ものを投げないで下さい

家具仏具や音楽、仏教、政治生活などを取り扱う徒然日記

仏教用語を考える~夏炉冬扇~

2013-07-05 09:18:32 | 仏教
おはようございます。最近暑くなって来ました。
ちなみにこの時期毛布でこたつで皆様丸まりますでしょうか?(´・ω・`)

多分大方の人が今「こたつ」と言われて「いま必要ないよ(゜-゜)」と思ったはずです。団扇の方が遥かに今重宝しますよね。

んじゃこたつは必要ないでしょうか?いや、こたつが必要ないと思うのは今暑いからであって冬寒くなればこたつが恋しいはずだよね。逆に冬に涼を楽しむ為に扇風機とかき氷と風鈴なんて用意されたらマジ余計なことするなと思いますね。

「夏炉冬扇」という言葉があります。

文字通り夏の炉と冬の扇=その時には必要ないものです。

今すぐには役に立たなくても必ず役に立つ時が来る。
じっと時期を待つ大切さのことを言っている言葉です。

ひとくちに仕事といっても華やかで周囲からうらやましがられるものもあれば、地味で役に立ってるのかどうなのか一見わからない仕事もあります。

同じやるなら目立つのがやりたい!モテたい!って思うのが人情ってもんだよね( ´ω` )

でもですね。華やかな仕事をしている人だって、はじめから華やかなわけじゃなくて、地味なことをコツコツ積み重ねた結果として今があるわけだ。

一見役に立たないことが巡り巡ってひとつの結果に結びつく。今頑張ってることってのひとつも無駄にはならないんだよと思います。

「この仕事誰かやってくんない?」と上司がいって地味過ぎる仕事ゆえに誰もやろうとしてくんない。やったところで評価されない。そんな仕事を

「私にやらせて下さい」

と言える人は本当に尊敬に値します。そんな心がけのある人に私も憧れます


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仏教用語を考える~旦那~

2013-03-03 19:22:00 | 仏教
お帰りなさいませ。旦那様」

と三つ指をついて主人を迎える奥様は現代ではもう絶滅危惧種かなとも思います。

現代では旦那様は「ウチの旦那」に格下げされてしまってます....トホ(;´Д`)

旦那とは元々サンスクリット語の「(ダーナ、दान)」を音写した言葉で本来は「檀那」と書きます。

意味は「布施をするもの」です。

「布施」とは
金銭や衣服食料などの財を施すこと。仏の教えを説くこと。
災難などに遭っている者を慰めてその恐怖心を除くこと。

色々と面倒見の良いひとってことだね~( ´ω` )

布施するものは見返りは求めません。GIVE&TAKEの精神ではなくGIVE&GIVE。

この布施をすること自体が仏教では修行なわけで布施をする人のことを「旦那」と呼ぶわけです。
っつーことなんで元々は仏教教団維持の為に寺院維持の為に僧侶達の生活の面倒を見返りを求めずにみてくれた人のことを「旦那」と言っていたようです。

その旦那が現代では一般社会でもふっつーに使いますね。つまりお金を稼いで来て奥さんや子供の面倒を見る主人のことを「旦那」と呼ぶようになったのです。

さて世の中の旦那様は「お帰りなさいませ。旦那様」と三つ指ついて言って欲しかったら本来の意味の旦那様の姿勢に戻った方が良いかもしんないっす。

何も見返りを求めない無償の布施者になるってことですね。

家の中で威張ってる旦那様は本当の意味での旦那様じゃないってこってす。

威張らず文句を言わず奥さんや子供が安楽に過ごせるように生活の面倒を見るんだ!っていう姿勢が奥さんに伝わればきっと「お帰りなさいませ。旦那様」と言ってくれる.....かも?

.......まあそこまでやっても嫁は「あんた!」とか呼び捨てにするもんですがそれもまた修行なんだろうね・・トホホ(;´∀`)
夫に「旦那」になって欲しかったらその気にさせる努力も嫁側には必要だと思うぜ

もしそれが我慢出来なかったら「旦那」はあきらめて「亭主」だとか「お前さん」だとか「おとっつあん」的な生き方もあるんでなぁ~

モノを見る目って何だろう?

