磐座祭祀・聖樹祭祀→禁足地祭祀

→社殿建立祭祀→律令祭祀→平安祭祀

というおおまかな流れ

 

神社の起源には「天皇」「大王」の存在と権威の根源の神祇祭祀がある

稲と米は重要な神饌で

政治の上でも古代律令制の租庸調・古代中世の荘園公領制下の年貢・近世の幕藩制下の石高制の年貢米も稲と米が重要な意味を持ち続けた

 

以下備忘録です

 

神社の起源と歴史 新谷尚紀 吉川弘文館 2021.7.10

 

第一章     神社と古代王権

日本書記に見える「神社」 

(1)天武13年(684)白鳳の大地震「・・寺塔神社・・」天武10年「・・天社土社の神の宮」天武6年「天社国社の神税は・・」→大宝元年(701)大宝令の神祇令「天神地祇」とつながる

天武4年(675)4月広瀬大忌祭(広瀬の河曲(かわわ)に大忌神を祭る)・龍田風神祭→風水に害なく山谷の水が畑を潤し五穀を実らせる→神祇令に猛夏の祭(四月)・猛秋の祭(七月)と規定された

(2)斉明期 斉明5年(659)出雲国造に対して神之宮を修厳(つくりよそ)わしめる 白村江への派兵の祈り

(3)崇神期 神話の中 崇神7年三輪山の大物主神「天社国社及び神地神戸」を定めた

(4)神代下段9段1書第2「大己貴神に勅して曰く・・天の日隅宮は・・」大己貴の住まいを宮と記す

神社は漢語で大和言葉ではない 定着したのは奈良期以降 「類聚三大格」神亀2年(725)「神社事」宝亀8年(777)太政官符「掃修神社潔斎祭事」 古事記には神社はない(石屋戸・舎(みあらか)・宮・社) 

宮とは古事記・日本書記・万葉集では天皇坐す建物 大和王権に重要な神の宮 大王天皇の祭祀装置 天皇と神と共有する呼称

社とは自然の神の社 神霊を祀る場所 和語で神社(かみのやしろ)

折口説:みや=御屋は常在される神の居られる建物 やしろ=屋代は神が来られる時に屋が建つ場所 大きい神は天つ神で遠い高いところから来る 小さな神は国つ神で身近な霊物 大きな神が小さな神を周期的に来て降伏させる

霊魂観念と他界観念の発生=宗教の始まり

稲作BC900年代九州北部玄海灘沿岸→(200年後)瀬戸内海西部・(300年後)摂津河内・(400年後)奈良盆地・(500年後)中部・(650-700年後)南関東→BC4C日本海を北上して東北地方北部へ伝わったがBC1Cには稲作を放棄

水田稲作システムの構築によって実現した労働力結集の持続可能化とその労働力の農閑期における余剰部分の継続的結集活用という意味が古墳築造にはあったと考えられる

200年代纏向遺跡・箸墓古墳 東北地方北部を除き日本列島が画一化していく時代の始まり 7C初見瀬丸山古墳を最後に350年間で古墳時代は終わる 計5200基の巨大古墳 首長王権のもとに水田稲作を社会に定着させ租税システムを構築し洗練強化し持続可能なものとして7c古代律令国家へ 同時に(仏教とは別に)天武期から新嘗祭・大嘗祭・大忌神祭・風神祭の定例化 稲と米は重要な神饌

(政治の上でも古代律令制の租庸調・古代中世の荘園公領制下の年貢・近世の幕藩制下の石高制の年貢米も稲と米が重要な意味を持ち続けた) 

神社の起源には「天皇」「大王」の存在と権威の根源の神祇祭祀 卑弥呼は古代中国語ではヒムカ(日向)と発音され日の御子 魏王から「汝好物」として銅鏡100枚を下賜された 銅鏡は太陽の表象物 三種の神器「銅鏡・銅剣・勾玉」は中央と地方の王権連合の紐帯的宝器で贈与下賜 たとえば出雲国造神賀詞奏上にともなう神宝献上を負幸物(おいさちもの)の下賜 2C初~纏向遺跡は3C卑弥呼の宮殿 東西軸の宮殿は太陽の進行に沿う 景行天皇「纏向の日代の宮(まきむくひしろのみや)」と伝承 宗教的な王権は4c初に終焉 

