ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。


【主な乗り物:東武鉄道特急「しもつけ」、東京地下鉄銀座線】

 


浅草から東武電車に乗る時は、いつも心が弾む。

 

もちろん、浅草と言う街が魅力的であるのも間違いないが、鉄道ファンとしては、小学生時代の家族旅行で、特急「けごん」に乗って日光を往復し、初めて接する大手私鉄の風格に感服した経験が原点なのかも知れない。

父は国電や地下鉄に乗るのが嫌いで、あの時も、宿泊したホテルからタクシーで浅草駅に乗り付けた。

東京の電車に乗れる、と期待していた僕は猛烈に不服だった記憶があるけれども、タクシーを降りて、東武鉄道の駅が入る「松屋浅草」のビルを見上げた時や、どうして電車に乗るのにデパートの階段を昇るのだろう、と首を傾げたことは、今でも鮮明に覚えている。



 

新宿からの箱根行き小田急ロマンスカーや川越行き西武特急、池袋からの秩父行き西武レッドアロー、上野から成田へ行く京成スカイライナーといった首都圏他社の有料特急電車と異なり、山手線のターミナルではない駅が起終点であるのも、旅心を誘う。

国電が連絡せず、地下鉄を使わなければ東武電車に乗れない、という立地は、多少煩わしいけれども、日常とかけ離れた世界に踏み込んだような気分になる。

 

今では、JRに接続する北千住駅に停車する特急も少なくないが、当時の「けごん」は浅草駅から東武日光駅までノンストップだった。

東武鉄道の優等列車は、1720系から100系スペーシアに更新された特急「けごん」や、急行時代の1800系から200系に車両を更新して特急に昇格した「りょうもう」、そして野岩鉄道乗り入れの快速電車まで、何度もお世話になったけれども、浅草駅で乗降する機会は、他の首都圏の私鉄と比ればそれほど多くなかった。

僕が品川区、大田区、新宿区と移り住んで、東武鉄道沿線とはほぼ無縁であったためであろう。

 

 

平成28年1月の今回の旅の当時、新宿区に住んでいた僕は、どのように浅草へ向かおうか、と思案しなければならなかったが、それも楽しい。

他の私鉄を利用する場合は、起終点の駅に向かう選択肢がそれほど豊富ではなく、それだけでも浅草は異世界なのである。


JR山手線外回りで上野駅に行って地下鉄銀座線に乗り換えるのが最も単純であるが、都営大江戸線で御徒町駅に出たり、JR中央線や地下鉄丸ノ内線で都心を横断するなど、幾つも経路が思い浮かぶ。

浅草に駅を設けているのは東京地下鉄銀座線と都営地下鉄浅草線、そしてつくばエクスプレスで、新宿からはどの行き方でも乗り換えが必要になるが、秋葉原や新御徒町駅で乗り換えるつくばエクスプレスの浅草駅は、東武浅草駅と離れているので敬遠し、僕は渋谷駅から地下鉄銀座線を乗り通すことにした。

 

銀座線に乗るのは久しぶりである。

東京に出て来て30年以上になるが、銀座線沿線に所用が生じることなどなかったためで、記憶の底をまさぐる限り、同線を利用したのは、終点の浅草で東武電車に乗るためだけだったのかもしれない。

 

 

戦前に流行した「のんき節」で、

 

東京の渋谷じゃ地下鉄が ビルヂングの三階から出入りする ハハのんきだね

 

と歌われた地下鉄銀座線は、我が国ばかりでなく、東洋で初めての地下鉄として、昭和2年に上野-浅草間が開業している。

昭和13年に開業した渋谷駅もそうだったが、表参道、青山、赤坂、新橋、銀座、日本橋、上野を経て、所要34分で到着した浅草駅に降り立つと、ホームも通路も改札も天井が低く、柱や壁も煤けて、駅のあちこちに90年近い歳月が刻まれている。

 

極端な物言いをすれば、もし地震が来たら大丈夫かな、と心配になるような圧迫感が付き纏う。

我が国最古と言えども、銀座線は大正12年の関東大震災を経験していない。

平成7年の阪神大震災でも、平成23年の東日本大震災でも、神戸市営地下鉄や仙台市営地下鉄で多くの死傷者が出た訳でもなく、どのような大地震でも地下の揺れは弱まると言われているので、何とかなるさ、と楽観的に考えることにする。

 

 

唯一、真新しいのは目映い黄色に塗られた電車で、開業時の塗装を再現したのだという。

 