2013-01-10 09:37:40 | 仏教

2008年に運慶作と推定される大日如来坐像が、ニューヨーク
クリスティーズのオークションに出品されることが発表されるや
いなや、国内のテレビ雑誌や新聞やメディアは一斉に

「運慶、米で競売へ!」とか「海外流出の恐れ!」とか

まあ騒ぎ立てたわけであります( ´ω` )


★文化財未指定「運慶」、米で競売へ…海外流出の恐れ

・鎌倉彫刻を切り開いた巨匠、運慶の作と見られ、2004年に初めて紹介された木造大日如来座像
 (個人蔵)が3月18日、米ニューヨークで開かれるクリスティーズ社の競売に出品されることが
 分かった。

 売却の際に国への申し出が必要な重要文化財などに指定されていなかった。落札予定価格は
 約1億6000万~2億1000万円。日本側から入札がない場合、彫刻史上、一級の重要作品が
 海外に流出する恐れがある。

 像高は66・1センチ。ヒノキ材で、表面は金色に仕上げられている。北関東に伝来した仏像
 として美術商から入手したという所有者が2003年、東京国立博物館に連絡。エックス線撮影の
 結果、底板で封じられた像内に運慶一派独特の形をした木札や水晶塔などが納められていた。
 作風からも1190年代の運慶作品の可能性が高いと分かり、2004年、寄託作品として
 同博物館が一般公開した。



ソースは古すぎてもう存在しませんでした。


これについてはもともとこの像があったのは栃木県足利市のお寺で
(樺崎寺跡の下御堂(法界寺)の本尊ということなんで寺自体は
現在はありません)足利市民たちが


「流出を防いでほしい!」


と13000人分の署名を集めて文化庁に提出。しかし現行の
文化財保護法では、国宝、文化財以外の美術品の輸出を制限する
ことは出来ません。


渡海紀三朗文部大臣(当時)は

「非常に残念だが(競売を)とめる術はない(;´Д`)」

とあきらめちゃいました。


今は亡き日本画壇の重鎮平山郁夫氏も

「指定外でも、レベルの高いものは流出しないルールも
制度化する必要があるんじゃないの?」

とコメントしてました。


とまあ行政から報道、国民レベルにまで事態は「今そこにある危機」
に大騒ぎしてたわけです。


騒動の発端は個人の所蔵者が、所有していた仏像の鑑定を
東京国立博物館に依頼したことにはじまりまっす。


顕著な運慶様式やX線撮影の結果確認された像内納入物などから


「これ運慶作じゃね!?」


って話になり作品は東京国立博物館に寄託されました。

この間博物館側とか文化庁とか東京都とかが所有者に対して

「買い取りますよ!」という交渉も行われたんですが
いずれも不調に終わりました。一言で言うと金銭的問題



そして所蔵者の意向でオークションにかけられたっつーわけです。


もう大体流れで見ればわかるけど、ようするに所蔵者は最初から
売るつもりで鑑定を依頼してたわけで、上記で言うとこの
運慶ではあっても「国宝」や「文化財」ではないわけですから
それを買い取りたい美術館や文化庁側も大枚をはたくことは出来ません。

運慶だということがわかれば所蔵者としては

「もっと高いんじゃない?」

と思いますが「国宝」や「文化財」ではないので買い取る金額にも
限度があるというわけです。その辺で折り合いがつかなかったという
ことでしょう。


その後の経過は最初に述べたように馬鹿騒ぎ

危機報道から1ヶ月経って、日本中が固唾をのんで
オークションがはじまったわけですが、当然世界中から
応札が相次ぎました。


300万ドルまでは10人以上
700万ドルまでも6人が競りに参加


最後は三越とアメリカの個人との一騎打ちになって
事前にクリスティーズ側は落札予想額として「200万ドル」
を予想してましたが結局落札額は



「1280万ドル」



日本円で言うとこの13億近い取引です。



オークション終了後、落札者は三越ですが三越は代理なので
本来の落札者は?ってことになったとき、宗教法人「真如園」
(真如円は真言宗小野流をベースにした在家教団)
がどうやら落札者であるっつーことや、今後美術館施設を
つくって一般公開をすることを明らかにしたことによって
「危機回避」の安堵感が広がって世論も落ち着いてきました。


