皆さんこんにちわ!神軍リクルーターロニサランガヤです❗さて、今日は少し堅いお話を・・・・中国の故事「宋襄の仁」から・・

宋は子姓。商(=殷)の紂王の庶兄、微子啓の封ぜられし所なり。後世、春秋に至り、襄公父なる者有り。諸侯に覇たらんと欲し、楚と戦う。公子目夷、其の未だ陣せざるに及びて之を撃たんと請う。公曰く「君子は人を厄に困しめず」と。遂に楚の敗す所と為る。世、笑いて以って「宋襄の仁」と為す。(十八史略)

★宋襄の仁(そうじょうのじん):不必要な情けや哀れみをかけたために、かえって小ひどいめにあうこと。「宋の襄公の仁義」の意。中国、春秋時代に宋の襄公茲父(じほ)が楚(そ)との戦いに際して、「楚の布陣が完了しないうちに先制攻撃をかけよう」という公子目夷(もくい)の進言を、「君子は人が困っているときに苦しめてはならない」といって退け、ついに楚に敗れてしまったのを、世人が「宋襄の仁」といって笑った、と伝える『十八史略』「一」などの故事による

(宋襄の仁:歴史詳細)

紀元前8世紀、春秋時代。周王朝の弱体化から、さまざまな覇者が並び立った時代。その第一の覇者といわれる斉の桓公が死ぬと、宋の襄公はこの桓公に代わって会議を主催し、各諸侯に号令しようとした。仁政によって宋国内をうまく治めていたので、この自分の理想主義を高く掲げてのことである。しかし宋の宰相の目夷はこう諌める。

「宋は小国。小国の分際で諸侯の盟主となろうとするのは禍のもとです」

が、楚と桓公亡き斉の両国とも盟約を結んだ襄公は強気になっていたので、この言葉には耳をかさなかった。それから何年か後の紀元前638年。宋は鄭の国を討った。ところが、この鄭を楚が救ったのである。この楚の行為は先の宋と楚との盟約を破る行為である。これに怒った宋の襄公は今度は楚を相手に戦おうとした。と、また目夷が諌める。

「わが宋は天に見捨てられ滅びた殷の末裔です。(『麦秀の嘆』の項参) 楚と戦っても勝てるはずがない。いたずらに戦争をしてはいけない。宋は殷の末裔の小国としての分に甘んじて、出すぎたまねはしないほうがよい」

ところが、盟約を破った楚の行動を大儀にもとると考えた襄公は、その年の11月、楚の成王と、泓水という川のほとりで戦ったのである。泓水をはさんで対峙する両軍。先に楚の軍が泓水を渡って攻めかけたきた。目夷が進言する。

「相手方の陣形が整わない今のうちに攻撃しましょう」

しかし襄公は言った。

「君子は人の難儀につけ込んで苦しめるようなことはしないものだ」と。

ということで楚軍が川を渡りすっかり陣形を整え終わるまで待って、宋軍は攻撃をしかけた、んが、少勢の宋軍が、大軍の楚にまともに戦って勝てるわけがなく、大敗し、襄公もこのときに受けた傷が元で3日後に死んでしまった。

・・・これが『宋襄の仁』の故事である。
神軍リクルーターロニサランガヤ
★さて、ロニは人類大救世主大塚寛一先生から下記を如是我聞しております。

 
  

人を救うにはまず自分を大切にして自分を救わなくてはならない。しかし、「人知」というは「利己主義」に陥りやすい性格をもっておる。利己主義は最初は都合が良いだろうが、いずれは、周りに嫌われ孤立化し、ひいては滅亡してしまう。しかし、利他主義も実は「利己主義」同様、神の道からは外れている。大切なことは、自分と他人の利害の真ん中をいくことである。どんな関係にも取引にも自他の利害の中間点というものがある。それを看破して、その中間点をとり、自分も相手も繁栄できる道をとることが、「神の道」をあゆむことであり、「自他一如の共存共栄の日本精神」に入ることになるのである。
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