目を閉じて、瞑想する。そこにあるものとは。視覚からの解脱。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 自分という存在を感じる時、自我が生まれ、自意識が出てきたとき、その時、もし、視覚がなければ、光の濃淡だけが、この世のあり様だと思うはずである。途中で視覚障害になったら、過去の残像から得られたものと、今の触覚と今の聴覚で得られたものとを関連づけて生きていくことだろう。もし、視覚が途中で失われたら、自分にとって、ここも、そこもない。月の表面にいようが、火星にいようが、アメリカにいようが、中国にいようが、どこも同じである。自分がいるところが、今のすべての場所になるからである。ここも、そこも、あそこも関係がない。宇宙のどこにいても、生きていられたら、同じ場所だからである。視覚によって、空間を認識できる。それがなければ、自分にとって空間は存在しないことと同じである。

 

 

 人間は、視覚によって、あるべきものがゆがめられている。視覚が途中で失った人がいて、その人をやさしく介抱してくれる女性がいるとする。その人は、その女性を想像する。どんな綺麗な人だろうかと、妄想は膨らむ。そして、その人は、奇跡的に、目が見えるようになったとする。その視界に現れた女性、想像していた人とは、異なる人だった。ストリーとしては、成立する。その男は、それを受け入れるだろうか。想像とかけ離れた人だったらどうするだろうか?

 

 

 たった、ひとつ言えることは、もし、その人が、ずっと、視覚がもどらなければ、その女性を大切に感じて生きているという事である。視覚がなければ、視覚から、その人の感情に作用させるものがないという事である。途中で、視覚が戻ったばかりに、視覚から入ってくる情報によって、影響をうける。人間の欲望に影響を与える情報が入ってくる。人間の欲望、煩悩を刺激するようなものが入ってくる。それによって、自分というものが、それに引きずられた存在になってしまう。その刺激に対して、何かの反応が生じる。ひとつ、ひとりの人間に収縮してしまうことになる。

 

 

 若い女性が肌を露出して近寄ってくる。鼻の下を伸ばした男性がいる。すりすりとしてくれば、舞い上がってしまう。目を閉じて、視覚から入ってくる情報をシャットアウトして、状況を把握すれば、それがどんなことか理解できるが、視覚からの情報があまりに、妖艶で、肉感であれば、大抵は、だらりとしてしまう。そこから、金をむしり取られる詐欺が生まれる場合がある。

 

 

 人はだれでも、年をとる。若い時は美人でも、年齢によって、体の水分が保持できなくなる。逆に、年をとり、しわがでてくるのは当たり前。そこに、ファンデーションを厚くぬって、その皺を隠しても、逆に不自然に映ることもある。薄暗い部屋で、接客する状況なら、それはそれでただしい。それはビジネスだからである。実年齢が、50歳、60歳の女性が、化粧で、20代、30代前半の女性を演じることは、薄暗い所では、可能だからである。夢を与えるのも、一つのビジネスだから、それもありである。しかし、現実の世界では、あるがままの状態が一番いい、普通に、あるがままの化粧をして、いればいいし、素顔のままでも、何も問題はない。50歳や60歳の女性が、20歳と同じであったら、ある意味、不気味である。中には、40歳の人で、20代の肌をもっていることは、あり得る。その人は、周囲から、本当に、美人だと、思われている人である。

 

 

 化粧することは悪いことではないし、少女時代の思いを再現することも悪いことではない。もし、自分に視覚がなくなったら、どうするか、なのである。私は、昔、ちょっとの間だったが、目の不自由な人の話し相手になったことがある。商社に勤められていて、海外勤務の経験もある人だった。その人は、脳失血で倒れて、その影響で失明したと記憶している。家が近所だったので、時たま、遊びにいったり、外出するときは、手をひいて出かけたこともあった。その人にとって、ラジオを聞くことが唯一の楽しみだったと思う。視覚がなければ、彼の近くにいって、声をかけなければ、その存在に気づくこともない。私は、その人と最後にどんな言葉をかけたのか覚えていない。たぶん、何気なく、さようならといって、その人の家から帰ったのだと思う。また、来るつもりだったろうから、なにげない、別れの言葉だったと思う。私は勤め人になって、多忙になった。転職して、地方へいった。しばらくぶりに、実家にもどって、その家を訪ねたが、その時は、その人は亡くなっていた。がんだったそうである。

 

 

 数年前、通販で、白杖をかった。事務所の本棚に立てかけてある。私は、目をつぶって、白杖をもって、社内を歩けるか実験をした。目で、通路に何があるか、わかっていても、白杖で前に何もないことを確認して、歩くことはしんどかった。それをもって、外を歩こうと一瞬考えたが、やはり、怖くてできなかった。ブロック点字があるのは、ほんのちょっと、連続していない。白杖をもって、一人で歩けるものではない。

 

 

 目を閉じて、瞑想する。視覚を遮断する。自分から、今の場所が消える。視覚が消えれば、ここが、そこであっても、関係がなくなる。空気がなければ窒息するが、もし、空気があれば、ここが、宇宙の果てであっても、私にとっては関係がない。目をとじて、視覚を遮断すれば、すべてのものと、相互作用をしている状態となる。目をあければ、再び、今の自分が現れる。場所、時間、それと自分の状態とが、特定される。自分の自意識がうまれる。そうなれば、宇宙を含めた森羅万象との交流は遮断される。

 

 

 夜空には星が瞬いている。星からの光が、私の網膜を通して、私の神経を刺激する。だから、私には星が確認される。しかし、目を閉じて、瞑想すれば、すべてのものと、一体になることができる。百億年まえの状態と私とがつながる。非局所性、時空を超えたものと相互作用を起こすことができる。そこもここもない、今も昔も未来もない、すべてが、何かの因果で結ばれている。私もそのうちの一つである。目をあけて、自分を意識すれば、そこに、ぽつんとした自分が現れる。そうすると、道元のいった只管打座の意味あいが見えてくる。もちろん、そんな堅苦しいことはしなくていい。自分に視覚が消えた状態を想像したらいい。そうして、目をつぶり、瞑想したらいい。ここは消える。今が消える。自分が消える。そうすれば、どこからか、今、自分は何をしなければいけないのか、だれかが、そっと語り掛けてくれる感じがするはずである。