今考えてみるとこの一連の騒動ってのは日本および世界が
抱える美術品に対するさまざまな問題を浮き彫りにしたのかなと
私は思っています。


日頃海外で「お墨付き」をもらったもの(村上隆とか草間弥生とか)
を逆輸入することにたいして「よくやった!」と抵抗しない
日本人がここまで運慶に対して「流出許すまじ!」ってムキになった
のですよ。


ここまで盛り上がった理由のひとつとして、実際みたことなんざ
なくても、いいものに間違いない!という判断(停止)できる


「運慶ブランド」


だったということだと思います。

08年の2月11日の読売新聞では

「内外に問わず公開の意思の無いコレクターに
渡らないよう祈るしか無い」

と懸念をあらわにしています。

真如園が落札した後の芸術新潮では

「これほどの仏像がみすみす外国人富豪の家に装飾品に
される可能性にさらされただけでも不快感を禁じ得ない」

とまあ顕著ですね。

美術品の個人所有や売り買いに対するナイーブな感情が
伝わってきます。

美術品というものはすべからく公共の目に観覧されるもんであって
少数の裕福な個人が「ひひひ!」と笑いながら頬擦りするなんて
けしからん!ということを言いたげです。


までも結果だけ見ちゃえば落札者となった真如園と代理人の三越
は、お金は飛んだものの大きく名声をあげて、
出品者には莫大な対価があって、
クリスティーズにも大きなマージンが入って

「関係者はみんなハッピー!」でめでたし

とも言えちゃうのかなという気もします。


ここからは個人的な意見ですが


運慶の作品が1個しかないのであれば、断固として死守するべきだと
思います。


しかしながら日本にありさえすれば良いとは私は思いません。


日本国内にある日本美術で大事にされてない粗末な扱いのもんが
多すぎる現実も見ないと行けないと考えます。
実際この像だって「運慶ブランド」という鑑定結果が出なかったら
騒動にもならないでしょう。

大昔に存在したお寺の本尊がめぐりめぐって美術商から
買い取った人がそれをオークションにかけたという話で
この時点で仏もくそも無く散々な扱いですが....
それを今の日本で「流出許すまじ」という風潮にはならなかった
でしょう。「運慶」ってことがバレなければ


世界中のどこにあるにせよ、その美術品が「大事にされるか」
が第一だなと思うのです。


ミケランジェロの作品が1点日本に存在すれば、イタリアに
行くチャンスの無い人でも、ミケランジェロに触れることが出来る

もっと見たいと思ったらイタリアに行けば良いんです。

現在海外に運慶の作品は一点もありません。

日本の優れた仏像に出会って「もっと見たい!」と
思える外国人が日本を訪れてくれればそれはそれで
良いことじゃないかとも思うのです。



どこにあるかより大事なのはどう扱われるか


だと思います。

事実最後まで競り合ったアメリカのコレクターは保管の条件や
美術館への寄託まで事前に検討した上で応札したと言われています。
アメリカで一般公開するつもりだったということですね。


「コレクターの品格」を問うなら、ここ数年再評価がすすみ
日本美術ブームの先駆けとなった伊東若冲とか有名ですね。

江戸絵画のコレクターとして知られるジョー・プライスさん
なんかは訪れる研究家とか学生(主に日本人)のために
自宅近くにゲストハウスを設けて便宜を図り、
ロサンゼルス郡立美術館には日本作品を展示するためだけの
ギャラリーを寄付。

所蔵品を寄託して、多くの人に江戸絵画のすばらしさを
知ってもらおう!と日本人にもなかなか真似の出来ない
努力を続けてます。

日本にも海外から流出した作品が多く存在しています。
正倉院にはメソポタミアの工芸品がありますし、京都の禅林には
中国からの水墨画がありますし、国立西洋美術館には松方幸次郎
が収集したヨーロッパ美術がいっぱい。