僕が東京に出て来たばかりの頃の銀座線は、昭和33年に製造を開始した1900系、2000系電車が、昭和59年に登場した01系に切り替わり始めた時代だった。

建設費を節約するために、地下トンネルの断面積を小さくし、第3軌条で集電する方式を採用したため、駅の前後など、分岐の切れ目で給電が途切れて車内の電気が消えるような旧式の設備だった2000系以前の車両から、アルミニウム合金製の流麗な01系編成への更新は、上京したばかりの僕の眼に、とても眩しく映ったことを覚えている。

 

 

この日、僕が乗車したのは、平成25年に投入されたばかりの1000系電車で、外見は、銀座線が開業した当時の車両をモチーフにしたとのことで、何処かレトロな雰囲気を身にまとっている。

もちろん、渋谷駅から浅草駅まで、1度も車内照明が消えることはなかったが、第3軌条との摩擦音も一因なのだろう、があがあ、ごうごうと走行音が非常にうるさかった。

銀座線だな、と思う。

 

池袋から新宿・荻窪を結ぶ丸ノ内線を利用する機会は銀座線より多いのだが、同じ第三軌条による集電方式でも、これほど騒音が大きかったっけ、と苦笑いが浮かぶ。

 

 

改札を出ると、地下の通路は迷路のように「浅草地下商店街」を分岐する。

 

「朝7時から夜11時まで うまい やすい 魅力の専門店がいっぱい」と色とりどりの文字で書かれた看板のデザインや文句も、「揚げたて 茹でたて 蕎麦は自家製・つゆは鰹枯節一番だし」と幕に大書した入口の立食い蕎麦屋も、「激安!! 激安!! 激安!! 激安!!」と連呼している貼紙を掲げた家電量販店も、古びた地下であることを含めて、あたかも昭和に引き戻されたかのような既視感を伴う。

煌びやかで近代的なエキナカに改装されたJRの駅よりも、こちらの方が私鉄らしくて個性的である。

 

 

階段を上がって地上に出れば、昭和6年の建設当時のアール・デコ方式を再現した「松屋浅草」の、奥に向けて幅が広がって行く三角形の建物は、家族旅行で訪れた昔と変わらぬ懐かしさであった。

東を流れる隅田川の向こうに、東京スカイツリーが夕陽に照らされている。

 

浅草の街を歩くのは好きなので、もっと早い時間に来れば良かった、と臍を噛んだが、僕は誘惑を振り切って、2階にある東武浅草駅に歩を進めた。

改札口の頭上にある列車案内の電光掲示板を見上げれば、最も目立っているのは特急「りょうもう」で、18時40分、19時10分、20時10分発の赤城行きと、19時40分の葛生行きがずらりと赤文字で表示されている。

列車の本数を見れば、豪華な看板特急が走る日光や鬼怒川温泉よりも、「りょうもう」が向かう伊勢崎線方面の方が生活路線として根づいているのだな、と思う。

 

 

隣りには、19時00分発の鬼怒川公園行き特急「スペーシアきぬ」、20時00分発東武日光行き特急「スペーシアけごん」、そして20時20分発の新栃木行き区間運転の特急「スペーシアけごん」が並んでいるが、先発は、18時30分に発車する東武宇都宮行き特急「しもつけ」である。

 

今回は、特急「しもつけ」で宇都宮に行こうと言う趣向である。

宇都宮に何の用事もないし、すぐに折り返すつもりであるから、目的は「しもつけ」そのものである。

 

 

東武浅草駅の頭端式のホームに上がると、金色に塗られた「スペーシアきぬ」や久喜行きの普通電車と並んで、「回送」の表示を掲げて新しい塗装を身に纏った電車が待機している。

 

何処かで目にしたことがある車両だな、と既視感に襲われたが、特急「しもつけ」に使われている350系は、どうやら急行時代の「りょうもう」に使われていた1800系電車を改造した車両のようである。

僕は1800系時代の急行「りょうもう」に乗車し、看板特急の「けごん」や「きぬ」に比べて地味であるけれども、乗り心地や走りっぷりは負けていないではないか、と感服した覚えがあるので、こうして特急として新しい人生を歩んでいる姿を見れば嬉しくなるのだが、世の中の鉄道で、急行用車両を特急に転用した例は珍しいのではないだろうか。

 

 

