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なぜ、思想は削ぎ落とされたのか?

「1人◯◯」はディズニーランドまでなら行けるでおなじみのラッタです。

 

ブログ書くの久しぶりな気が…

決して遊んでたわけでは、
ないわけじゃないのですがw

先週は木金土と連続でスペースやったり
その他もろもろ忙しめだったりで
ちょっとメルマガを書く余裕がなかった感じです。

 

そうこうしているうちに2月も終盤戦ってことで、なにか書きたいなーと思いPCの前に座っております。

なに書こうかなー・・・

あ、じゃあ、

「決して遊んでたわけではないわけじゃない」

の話をだらだらと。

先週の水曜日。
スペース初日の前日ですね。

「鹿音」のカノコ氏と
「X運用の教科書」作者のゴウ氏と
3人で通話を繋いで映画鑑賞会をしてました。

(どこがもろもろ忙しめだよw)

スタエフの収録機能で繋いでいたので、
映画を視聴しながらの実況音声も一応収録しましたが、

あまりにも誰得すぎる音声が録れただけで
「どのタイミングで公開すればいいんだこれ…」と迷っております。笑

PM10時から通話を繋ぎ、
映画を2本見て、終わってからひたすたくっちゃべり。ゴウ氏は途中で寝落ち。。

結局通話を切ったのが
時計が一周したAM10時。

12時間・・・

まあいつものことです。
酷いときとか20時間ずっと喋りっぱなしとかあったし。

(どこがもろもろ忙しめだよw)

んで、

そのときは連続でアニメ映画だったんですが、

久しぶりに僕が世界一好きなアニメの
『この世界の片隅に』観ました。

万一まだ観てなかったら観てみてください。

なにかノウハウが語られてるとかではないんですが

僕たちみたいな
コンテンツを作っている人間は

上質なコンテンツに触れることそのものが
肥やしになったりするじゃないですか。

情報コンテンツだろうが、
ビジネスコンテンツだろうが関係ない。

「コンテンツに圧倒される」って経験が大事です。

そうすると「不思議と」優れたコンテンツが作れたりします。

そういう点でもおすすめ。

『この世界の片隅に』って

映画公開から何年も経っているし、
いろんな人がいろんな角度からレビューしたり解説したりしているので、

僕がオリジナルで言えることは
もはや無いに等しいんですけど、

それだけ語り尽くされた中で
わりとよく言われているのが、
「この映画ってひたすら中立だよね」ってこと。

通常、戦争をテーマにした映画って、
右寄りとか左寄りとか言われるような、
脚本家や監督の「思想」が少なからず反映されるじゃないですか。

舞台が第二次世界大戦中の広島となればなおさらです。

(いわゆる「中庸」って嘘だと僕は思ってます。
その人をよく観察していれば
多かれ少なかれどちらかに寄っているはず。

いわゆる中庸な人は
「そもそも興味がない」人だけって気がします)