それらの「流出」美術品が日本で生まれ育つ美術をどれだけ
豊かにしてきたかは知らない人はいないはずだと思います。

100年。1000年という長いスパンで見た場合、美術品の
往還は美術史によって、うんと豊かな実りとダイナミックな展開
をもたらしてくれるもんなんじゃないかな~と私は思います。



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モノの見方

2012-11-26 18:01:48 | コラム
モノの見方ってのは一元的や二元的ではなく多面的に見ていこう!

なんっつ~話はよく聞くけどこれはなかなか実際出来ないものです(;´∀`)
例えばちょっとだけ私の仕事の話をすると、以前アンティーク家具の店員さんがお客さんから

「アンティークって言っても結局中古でしょ(´・ω・`)」
「どこの誰だか知らないのが触ったヤツとかイヤだわ(/ω\ )」
「新品みたいにきれいにしてちょうだい!('A`)」
「塗装がすぐ剥がれるのはイヤだからウレタン塗って欲しいんだけど」

と言われてしまうという営業上の悩みを聞いたことがあります。

これはお客さんのアンティークに対する見方が「古い」ということに対して、マイナスイメージが先行している一元的な考え方のケースですね~。

「アンティーク」においては100~200年くらいまでは実はまだ若い部類に入ります。一応アンティークと言えばアンティークですが、日本語で言うなら「骨董」ではなく「古民具」とでも言いましょうか~。

という時代の流れはさておき、古民具にしろ骨董にしろ、「現在それは作っていない」という付加価値はあります。

レプリカでとかは確かにありますが、木家具は木目に大きく左右され、100年前の素材の取り方は今の素材よりかなり贅沢な素材の取り方をしているので、

家具の場合は日本の場合特にそうですが、古い家具であればある程表面を奇麗にするということはおすすめしません。(お客さんの要望次第ですが)これは仏像でも仏壇でも建築でもある程度共通しています。

理由は二つあります。

「骨董としての価値の下落」

骨董のモノの見方はオリジナルの要素が残っているということが第一です。それを第三者に売るとかなった時に当然骨董目線で見る人においては、手直しを入れている以上価値は下がります。しかし忘れては行けないのはこれはこれで一元的な見方であるということです。

「侘び寂びの心」

日本では室町初期東山文化から禅宗の影響もありまして、時代が変わり変化していく様子をあるがままに受け入れ楽しむ心=「侘び寂び」を重んじる部分があります。
仏像が箔が剥げて重厚な木目模様が露出してもそのままにしてあり、構造部分以外はめったなことでは手直ししないのはこの為です。まぁこれはこれで一元的です。

勿論お客さんの中でそういうことはどうでも良くて、自分の好みにしたいということであれば私はそれに従いやるまでですが、一応経験上お客さんのやりたい仕様が部屋の風合いにあっているかどうか?とか意見はします。

これらは「古い」ということにプラスの価値を見いだす価値観の考え方ですが、このように単純に古いものに対しても「多面的な見方」というのが存在するわけですね。

ということでモノの見方ってのは一つではないというのは茶道でも「見立て」という考え方がありまして、大事にしていたティーカップの先っぽが割れちゃったら当然それはカップとしては使えませんね。

しかしコップとしてもうダメなら今度はお花を入れてみたらどうだろう?とかいう使い方で言えばそのコップはまだまだ現役です。

観音扉の蝶番が壊れてしまい箪笥が大変不具合があるというなら、勿論それを治して使うというのも可能ですが、観音扉を取っ払ってしまって飾り棚にしちゃうなんって使い方も出来ますよね。

サックスがゴミ捨て場に捨ててあって、とてもじゃないが使えるものじゃないけど、お店のオブジェにどうだろう!とかね

ちなみに私の卑近な例で言うと、先日コーヒー豆の入ってたであろう樽が捨ててありまして、持って帰って家でゴミ箱に使っています

(まぁでもそんなことばっかやってると捨てられない症候群になりそうだから、それもほどほどにね(;´∀`))