思い起こすのは、僕の故郷・信州へ走っていた特急「あずさ」である。

運転開始初日の昭和41年10月1日の下り「第1あずさ」が、甲府駅の先で踏切事故を起こして運転の継続が出来なくなり、181系特急用車両の手配もままならず、急遽、急行用の165系車両で運転したのである。

急行用車両に「特急 あずさ」と書かれた手書きのヘッドマークをつけた写真を目にして、歌謡曲にも歌われた高名な特急電車も、門出は多難だったのだな、と思う。

 

当時の特急がそれほど速くなかったのか、急行用車両が優秀であったのかは知らないけれども、そうか、特急は急行用車両でも代役が務まるのか、と感心したことを覚えている。

 

 

特急「しもつけ」は、昭和28年に浅草-東武宇都宮間で運転を開始した有料急行列車が起源である。

当時は、日光への特急で運用されていた車両が投入され、昭和31年に「しもつけ」の愛称がつけられ、「東武鉄道急行ロマンスカー」と宣伝されたが、昭和34年に廃止され、浅草-宇都宮間は準急や快速電車が行き来するだけになった。

 

ただし、昭和の終わりの時刻表を紐解けば、浅草と宇都宮を結ぶ準急が「1時間に1本」などと記載されていた時代もあったのである。

 

 

このあたりの推移は、津田沼駅と千葉中央駅を結ぶ京成電鉄の千葉線と似ている。

 

京成千葉線の開通は大正10年で、京成本線の津田沼-成田間よりも早い。

千葉市への都市間輸送を優先した形であり、昭和10年に国鉄総武本線が千葉駅まで電化される前は、京成千葉線の方が運転間隔や利用客数において優位に立っていた。

国鉄の電化後も、両者の線路が並行する区間では、「国鉄の電車が走っていたら必ず追い抜け」との通達が出され、太平洋戦争の直後にGHQから競走を禁止する通達が出された程であったという。

 

ところが、昭和47年に総武快速線が増設され、中央・総武緩行線と合わせて津田沼まで複々線となり、昭和56年には複々線が千葉駅まで延長、平成2年には京葉線が東京駅まで開通すると、京成千葉線は都心アクセスで劣勢となり、東京方面へ直通する電車の本数も大幅に削減されてしまう。

現在の京成千葉線は、朝と夜に京成本線直通の京成上野駅発着電車が設けられている以外は、京成千原線と新京成電鉄線に直通する各駅停車が合わせて10分間隔で運行されるだけという、寥々たる有様になっている。

 

 
県都直通列車と言えば、東武鉄道では、桐生線の終点である赤城駅から上毛電鉄線に乗り入れて、中央前橋駅に向かう急行電車が昭和31年から運転され、下り列車が「じょうもう」、上り列車が「りょうもう」と名づけられていた。

ところが、東武の車両の電力消費量が上毛電鉄にとって過剰であったために、変電所の容量不足や電圧降下と言った問題が生じ、また、東京と前橋の行き来は距離の短い国鉄高崎線の利用が主流であったため、昭和38年に同社への乗り入れは中止されている。


私鉄の線路だけで前橋に行ける時代があったのか、と思うと胸が熱くなるのだが、僕が生まれる前の話である。

 

 

大都市と周辺の県都を行き来する流動とは、私鉄にとっても大切な収入源になり得ると思うのだが、他社に乗り入れなければ実現できなかった前橋は別としても、宇都宮にしろ千葉にしろ、東武鉄道と京成電鉄が東京直通の機能を重視していないように見えるのが、子供の頃から不思議だった。

需要は少なくないのであろうが、いずれも、平行する国鉄の利便性の方が圧倒的に良かったのであろう。

 

東武宇都宮線は、昭和6年に全線が開業しているが、ダイヤの変遷を見れば、宇都宮都市圏の輸送に重きを置いている観があり、東武宇都宮駅は国鉄宇都宮駅よりも中心街に近く、駅に併設されている東武百貨店の利用者は東武鉄道を利用して今市、日光からも来店すると聞いた。

 

 

昭和63年に、30年近くも中断されていた浅草直通優等列車が快速急行「しもつけ」として復活し、平成18年以降は特急に格上げされて運転されている。

時刻表を眺めながら、いつかは「しもつけ」に乗ってみたい、という欲求に駆られたのは、判官びいきであろうか。

 

この日、ようやくその夢が叶うのであり、日光や鬼怒川に向かう「スペーシア」に乗った時よりも胸が高鳴っているのだが、運転が再開されてから30年も機会がなかったのは、「しもつけ」の運転形態が一因である。

