帝、般羅僧掲帝、菩提僧莎訶。
般若(波羅蜜多)心経
すなわち、
gate gate pāragate pāra-saṃgate bodhi svāhā.
(行く者よ、行く者よ、完成の彼方へ行く者よ、完成の彼方へ完全に行く者よ、覚りよ、幸あれ。)
智慧の(完成の)心髄の経

掲帝〜、gate〜…サンスクリット語には疎いので、この真言の部分を参考文献の記述と変えるのは躊躇するが、このままだと『心経』の本文とこの真言との意味的な繫がりが不明確なので、差し支えないと思われる程度に語句を変えてみた。
経典名中の「波羅蜜多(pāramitā)」と真言中の「般羅(pāra)」とは同一語から来ているようだ。
ここで前者を「到彼岸」と訳す立場を取れば、後者を岩波文庫本のとおりに「彼岸に」と訳して繫がりが明らかである。
しかし岩波文庫本は前者を「完成」と訳しており、単語として繫がりが見出だせない。
そこで今回の私の訳では、「完成」との繋がりを分かりやすくするため、真言のこの箇所を「完成の彼方へ」としてみた。
(岩波文庫本p.17註一、pp.36-37註四八参照)


中間のこの箇所では、「五蘊」だけではなく、世界を構成する諸要素が全て《それ自体は存在しない》ことを、仏教哲学の諸概念を列挙して述べている。



舍利子。是諸法空相。不生不滅、不垢不淨、不増不減。 
舎利子よ、是諸法は空相にして、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず。
シャーリプトラよ、世界を構成する全ての要素は《それ自体は存在しない》という様相を呈しており、生じもせず滅しもせず、汚れもせず清らかにもならず、増えもせず減りもしない。

是…普通「この」と代名詞として訓むが、サンスクリット文ではsarva(全ての)。「是」にも「全ての」の意があるので、仮に採用した。
法=ダルマ。dharma。世界を構成する諸要素。
不生不滅〜…乱暴な理解だが端的に言えば、実体が無いのだから、生じたり滅したり……するものがそもそも無い。
なお、この経をサラッと読むだけでは「不」と「無」の違いが分かりづらいが、ここの「不」は、空であることによる諸法の特性を表現しているものであり、空である諸法の例示を表現する「無」とは明確に意味が異なっている。

是故、空中、無色、無受想行識。
是の故に、空の中には、色も無く、受想行識も無し。 
よって、《それ自体は存在しない》ことにおいて、物質も無く、感受・表象・意志・識別も無い。

是故〜…ここで改めて五蘊が全て空であることが言われる。人間は自体(自我)は存在せず五蘊の集合体と考えられているが、実はそれらさえも存在しない。

無眼耳鼻舌身意、無色聲香味觸法、無眼界乃至無意識界。
無無明、亦無無明盡、乃至無老死、亦無老死盡。
無苦集滅道。
眼耳鼻舌身意も無し。色声香味触法も無し。眼界も無く、乃至、意識界も無し。
無明も無く、亦た無明の尽くることも無く、乃至、老死も無く、亦た老死の尽くることも無し。
苦集滅道も無し。
眼も耳も鼻も舌も身体も心も無く、色形も音声も匂いも味も感触も想念も無く、眼という領域から意識という領域に至るまで無い。
無知の迷いも無く、また無知の迷いがなくなることも無く、ひいては、老いて死ぬことに至るまで無く、また老いと死とがなくなることに至るまで無い。
苦しみも苦しみの原因も苦しみを消すことも苦しみを消す方法も無い。

無眼〜…ここでは、「五蘊皆空」に続いて、様々な法(構成要素)に実体がないことが列挙される。

〈六根皆空〉
眼耳鼻舌身意=六根。知覚・思考される対象を認識する六種の器官。眼・耳・鼻・舌・身体・心。
…六根も全てそれ自体は存在しない。いわば「眼即是空、耳即是空〜」。