大事なのはモノをたくさん持ってることじゃなくて、どれだけモノを大切にするかってことだと思います。それがなんであれ(´∀`)

日本の宗教事情~後編~

2012-10-31 03:22:49 | 宗教
以前の記事で「蘇我物部抗争」と「伴天連追放令」について書きました。

今回は「廃仏毀釈」について書きますね(゜∀゜)

まず「廃仏毀釈」ってなんぞや~?と言いますと、

時代は明治時代になります。江戸時代は徳川将軍家による武士による「武家社会」でした。
長く続いた徳川将軍家もご存知のとおり、西郷さんや桂さんなど、ゲストで坂本さんとかも一応入れておこうか、そういった人達による「明治維新」によって倒れ、時代は天皇陛下を中心とする明治新政府になっていきます。

それまでと決定的に違うのは政治の最高決定権を天皇陛下が持つことになったということです。これは実質南北朝時代の後醍醐天皇以来のことで500年ぶりくらいのことです。

新政府は新しい時代の到来として太政官布告という明治政府からの法律を発行しましてですね。「神仏分離令」というものがありました。

神仏分離令とはなんですか?という話ですがようするに

「神仏習合を禁止、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別しようぜ!」

ということです。

実は明治時代以前にもローカルでこのルールは適用されてまして、岡山藩や水戸藩、淀藩など、あとは出雲大社なんかもこのルールを適用していました。

世界的に見れば

「別々の宗教なんだから区別するのは当たり前だろ(´・ω・`)」

っつ~なんか当たり前のことのような気がしますが、日本は神道と仏教がそれこそ聖徳太子のころから関わっている国家なので、一般大衆的には神道と仏教の区別ってのはなかなか曖昧で同居してるケースも多々ありました。

あるでしょ今でも、お寺と神社が何故か同じ敷地内にあるとか(゜∀゜)

しかし明治政府になって全国的に「神仏分離令」が発せられて日本は神道による鎮護国家になるんだ!という決意を国内にアピールしたわけですね(´∀`)

これらを明治政府が行った背景にはいくつかあります。

日本の歴史上ず~っとそうなんですが、権力者は仏教とは切っても切れない政治的な関係がありました。

白河法皇が「サイコロと坊主はマジで思い通りにならねえょ」と言ったのも有名ですが・・・

奈良時代には坊主と天皇が結びつき、道鏡っつーただの坊主が太政大臣になっちゃうし、平安時代は延暦寺(天台宗)と興福寺(法相宗)はヤクザ化してましたし、鎌倉時代に多くの宗派が確立されると、南北朝時代には後醍醐天皇には延暦寺が味方につき、足利家には臨済宗が味方について足利家が勝ったので臨済宗は大きな力を得ます。

応仁の乱までは臨済宗は足利幕府の後押しを受けて政治にあれこれ口を出します(その影響もあって東山文化があり、お茶や侘び寂び、華道という民間文化が生まれたというポジティブな見方もあるよ)

戦国時代になると織田信長がこの流れに豪腕を奮いますが、信長は自分に楯突く仏教徒を攻撃しましたが、自分に従順な仏教宗派は別に攻撃を加えてはいません。

秀吉を飛び越えて徳川幕府になると天海僧正や沢庵和尚など天台宗や臨済宗の僧侶も含め、かつて信長が打倒した浄土真宗本願寺さえも徳川は庇護して、仏教は徳川幕府を支える屋台骨のひとつとなっていきました。

このようないわゆる全く以て「政教分離」とはほど遠い流れの中で明治政府は仏教が政治に口を出すという流れを断ち切り分離させ、神道国家であることをアピールしたかったというのがあります。


しかし事態は思わぬ方向へ行きます。政府はそもそも仏教を政治から「分離」させたかっただけであり、仏教を「排斥」する気はありませんでした。



ところが民間の中で全国的に仏教寺院、僧侶に対する暴力的な排斥運動があちこちで勃発しました。

具体的な内容は以下(wikiより引用)

