日本人のための「憲法改正」入門

日本人が日本のために、そして世界の平和と繁栄に貢献できる国家となるために、必要となる憲法改正について考えましょう。

正しき憲法改正ーその遠き道のりー

2015-09-20 | 日記
先日、ようやく安全保障法案が可決されましたが、以前から述べているように安全保障の問題は、憲法にきちんと書き込むべき問題であり、本来憲法を先に改正しなければならないものであったと思います。

ただ、現実的に困難な面があり、このような形になったことはやむをえないのですが、日本の安全保障の問題を実効たらしめるために、今後憲法の改正が大きな課題となってきます。

今回の安全保障法案の問題に関して、国民の正しい理解を妨げたのが野党やマスコミだったのではないでしょうか。安全保障法案を「戦争法案」と名付けたり、マスコミがほぼ一色になって反対の報道を行ったことなど、国民はその安易なスローガンに振り回された感があります。

また、学生を含めた若者が国会前で何度もデモを行っていましたが、彼らは全国規模で学生の勉強会を主催し、賛成や反対はともかく正しい歴史や国際情勢、今回の安全保障法案の内容をもっと十分に学ぶべきだったと思います。

その意味で、「戦争反対」だとか、「安倍はやめろ」などというスローガンを叫ぶだけの活動はやはり多くの若者の安全保障に対する正しい理解を妨げました。

ただ今回の安全保障の問題では芸能人や著名人が自分の意見を表明えざるをえない形になり、多くの人が勇気をもってその意見を述べたことは非常に良かったのではないかと思います。

このような賛成・反対が分かれ、価値観が分かれる問題に関してはそれを話題にしないとか意見を言わないというのが大人の態度のように思われているのかもしれませんが、民主制の根本には異なる価値観を持った人や自分と反対の意見を持った人とも、冷静に議論する土俵がなければならないのです。

反対運動の在り方や、国会での議決の状況を見るにつけて、暗澹たる気持ちや情けない気持ちになったのは私だけではなかったのではないでしょうか。

野党議員の暴力的ともいえる抵抗や、安倍首相に対する誹謗中傷。反対のパフォーマンスに興じる国会議員。多数決での議決を「独裁」などと騒ぎ、議会の正当な手続きによる議決を「強硬採決」と叫ぶ国会議員。

自民党は安全保障を含め、憲法改正までうたった上で選挙を戦い圧勝したのです。このような反応は国会議員の間にさえ、議会制民主主義というものに関する理解や、民主制というものに関する理解がほとんどできていないことを実感させます。

今後国民の間で正しい議論や理解がなされた上で正しい憲法改正がなされるまでには、まだまだ遠い道のりがあると感じました。

逆に、何か事が起きたときには感情的な動きが起き、間違った方向に憲法改正がなされる可能性もあるのです。

あるいは、憲法改正もしないままで、自衛隊を戦地に送るはめになるかもしれません。今は平和の中に生きている前提だからいいものの、有事の時に冷静な判断を失って、間違った道を歩む可能性もあるだろうと思います。

例えば朝日新聞は戦中には戦争を大いに煽っていましたが、戦後は手のひらを返したように反日報道を行っています。そのような節操のないマスコミの体質によって踊らされ、国民が間違った選択と判断をする可能性があるわけです。

その意味で、今後憲法改正が政治日程に上ってきたときに、正しい知識や情報をもとに、冷静な議論ができるのかどうかに関して、私は非常な不安をおぼえるのです。

また教育に関しても、少なくとも現在の日本史の教科書などで日本の歴史を学んでいる子どもたちは、まだまだ十分に正しい歴史の知識に触れていません。また、教育者も戦後の教育に洗脳され、正しい歴史の知識や情報を持っていません。子どもたちはそのような環境で学び、そのまま何も知らずに大人になり、有権者になった時に、間違った前提を当然のこととして選択や判断を行っていくでしょう。

学校を超えた世界での学習の機会や啓蒙の機会が必要であるゆえんです。

戦後70年の間、日本の平和が守られ、その中で生きてきた若者が(それは自分も含めて)平和を叫ぶことは簡単なことです。

しかし私は平和の中に有事を憂い、有事の中に平和を観じる精神がなければ、本当に正しい判断はできないと思います。

この両極にあるものを同時に観じながら、極端な議論や感情的な議論を排してこそ、中道の道(正しき道)を選択できるのです。

ですから今回のマスコミの動きや野党の動きを見たときに、情けないという気持ちでいっぱいになるのです。

マスコミは正しい情報や知識を偏らずに報道すべきですし、野党も反対の立場であるならば、その論拠や理由を冷静に述べながら、国民の代表として議論すべきです。

国民が日常の生活や身近な情報に翻弄され大局的な判断ができないからこそ代表者を選び、国会に送り、税金で雇って政治を行わせているのにも関わらず、ほとんど小市民と同じような行動や発言、態度を取っていたのが、多くの野党議員の姿でした。