〈六境皆空〉
色声香味触法=六境。六根によって認識される六種の対象。色形・音声・匂い・味・感触・想念。
…六境も全てそれ自体は存在しない。いわば「色即是空、声即是空〜」。

〈十八界皆空〉
意識=六識の一。
(六識=眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。六根が六境を認識する六種の作用。)
…十八界=六根+六境+六識。人間の認識作用の全体。人間存在そのものを表す。

〈十二支縁起皆空〉
十二支縁起=無明→行→識→名色→六入→触→受→愛→取→有→生→老死。
無知・迷いから生老死の苦しみに至る十二段階の因果関係。
「無明」は苦の、「無明尽」は苦の消滅の最初の原因。
・無明→〜→老死…苦しみをもたらす因果関係。「順観」と呼ばれる。
・無明尽→〜→老死尽…苦しみを消滅させる因果関係。「逆観」と呼ばれる。

〈四諦皆空〉
苦集滅道=四諦。ブッダが説いたとされる四つの真理。この世界が苦の世界であるという真理・苦の原因の真理・苦を消す(制御する)ことができるという真理・苦を消す方法の真理。人間の苦しみとその原因を明らかにして、それを克服する可能性と方法があることを説いたもの。


続く


前回書いたとおり、今回から3回にわたって、『般若心経』を読み直して現代語訳を試みた際に調べたことや考えたことを、簡単な注釈の形でまとめておきたい。


参考文献等は前回記載のとおり。


最初のこの箇所では、「五蘊」(ごうん)と呼ばれる、人間を構成する諸要素が全て《それ自体は存在しない》ことを述べる。




青太字…漢訳原文

細字…鈍行庵による書き下し文

太字…鈍行庵による現代語訳

一行空けて細字…簡単な注釈


--------------------


(佛説摩訶)般若波羅蜜多心經
唐三蔵法師玄奘譯
(仏説摩訶)般若波羅蜜多心経
唐の三蔵法師玄奘訳す
(覚った人が説いた大いなる)智慧の完成の心髄の経
唐の三蔵法師、玄奘が訳す

般若=智慧。六波羅蜜の一。
波羅蜜多=彼岸に到ること。または、完全に到達すること。完成。
心…最後の真言を指す? 短い経で般若思想の「心髄」を記している意と思っていたが、岩波文庫本の註二(p.17)には「智慧の完成の心(真言)」とあり、註四九(p.38)には「心臓にも比すべきこの短い真言」とある。
同じ註四九には、ウィンテルニッツの「一切の苦しみを鎮める真言」という解釈も引用されている。
そうであれば、『般若波羅蜜多心経』というこの経名は
『智慧の完成の真言の経』
と訳したほうが分かりやすいかもしれない。

觀自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊の皆な空なるを照見し、一切の苦厄を度せり。
求道者アヴァローキテーシュヴァラが深い智慧の完成の修行をしていた時、人間を構成する五つの要素が全て
《他との因果関係によって起こる仮の現象であり、それ自体は存在しない》
ことを見出して、全ての苦しみと災いとを脱した。

観自在=Avalokiteśvara、観世音、観音
五蘊=人間を構成する五つの物質的・精神的要素。色・受・想・行・識。
空…諸仏典に異なる意味で使われ、後世の解釈も様々だが、私は「無自性=空」という理解で一貫している。自性(実体)が無い。それ自体は無い。それそのものは存在しない。実在する全ては何かとの因果関係によって起こった仮の現象である。

舍利子。色不異空、空不異色。色即是空、空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子よ。色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり。受想行識も亦復た是くの如し。
シャーリプトラよ、物質であることは《それ自体は存在しない》ことに他ならず、《それ自体は存在しない》ことは物質であることに他ならない。
物質であることは即ち《それ自体は存在しない》ことであり、《それ自体は存在しない》ことが即ち物質であることである。
感受・表象・意志・識別もまた同様である。