 

 
「しもつけ」は、運転開始当初から一貫して、朝に宇都宮から浅草に向かう上り列車1本、夕方に浅草から宇都宮に向かう下り1本という1往復だけであり、いわば通勤ライナーのような位置付けだった。

その証として、急行時代も、特急に昇格してからも、定期券に急行券や特急券を追加購入すれば乗車できる。

 

下り列車が夕方にしか運転されないのだから、東京に住んでいる者としては扱いにくかった。

 

 

事前に購入した訳ではなく、浅草駅で「しもつけ」の乗車券を手に入れたので、満席です、と断られたらどうしようと不安だったが、問題なく入手できた。

 

1日1往復でありながら、券面に「しもつけ281号」と書かれており、大仰な列車番号に、まるで東海道新幹線のようだな、と苦笑いした。

座席番号の記載も「3号車5列317番」で、いったいこの電車には幾つの座席が置かれているのか、と首を捻った。

 

席番に従って「しもつけ」の車内に足を踏み入れればに、芥子色の座席の座り心地は大変に良く、ここで宇都宮まで過ごせるのか、と嬉しくなる。

 

 

定刻18時30分に発車すれば、駅のすぐ先で直角に近い右カーブがあり、線路は隅田川と正対する。

なかなか速度は上がらず、本格的に走り出すのは、長さ166mの鉄橋を渡り終えるあたりからである。

浅草からの乗客は、座席数の3分の1もいなかったが、下町を高架で越えながら、とうきょうスカイツリー駅、北千住駅と停車していくうちに、半数程度の席が埋まった。

 

とうきょうスカイツリー駅はかつての業平橋駅であるが、明治35年の東武伊勢崎線の開業時は吾妻橋駅と名乗っていた。

当時の東武鉄道は、おそらく財政上の理由であろうか、隅田川をなかなか越えることが出来ず、一時は東武亀戸線を経て亀戸駅から総武鉄道両国橋駅まで乗り入れていた時期があり、この時に吾妻橋駅はいったん廃止される。

 

ところが、総武鉄道が国鉄に買収されて国鉄総武本線になり、乗り入れが打ち切られた明治43年に、旧吾妻橋駅は浅草駅を名乗ってターミナルとして営業を再開、昭和6年に隅田川橋梁が竣工して現在の浅草駅への乗り入れが開始になると業平橋駅に改名され、平成24年のスカイツリーの完成に伴って現在の駅名となったのである。

 

 

僕は、時速15kmの制限速度で隅田川橋梁を悠然と渡る電車の姿を、桜を見に行きがてら隅田川公園から眺めるのが好きだった。

轟々と鉄橋を高鳴らせて電車が疾走するJR総武本線や京成線よりも、長距離列車の風格が感じられるからだろう。

 

吾妻橋や、歌人・在原業平が亡くなった地を由来とする業平橋の方が良い駅名ではないか、と思ってしまうのだが、スカイツリーを建設し運営しているのが東武鉄道であるから、やむを得ない改名であろう。

せめて「とうきょう」くらい漢字にしなさいよ、ともどかしくなるのだから、僕の思考の融通のなさは重症である。

 

 

短い真冬の日はすっかり暮れて、浅草駅を発車した時点から外は真っ暗である。

眩い駅の照明が車内を賑々しく照らし出す以外は、窓を覆い尽くす闇に街の灯が浮かんでいるだけの道中で、春日部駅を過ぎれば、その明かりも至って少なくなる。

あとは広大な関東平野をひた走るばかりであるが、僕の個人的な感触では、東武鉄道の保線は西の小田急電鉄と並んで優秀であり、揺れが少なく、滑るような乗り心地である。

 

野田線と交差する春日部駅、伊勢崎線と日光線が分岐する東武動物公園駅、そして宇都宮線を分岐する栃木駅は、他の駅に比べればホームが多いだけ明るいけれども、それでも人影は少なく、随分遠くまで来たような気分になる。

 

 

栃木駅に来れば、県名と同じ名前でありながら県庁所在地になれなかった街であることを意識せざるを得ない。

千葉県を除く関東5県をはじめ、県名と県庁所在地名が異なる都道府県は少なくないが、県名と同じ名前の都市が存在し、かつ県都になっていないのは、栃木県だけではないだろうか。

 

明治期に栃木県と宇都宮県が制定され、それぞれの県都が栃木市と宇都宮市であったのだが、明治6年に栃木県と宇都宮県が合併した時、県庁は栃木町に置かれることになり、県名が栃木県となったそうである。