4c後半三輪山祭祀の開始 巨石の磐座祭祀 山ノ神遺跡の小型の素文鏡3点や碧玉製勾玉5点や水晶製勾玉1点など・奥垣内遺跡の多量の須恵器 ピークは5c後半滑石製模造品の奉献の時期で6C前半に終焉 6c後半からは祭場は磐座から禁足地周辺へ 子持勾玉を中心へ 6c後半からは禁足地での祭祀が中心に この時代は高句麗好太王碑文で記される(倭国と高句麗と戦う) 女性の宗教主から男性の武力王への時代 宗像沖ノ島の巨大磐座遺跡の始まり(銅鏡・鉄剣・勾玉)

女性王の時代と男性王の間には共通項と連続性あり(日の御子・銅鏡・前方後円墳) 中国王朝では「金印紫綬」が権威の表装具であったが「汝好物」として卑弥呼には銅鏡100枚を授けた

日本書記によると1)神武による東征と即位 2)崇神と垂仁による王権確立と神祇祭祀の創始 3)景行とヤマトタカルによる列島東西の制圧 4)仲哀と神功皇后による半島進出 5)応神と仁徳による外来技術導入と内政充実 それぞれ前後二人の王により分掌 神武天皇は大和盆地では外来の神で后は在来の后 その后(古事記:富登多多良伊須気余理比売・比売多多良伊須気余理比売=父は三輪の大物主・母は三嶋溝咋の娘で「丹塗矢・富登・床の辺」神話/日本書記:媛踏鞴五十鈴媛命=父は事代主・母は玉櫛媛 神武と伊須気余理比売の求婚で「點ける利目(さける)」=目の周りの入れ墨 神武は外来で異文化とうつった 神武天皇カムヤマトイワレヒコ始駆天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと) 崇神天皇も日本書記で御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)ミマキイリヒコイニエ・古事記では初国知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと) 神武が即位起源の天皇 崇神が祭政の根本の天皇 ただし崇神と垂仁は着手と達成 崇神の皇女豊鍬入姫命を笠縫邑に天照大神を祭る 垂仁が皇女倭姫命をして伊勢に定めて完成 出雲大神を忘れていた崇神は(もともと国造神話で海上降臨した大己貴命が幸魂奇魂を大和の三輪山に祀った) 大田田根子を祭主として災いがおさまった 垂仁は皇子のホムチワケが言葉を発せなかったが出雲参拝でおさまった 土着的神は皇女では祭れない 倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻 大物主と一体の存在 大物主の方が土着的 女性巫王の性格 古代王権の皇女(ヒメ)男王(ヒコ)の相互補完システム 倭大国魂神(大和神社)の祭祀は市磯長尾市(いちしのながおち)その子孫は大倭直(おおやまとあたひ) その始祖は槁根津彦(さねつひこ・速吸門で船の安全航行に現地採用された人=椎根津彦(日本書記)) 倭直は仁徳履中期に登場 倭直吾子籠(やまとあたいあごこ)は采女献上の始まりとされる 安曇連浜子も科墨黥面で罪を免れる このことから目の黥黒を安曇目とよんだ 履中天皇に対立して許されたのは海人の力の大きさ 大倭神社の祭祀を大倭忌寸五百足が奉仕する(大倭国造) 淡路出身(大和からすると外来の人) 日本書記では神功皇后を卑弥呼に比定しようとしている(魏志倭人伝を読んでいたのであろう) 仲哀と神功皇后は女王祭祀王→男王武力王への変遷 神功皇后は両者の属性を具有する王として描かれている

 

第二章     律令祭祀と伊勢神宮・出雲大社

3c半ばsharmanとimibitoが併存していた 4c後半~7c沖ノ島遺跡 600年推古調の遣隋使外交によって政治的文化的衝撃に連動した=古墳文化の終焉 飛鳥時代の開始 律令神祇祭祀の始まりは5c半ば 5c半ば鉄鋌などの鉄資源 6c前半金銅性馬具類 7c紡績具の登場 遣隋使「日出るところの天子・・」について遣使の文林郎・裴清に対して謝罪 以後日本書記に「日の御子」はでないが古事記には頻出 律令祭祀の基本構造は「神祇令」 1)恒例の公的祭祀(1-9条) 2)即位儀礼と斎(10-14条) 3)祭祀の管理運営(15-17条) 4)大祓(18.19条) 5)宮社の経理(20条)→①中国的な宗廟祭祀の条がない②祭祀神話には人格化された多くの神々が登場するが神祇令では天神地祇のみで神観念が漠然としている③祈念祭と月次祭が重視されており特に「祈念班幣制」とよばれるべき構成=全国の神社の祭祀権を天皇と朝廷が一手に掌握して春の祈念のために幣帛を配布し国々の農作物の豊穣を一体として祈願するかたち