舎利子=Śāriputra、舎利弗。ブッダの弟子。
色=五蘊の一。人間を構成する諸要素の内の物質的要素。
色即是空…事物には実体が無い。但し、この「色」は五蘊の一であることに留意。まだ世界全てが空とは言っていない。
受=感受作用。
想=表象作用。
行=意志・欲求などの心作用。
識=認識・識別作用。
…これらの四つは、五蘊の内の精神的要素。これらも空。いわば「受即是空・想即是空・行即是空・識即是空」。「色即是空」と合わせて「五蘊皆空」となる。

続く



本当に久しぶりに更新する気になった。


Twitterはたまにやっていたのだが。

最近はその中で『般若心経』を読み直し、数句ずつ自分なりに訳していた。

その作業が一応最後まで来たので、ここにまとめておきたいと思った次第だ。


この経典は非常によく知られているため、数多くの解釈・翻訳がなされてきており、玉石混交、多種多様、千差万別である。


私の解釈・翻訳は、その中では比較的穏やかなほうだと思うが、あくまでも凡夫による私見である。

自分の学びのために試みてみた。


コンセプトとしては、宗教色・信仰色を薄め、哲学書として読むことを心がけた。



主な参考文献:中村元、紀野一義訳注『般若心経 金剛般若経』(岩波文庫1960年)

辞書:中村元『仏教語大辞典縮刷版』(東京書籍1981年)、web辞書『コトバンク』

その他、般若心経に関するweb上の諸サイトを適宜参照した。


--------------------


(覚った人が説いた大いなる)智慧の完成の心髄の経

求道者アヴァローキテーシュヴァラが深い智慧の完成の修行をしていた時、人間を構成する五つの要素が全て
《他との因果関係によって起こる仮の現象であり、それ自体は存在しない》
ことを見出して、全ての苦しみと災いとを脱した。

シャーリプトラよ、物質であることは《それ自体は存在しない》ことに他ならない。《それ自体は存在しない》ことは物質であることに他ならない。
物質であることは即ち《それ自体は存在しない》ことであり、《それ自体は存在しない》ことが即ち物質であることである。
感受・表象・意志・識別もまた同様である。

シャーリプトラよ、世界を構成する全ての要素は《それ自体は存在しない》という様相を呈しているので、生じもせず滅しもせず、汚れもせず清らかにもならず、増えもせず減りもしない。

よって、《それ自体は存在しない》ことにおいて、物質も無く、感受・表象・意志・識別も無い。

眼も耳も鼻も舌も身体も心も無く、
色形も音声も匂いも味も感触も想念も無く、
眼という領域から意識という領域に至るまで無い。

無知の迷いも無く、また無知の迷いがなくなることも無く、ひいては、老いて死ぬことに至るまでも無く、また老いと死とがなくなることに至るまでも無い。

苦しみも苦しみの原因も苦しみを消すことも苦しみを消す方法も無い。

知るということも無くまた獲得するということも無い。獲得されるものが無くなるので、求道者は、智慧の完成によって、心に妨げとなるものが無くなる。心に妨げとなるものが無くなるので、恐れが無くなり、(全ての)倒錯した迷いの思いを離れて涅槃に到達する。

過去・未来・現在の覚った人達は、智慧の完成によってこの上ない正しい覚りを得た。

よって知るべきである。
智慧の完成は大いなる神聖な真言である。
大いなる覚りの真言である。
この上ない真言である。
比類のない真言である。

全ての苦しみを除くことができ、
真実であり偽りでない。
よって智慧の完成の真言を述べる。
すなわち、

gate gate pāragate pāra-saṃgate bodhi svāhā.
(行く者よ、行く者よ、完成の彼方へ行く者よ、完成の彼方へ完全に行く者よ、覚りよ、幸あれ。)

智慧の(完成の)心髄の経

--------------------

次回から数回に分けて、多少の解説をしたい。