神仏習合の廃止、
仏像の神体としての使用禁止、
神社から仏教的要素の払拭など
祭神の決定、
寺院の廃合、
僧侶の神職への転向、
仏像・仏具の破壊、
仏事の禁止など

この騒ぎなかなか大変なもので、いくつか例をあげるとwiki先生の文を以下に掲載します。


(以下転載)

大阪住吉神社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、1873年(明治6年)にほとんどが壊された。奈良興福寺の食堂は1875年(明治8年)に破壊される。出羽三山については、1874年(明治7年)以降に廃仏毀釈が始まる。

千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、全ての仏像が破壊された。現在は修復されているが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。また、華族の墓地も仏教方式から神道方式へと変更させられた。

三重県では、伊勢神宮のお膝元という事もあり、激しい廃仏毀釈があり、その為、全国平均に較べて古い建物の数自体が少なくなっている。

僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されている興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円で売りに出され、薪にされようとしていた。

大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。

廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵に回されたと言われることもある。

美濃国(岐阜県)の苗木藩では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、藩主の菩提寺(雲林寺)も廃され、現在でも葬儀を神道形式で行う家庭が殆どである。


(転載ココまで)


激しすぎますね:(;゛゜'ω゜'):


ま~ここまでなんで騒ぎがでっかくなったかっつ~と、それまでの仏教寺院ってのは結構大きな恩恵を受けていたんですね。

例で言うと「免税制度」

仏教寺院ってのはそれまで藩政の中で税金の搾取対象にならないんですね(全てではないですよ)税金の搾取対象にならないってことは寺がそこに色んなならず者をかくまって犯罪の温床になって儲けているケースが多々あった。ということです。具体的なことは後に書きます。

そして当時の寺ってのは土地がやたら大きいのです。これは神社もそうだったので明治政府はこれらの特権を制限すべく上知令を出しましてね。土地の没収を行ったり境内を除き寺や神社の領地が国に取り上げられたわけです。

こうして免税されていたところにあちこちからボコボコにされ、更に土地を没収されてと散々な目にあった寺はあちこちで荒廃していったわけ

もうひとつは「寺請制度」

前の記事でも書きましたが徳川幕府以降、日本ではキリシタンを徹底的に排しました。それは教理が云々以前に外患誘致を防ぐためというのは前にも説明しましたね。

それを民間レベルにも徹底させる為に全国で寺請証文を発行して下さいよ~というわけです。

寺請証文とはなんですか?というと要するに私はそのお寺の檀家ですよという証明書=キリシタンではないという証明書です。

それを発行出来るのはお寺だけなので、幕府はどこかの檀家になりなさいという命令(檀家制度)を民衆に出していますので、民衆は近所のどっかしらの菩提寺の檀家になって寺請証文を発行してもらうわけですね。

当時としてはこの寺請証文が住民票みたいな役割も担っていたので、そうなれば当然出てくるのが「汚職」ですね(´・ω・`)

これらの特権を与えられた寺には当然お金を積んで寺請証文を発行して下さいよ~という悪~い人が集まってくるわけです。


このような事情を色々抱えていて中には

寺=「ヤクザの溜まり場」みたいなところが数多く出来ていて民衆は本来ハッピーな往生を願い、お経を唱える為の寺が実は犯罪者のアジトになっていて酷い目に遭わされていたなんっつ~江戸時代のうっぷんが色々溜まっていたのかもしれないね。

こうした背景もあり全国で寺に対してもの凄い爆発的な民間騒動が起きてしまい収拾がつかなくなっていってしまいました。

聖徳太子のころから1200年余りの時を経て、仏教寺院は政府からそして民間からと徹底的に粛清されまして、各宗派はついに政治の世界から大きく後退して反省を余儀なくされたわけです。


そして時代は仏教の近代化に繋がっていきます。

これが3つ目、そして日本史上最後の宗教における悶着・・というかこれも教理が原因というか・・仏教寺院があちこちでデカい面し過ぎた報いといえばそれまでなんだけどね(;´∀`)



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