大嘗(おおにえ)と鎮魂は特別に重要な祭儀 寅日鎮魂→卯日大嘗→辰日豊明節会=天皇の王体への外来魂の注入と霊威の再活性化と群臣への分配=中心性と再分配の構造 神懸かり王(sharman)からの脱皮:日本書記皇極元年(642)南淵の河上での雨乞い祈祷 天武期の壬申の乱の最中の卜が祈祷する姿が最後で、神祇令が出て神祇伯が鎮魂と大嘗を奉仕するようになる 民間巫覡の弾圧 皇極3年(644)七月条大生部多の常世神を秦河勝が退治 続日本記天平勝宝4年(752)8月京師の巫覡17人を流罪 宝亀11年(780)12月左右京の無知の百姓を惑わすとして巫覡活動を禁断

散斎(あらいみ・真忌みの前の軽い物忌み)致斎(まいみ・もっとも厳重な物忌み・弔喪、向病、食宍、判刑殺、作音楽、預穢悪の6項目を避ける) 大祓(おおはらえ・6月と12月の晦日・中臣が御祓麻を天皇に奉り東西文部(やまとかわちのふひとべ)が祓刀を天皇に奉り祓詞を読み次いで百官男女が祓所に集合して中臣が祓詞を読み卜部が解除をなす)

〇伊勢神宮の創建(日本書記) 崇神6年天照大神と倭大国魂の二柱を「畏其神勢、共住不安」とし皇女豊鍬入姫命に託けて(つけて)倭の笠縫邑に移り磯堅城の神籬(堅固な石でできた神の降臨場所)をたてた 垂仁25年天照大神を倭姫命に託けて大和国の兎田筱幡(うだのささはた)から伊賀国、近江国、美濃国、尾張国を経て伊勢に至り祠をたて斎宮を五十鈴川に興て磯宮と呼んだ

※(日本書記は正調漢文αと日本風βでできていて、神代上1巻~允恭安康13巻(β)雄略14巻~21巻(α)推古22巻~舒明23巻(β)24~天智27巻(α)天武28.29巻(β)となっていて、22.23巻に修正の跡あり 推古30年(622)が丸ごとぬけている つまりβ編者が皇女による日神奉斎をβの宗神垂仁へ移行した仮説がある)

天武2年(674)大伯皇女(大来皇女)を天照大神宮の斎宮として泊瀬の斎宮にこもらせた 天武3年伊勢へと出発する 持統3年(692)持統天皇伊勢行幸その頃藤原京造営、伊勢神宮と藤原京の大極殿は同緯度(北緯34度27分30分)天智陵、藤原京、天武陵は同経度(東経135度48分) 持統による整備(神宮祭祀)①諡号:大倭根子天之広野日女尊(日本書記)・高天原広野姫天皇(続日本紀)②皇孫と神勅(天照大神は瓊瓊杵尊を君臨すべき王として天壌無窮の神勅さずかる・不改常典③即位儀礼(八度拝)④宮都造営と神宮行幸⑤遷宮の創始

〇出雲大社の創建

大己貴命の霊威力を大和の王権が継承する 大己貴命:青銅製広矛(武器)→卑弥呼:青銅製銅鏡 ①弥生時代命主社の背後の真名井遺跡から出土の銅戈と翡翠の勾玉、早くから聖地 出雲の独自性は龍蛇神祭祀、神在祭(うみへび) ②古墳時代前期の手捏ね土器(てづくねどき)、めのう、蛇紋岩の勾玉、滑石製臼玉の発掘 ③日本書紀斉明5年(659)命出雲国造修厳神之宮(いつかしのかみのみや) (敏達~推古は巨大な建築物創建の始まり?) 弥生後期(147-189)四隅突出型墳丘墓(西谷三号墓)新たな軍事支配者の登場 出雲最古の古墳神原神社古墳から出土の景初3年(239)銘の三角縁神獣鏡は卑弥呼から下賜? 安来市塩津山一号墳 6c中葉東西の出雲に巨大古墳 西出雲:大念寺古墳→上塩治築山古墳→地蔵山古墳(倭風飾太刀の系統) 東出雲:山代二子塚古墳→山代方墳→永久宅後古墳(大陸風飾太刀の系統・大和政権蘇我氏との関係=双龍環頭太刀) 東出雲の王が伸長し出雲国造一族となった 拠点を意宇郡から杵築へ移したのは10c古代国家の官社制が解体し国造が国家的に優越する地位からの後退した困難を克服するため 6c後半岡田山一号古墳出土「額田部臣」銘文入り太刀は大和王権(蘇我氏)の出雲進出 出雲風土記に意宇郡大領として出雲臣の記事が見えるのは8c前半 欽明期(540-571)に巨大神殿はできたのでは