だけど『この世界の片隅に』からは
作り手の思想性がほとんど感じられないんです。

いや、、監督がノンポリだからとかじゃないんですよきっと。

この作品の原作である漫画には
やはり作者の方の思想を垣間見ることができますし。

・・思うに、

この世界の〜は、
映像化するにあたって、

監督の思想性を「わざと削ぎ落とした」んじゃないかと思うんですね。

なぜかってことなんだけど、

これまた多くのレビュアーさんや
評論家の方が共通して言っていることとして、

主人公の「すずさん」の存在感がすごい。

もう本当すごい。
架空のキャラクターじゃなくて
「実在の人物」の半生を追ってる感覚になります。

岡田斗司夫さんとかも言ってましたが、

『この世界の〜』は、
”すずさんの実在性”を強調する。
その1点のみに狙いを定めて作られた作品だと思うんですね。

細かいキャラクターの動きや
ちょっとした背景にまでこだわり抜いた
とんでもないクオリティーの作画も、

1945年8月以降、
「この世からなくなってしまった」はずの
広島や呉の街並みの考えられないほどの再現度も、

それを成し得るために、
当時の同じ場所を生きた人の家族構成まで調べ上げたり
徹底的に取材を重ねて資料を集めたりって制作過程も、、

言うまでもなく、
すずさんの声を演じたのんさんの
恐るべきキャラクターとのシンクロ度も。

すべては、
すずさんの実在性のために、
だったんじゃないかしらって気がします。

そして、

右も左も中庸さえも伝わらないほど、
「作り手の主観を交えずただ既成事実を連ねる構成」もきっとそう。

現地の資料を片っ端から調べ上げ、
度重なる取材を行なって、
思想も考えも生まれないって通常あり得ないと思うんですよね。

先述したとおり、
原作にはわりと「作者の思うところ」が漫画の行間から伝わってきましたし。

だけど、劇場版にはそれがない。

・・あるいは、
劇場版アニメの「この世界の〜」は、

脚本を書いて書いて、
ある程度かたちになってから

思想的な部分を「あとから排除」していったのかもしれません。

作り手自身が考えていることを
キャラクターに喋らせたりといった安易なことはしない。

すずさんは実在していて、
固有の人格があるのだから、と。

作り手の思いや考えが作品に入り込むことは、
すずさんの実在性を表現する上でノイズになってしまうのだ、と。

分からないけどね。

だけど、

あとから削ったと解釈しなければ不自然なくらいに
この映画には作り手の主張が削ぎ落とされています。

「キャラクターの可哀想な様子を強調して演出して戦争の悲惨さを訴える」とか、
やろうと思えばいくらでもできるはずなのに。

そして、作り手の主張がない分だけ、
「すずさん」という1人の女性の
ドキュメンタリーに没入できる。

・・・「僕も」とか言うのは、
あまりにもおこがましすぎるんですが、

僕も、文章なんかを書くとき、

1個の目的のために
その他の不要要素をガサッと削り取る、
スクラップアンドビルドを繰り返すことが多いです。

kindleでもセールスレターでも
随筆だとか歌詞の類でも
当然このメルマガも、SNS投稿さえも、、

たぶん世の中に出てるのって10%あるかないか。ほとんどがゴミ箱行きのボツ原稿です。

10万文字書いて8万文字削る、みたいな。
それで残った文字を重ねていく、みたいな。
本気の文章ほどそういう書き方をします。

じゃあボツ原稿は無駄だったか?といえば、

今日Xにも投稿した
メルマガのバックナンバーのような
( https://twitter.com/ratta_tw/status/1762030092992303242 )

捨てる経験がなければ
起こり得ない現象(進化)が起こってます。

恐縮ながら、僕の文章が、
人から「刺さる」と言っていただけるのは、

たぶん書き上げるまでに
捨てた文字の総量が膨大だからです。

いや、、
だから、

「僕も」とか言うのはおこがましいんですけど、

でも、たぶん『この世界の片隅に』も、
ボツになったアイデアが山のようにあることが伺えます。

いくら片渕須直さんのような鬼才でも、

あんなに観終わったあとに、
ただ泣くでも笑うとかじゃ感情が全く追いつかないような
ただ呆然とするしかないほどの映像作品を

迷い線もなく一発めで作れないんじゃないか。

(映画館で「この世界の〜」を観たとき
エンドロールが終わってからも
みんな魂抜かれたように席から立ち上がれず呆然としていたのが印象的でした。

「感動の最上級は”呆然とする”なんだな」
なんてことを、あらためて感じました。)

・・・うわ・・!

この流れで、

完全版の
『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』
の話も書こうと思ったんですが、

なんか気がついたら3000文字近く書いてたので今回は止めときますw

(「さらにいくつもの〜」のほうは
30分シーンが追加されただけで全くテイストが違う映画になっています)

えーー・・・
強引にまとめると、

・徹底的にこだわることの大事さ
・こだわったものを捨てることの大事さ
・「伝えたい1点」へのコミットに狂える人は圧倒的なコンテンツを生み出せる人

そんな話がしたかった気がします。
たぶん。笑

ではまた!

Have a Nice Day&Night!

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