人口や経済規模で勝る宇都宮町の人々が県庁の宇都宮への移転を働きかけ、明治17年に、宇都宮が県の中央にあることと、国道が通っている交通の要所であることを理由に、栃木県が県庁を宇都宮に移したので、県名と県庁所在地名が食い違うことになったと言われている。

当時、県庁が宇都宮に移転したのだから県名も宇都宮県になるはず、と勘違いした県の公吏が、県名は宇都宮県になったが旧栃木県庁で事務を行う、とする布告を出すといった混乱が生じたという逸話が残っている。

 

宇都宮は日光街道と奥州街道の追分となる我が国有数の宿場町として発展し、後に東北本線となる日本鉄道が明治18年に開通している。

東北本線も国道4号線も栃木市は通らず、東武鉄道が重要な東京連絡機能を果たしているはずなのだが、栃木駅はどのような駅なのか、と身を乗り出してみても、曇りガラスの向こうのホームは閑散として、いたずらに眩しい照明が「とちぎ」の駅名標を浮かび上がらせているだけであった。

 

 

新栃木、壬生、おもちゃのまち、江曽島と、東武宇都宮線の主要駅に停車しながら、客室は少しずつ閑散としてくる。

 

とうきょうスカイツリー駅もそうだったが、東武動物公園駅も、おもちゃのまち駅も、それぞれ近隣にあるテーマパークの宣伝目的で改名したのだろうと早とちりして、反発していた時期がある。

前者の旧駅名は杉戸駅で、昭和56年の東武動物公園の開園により駅名を変更したのであるが、後者は、トミー工業を中心に玩具関連の工業団地が誕生したことにより、昭和40年に新駅として誕生したオリジナルの駅名である。

命名者はトミーの創始者であり、宇都宮線で東武宇都宮駅に次ぐ乗降客数を誇ると聞けば、子供の頃にトミカで遊んだ者として、無知を恥じる他はない。

 

今でも、スカイツリーや東武動物公園よりも、壬生町おもちゃ博物館や、おもちゃのまちバンダイミュージアムの方に心を惹かれる。

 

 

ふと尿意を催して、降りる前にトイレに行っておくか、とデッキに足を運べば、今どき珍しい和式便器である。

1800系を350系に改造しても、トイレは洋式にしなかったのか、と思うと、東武鉄道らしい、と可笑しさが込み上げて来た。

 

特急「しもつけ」は、この旅の4年後の令和2年4月24日の運転を最後に、新型コロナウィルス流行の影響で運休し、そのまま廃止された。

乗っておいて良かった、と思うけれども、和式トイレの350系車両は、その後どうなったのだろうか。

 

「しもつけ」の廃止により、現在の東武宇都宮線は、浅草への直通列車が1本もないダイヤになっている。

京成千葉線と同様に、県都と東京の直通輸送を諦めてしまったのか、と思えば寂しい。

 

 

定刻20時22分きっかりに、特急「しもつけ」は東武宇都宮駅に滑り込んだ。

 

ホームの向かい側には栃木行きの普通電車が発車を待っていて、このような時間帯でも改札から駆け込んで来る利用者が少なくない。

この電車で折り返しても、日付が変わる前に浅草に戻ることは出来るのだろうが、浅草から新宿へ行く煩わしさを思えば、路線バスでJR宇都宮駅に歩を運んで、東北新幹線の上り列車を捕まえた方が賢明であろう。

湘南新宿ラインならば直行できるが、さすがに冗長である。

 

新幹線は東京駅まで50分、「しもつけ」の1時間52分が何だったのか、と思うような俊足ぶりであるが、そのおかげで、23時近くまで上り列車が残っている。

 

 

宇都宮は、駅弁発祥の地として知られている。

我が国で最古の駅弁が、何処の駅でいつ発売されたのかは諸説があるらしいが、明治18年7月16日に、日本鉄道の嘱託を受けた旅館「白木屋」が、同日に開業した日本鉄道宇都宮駅で、握り飯2個と沢庵を竹の皮に包んで販売したのが最初とされている。

 

午後9時に近い時間では、駅の売店は閉まっているかもしれないが、それならば宇都宮餃子を賞味する余裕くらいはあるかもしれない、と、僕は思わず足を速めた。

駅舎を出ると、東京に比べて遥かに冷たい風が、この日のささやかな旅の移動距離を物語っていた。

 

 

 

 
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