神社と神社建築

纏向遺跡:3c初頭~拡大期260-270 消滅4c初め頃

三輪山祭祀遺跡:4c後半~5c後半 磐座祭祀(滑石製模造品の奉献)6c前半禁足地祭祀(子持勾玉) 

宗像沖ノ島遺跡:4c後半 17号磐座→7c頃禁足地祭祀(律令国家祭祀形式の時期)

神祭りの度に神籬が設けられる例(神籬神社:諏訪大社の御柱)

千木・鰹木は家形埴輪にもみられ特別な権力者の宮殿の標でもあった 

〇伊勢神宮:神明宮造 切妻造平入萱葺左右対称正面三間側面二間 柱は円柱正面4本奥4本側面2本の計10本 左右の側面には棟木を受ける持柱1本ずつ 心御柱(しんのみはしら)その真上の正殿中央に神鏡 千木:内宮は内削/下宮は外削 鰹木:内宮10本/下宮9本 

〇出雲大社:大社造 切妻造 妻入檜皮葺左右対称 正面二間側面二間 柱を田の字型に9本中央の太い柱は岩根柱 正面と背面の妻壁の中央の柱を棟持柱=宇豆柱 本殿に向かって右側に扉、左側に蔀 右側に階段 本殿内は高倉畳敷 岩根柱の後方(正面右奥)の間に左方(西方)に向く内殿=神座

〇春日大社:古くは社なし 古事記神護景雲2年(768) 藤原永手が創建 続日本紀宝亀8年(777)内大臣藤原良嗣の病気平癒祈った際の記事には御祭神は鹿島神(常陸)と香取神(下総) 続日本紀承和3年(836)藤原常嗣の航海安全祈願では鹿嶋坐健御賀豆智命、香取坐伊波比主命、枚岡座天三子八根命、比売神の四柱 延喜式にも同じ 春日宮曼荼羅(根津美術館)では瑞垣と鳥居が描かれている 12c初~楼門や回廊(仏教建築) 切妻造 妻入 檜皮葺 左右対称 祭員非参入 神の占有空間(一間の小規模社殿が四つ・井桁に組んだ台座)

 

第三章      平安時代の祭祀と神社

桓武天皇母は百済系高野新笠(百済王氏) 延暦4年(785)交野で天神効祀(中国皇帝の祭祀) 平野神社:今木大神(藤原仲麻呂の田村邸の後宮に祀られていた)を延暦年間に平安京に遷座し平野神社とした 半島渡来の神である今木大神・九度神・古開神と比売神の計四柱として皇室の守護神とした

大原野神社:延暦13年(794)平安京遷都にともない西京区大原野に鎮座 奈良の春日社はそのまま本社

7c~8c初 律令祭祀:①神祇官による運営②年中四度の祭祀(祈念祭・月次祭・新嘗祭が中心)③全国官社を対象にして祝部が幣帛を受け取りに来る(幣帛班給制度=班幣制)

9c~10c 平安祭祀:国家祭祀と天皇祭祀が重なり合いやがて天皇祭祀の性格が濃厚になる 起点となったのは外戚の氏神祭祀を中心とした公祭制の成立(藤原良房が9歳の清和天皇の摂政(858-876)になったのが画期 宇多朝~後三条朝にかけて展開 天皇祭祀の対象とした中央の有力な神社が「二十二社」で王城鎮守となる ※上七社:伊勢皇大神宮・伊勢豊受大神宮・石清水八幡宮・賀茂別雷神社・賀茂御祖神社・松尾大社・平野神社・伏見稲荷・春日大社 中七社:大原野神社・大神神社・石上神宮・大和神社・広瀬神社・龍田神社・住吉大社 下八社:日吉大社・梅宮大社・吉田神社・広田神社・祇園八坂神社・北野天満宮・丹生川上上社/丹生川上神社/丹生川上神社下社・貴船神社

延喜式内社:大小3132(大492・小2640)8c~9c律令国家が重要視した神社 畿内658(大和286・山城122・河内113が圧倒的に多い)東海道諸国731(伊勢253・尾張121が多く伊豆92・駿河22・甲斐20・武蔵44)東山道諸国382(上野12・下野11・出羽9・陸奥100)北陸道諸国352(若狭42・越前126・加賀42・能登43)山陰道諸国560(出雲187・但馬131・石見34)山陽道諸国140(安芸3・周防10)南海道諸国163 西海道諸国107(築後4・肥前4・薩摩2・壱岐24・対馬29)

10c~11c 一宮制:延暦17年(798)全国官社を二系統にし神祇官から幣帛を直接受ける官幣社と国司を通じて受け取る国弊社に区分 国司は地方の任地に赴くと国内の有力神社への巡拝と班幣を行う(国司神拝) 平安中期になると有力神社から順番に行う一宮二宮三宮と やがて総社(惣社)ができ国内の参拝を一カ所で済ませる→在地の在庁官人にとって権威の象徴となる 中央の二十二社制・地方国衙と在庁官人の一宮制が相互補完 王城鎮守と国鎮守

八幡宮について 宇佐八幡宮(宇佐氏の大元山の磐座+渡来系の辛嶋氏+大和の大神氏) 天平勝宝元年(749)手向山八幡宮 神護景雲3年(769)宇佐八幡神託事件(道鏡/和気清麻呂) 貞観元年(859)石清水八幡宮が勧請される 藤原良房の摂関制王権において王城鎮守の神 この頃祭神が神功皇后・応神天皇になる10c円融天皇~南朝後村上天皇まで計240回天皇の行幸上皇の御幸あり 後に清和源氏の氏神に 主要な祭礼は放生会 八幡神は仏教の仏でもある

祇園社:藤原忠平の「貞信公記」延喜20年(920)忠平が祇園社に咳病の治癒祈願 祇園御霊会は貞観11年(869)卜部日良磨が66本の矛を建てて神泉苑まで神輿を行進(大疫退散の為)祭神は延長4年(926)~延久2年(1070)は祇園天神 延久2年~牛頭天王 1144~65またの名を武塔天神 1180大梵天王とも 1270~80武塔天神が素戔嗚尊←卜部兼方「釈日本紀」

 

第四章      荘園鎮守社と氏神 -隅田八幡宮の歴史と祭礼の変化-

隅田八幡宮:藤原兼家が一条天皇の御願で建立した石清水八幡宮の隅田八幡宮三昧堂の御領所とした隅田荘 ここから隅田党とよばれる武士団(在地の藤原氏) 鎌倉期には北条氏の被官となり(1247宝治合戦で紀伊国守護でもあった三浦氏が討伐され北条氏が守護となったので)南北朝で隅田一族が滅びようとしたが、一族より葛原氏(かつらはら)・政所氏が出る 隅田一族の氏神となる 16c畠山氏→織田氏→秀吉の配下へ 地下人(中小農民層)の成長で村の氏神となる

 

第五章      郷村神社の歴史の重層構造 -毛利・吉川氏の足跡と神社

北広島町旧千代田町域の四段階

1)山・水・風の土着的な神々への信仰 2)大歳神黄幡神など古代中世に浸透した外来神への信仰 3)中世の戦乱在地権力抗争の中で中小武士層が導入してきた熊野新宮、八幡宮 4)強力武士団台頭で村落農民層との呼応関係で定着した八幡宮の信仰 安芸国造凡氏から山縣郡司凡氏へ 凡氏の一族から山方氏 正和2年(1313)吉川氏・延元元年(1336)毛利氏が入部 天文20年(1551)壬生神宮に毛利元就の棟札 天文19年(1550)吉川元春の活発な神社再建立 村民も修復に加わる 南北朝から一定の時期に熊野新宮の御師の活動があったのか勧請が多く見られ武士層に広がり護王法印の料紙を起請文に使う 更に古くは大歳神(稲作の神・陰陽道の大歳神)の信仰もあった

 

第六章      若狭のニソの杜 -原始的な神祭りを伝える-

ニソ田の耕作と収穫への感謝と祈念の祭り 霜月23日の未明の夜陰の中ひそかに杜の神に稲米に加工を加えたアカメシとシロモチを藁ヅトにいれて供える→にへの斎→にいなめ

ニソの杜は小社や氏神と連結しており、もっとも素朴な神祭りの姿を伝える 鳥居の根元にシロモチが供えられているが、ニソの杜ではそのタブの木の根元や小祠に供えられるアカメシやシロモチと同じようにカラスグチとしてオトがアガルのを期待する(カラスなどが食べること) これは厳島神社・熱田神宮・多賀大社の烏喰いの神事に共通し、鳥居の原義では?

杵頭(しょとう)に木の鳥をつけて祭場に立てる習俗(東アジア)は初期的な農耕社会の祭儀のかたち ニソの杜は水源に祀られていて神とは自然の霊威力 

磐座祭祀・聖樹祭祀→禁足地祭祀→社殿建立祭祀 祭り手である人間の立場からの意味づけによって多様な形態と方法を歴史的に提出させてきている