そのようなことであれば、国会議員として存在する意義はほとんどないといってもいいのです。彼らは国会議員の資格も自覚もないのではないでしょうか。

一般の国民の方がはるかに冷静に、客観的に事態を見据えていたのではないかとさえ思います。

今後は憲法改正を視野に入れ、着実な啓蒙活動と議論を積み重ねていかなければならないと思います。その意味ではもっともっと国民もこのような問題に関して積極的に学んでいかなければなりません。多くの国民はまだまだ国防や安全保障を他人事のように考えているふしがあるのです。

憲法改正が必要な理由は明らかです。憲法は日本の精神が書きこまれていなければなりません。どのような国家ビジョンをもち、世界でどのような役割を果たすのか、どのような国家としてこれから国家運営を行っていくのか。

自分たちの国の在り方をどのようなものと考え、それをどのように作っていくのか。

国家が危機に瀕したり、自分たちの同胞が様々な危険にさらされたときにどのような態度を取るのか。

その覚悟は、その手段は。

そのようなものをきちんと憲法に書き込み、国民的な合意が形成されない限り、日本は独立した国家として永続的に繁栄し、世界の人々の幸福に貢献できる国家にはなりえないのです。

今後、政治家には日本国のあり方から、根源的な議論を巻き起こし、国民に提示提案できる資質を求めたいと思います。

国民も今後、主権者としての在り方が問われることになるだろうと思います。国民が政治への関心を失ったら、民主政治は崩壊します。あるべき主権者の道は遠いのです。その遠き道のりを一歩一歩と歩んでいくことが必要なのです。






















憲法第9条の心

2015-08-14 | 日記
日本の国防や安全保障体制を考えるとき、この現行憲法第9条の規定について考えることは避けて通れない問題です。

この条文が日本国の安全保障の問題を複雑にし、国際社会の状況の変化に対して、非常に難しい対応を余儀なくされる原因となっていると思います。

日本国憲法の第9条の規定を見てみます。

第1項
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第2項
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文を最初に読んだ時に、私自身は侵略はもちろんすべての名目の戦争や武力の行使を放棄したものだと受け止めました。この条文を最初に読んだのは中学生の時だったと思いますが、この条文のもつ複雑な解釈を知らなかった私は、一切の戦争を放棄したのだと思っていたのです。

また憲法の前文にも「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とありましたから、完全に非武装中立をうたったものだと感じたのです。

しかし、大学に入り、憲法の授業を受け、自分でも専門書を読むようになってから、この第9条が実に面倒な条文であることがわかってきました。

簡単にいうと第1項に関しては、いわゆる侵略戦争を放棄したものであると言われており、このような規定は不戦条約や他の国の憲法にもみられるものです。

ややこしいのは第2項で「前項の目的を達するため」という言葉があり、この文言があるために侵略戦争をするための陸海空軍その他の戦力は保持せず、交戦権も認めない、という意味になります。これは芦田修正と言われるもので後から付け加えられた文言ですが、この文言が第1項の内容を引き継ぐ形式を可能にするため、自衛のための戦力の保持や交戦権は認められるという解釈が可能になるのです。

まさにこのような解釈を可能にするために芦田修正がなされたわけです。独立国家として自分の国を自衛できない国家はありえませんから、その自衛権の行使を可能にするために第2項はこのような条文に落ち着きました。

憲法学者は第9条の解釈として、そもそも自衛戦争も放棄しているのだとか(憲法制定当初は吉田茂もそのように述べています)、自衛権も認めないのだという極端な人もいますし、自衛権は持っているが、武力や戦力としてそれを行使することは認められないのだと考える人もいます(自衛権を経済力や文化力など平和的な外交努力で発揮すべきという考えです)。

またもちろん、侵略戦争は放棄したが、自衛権は当然に認められており、それを具体化するために自衛隊があるのだから、自衛のための武力の行使も当然に認められるという憲法学者もいます。

安全保障法制ひとつをとっても、このように憲法の解釈からは様々な結論が導けることが、今回の安全保障法制の議論をややこしくしているのです。

憲法学は所詮「条文の解釈学」なのですから、憲法解釈を専門とする学者が合憲だ違憲だという議論をするのは当然のことで、それはそもそも日本国憲法が積極的な形で自国の安全保障や国防に関して何ら規定していないことに起因しています。

今回の安全保障法案の問題を立憲主義に反するという人がいますが、その批判は全く当たっていません。無知から来るもので、立憲主義の意味が分かっていないと思います。現在の憲法は安全保障法制に関して、合憲、違憲、どちらの解釈も可能なのです。

内閣がこれまでの解釈を変えても、それが立憲主義に反するなどということはありませんし、そもそも法律というのはそのように多様な解釈を認めるものです。ただ国家の安全保障に関して、解釈によって結論が左右されること自体が私は問題であると思っているのです。

話が逸れました。私が憲法第9条を最初に読んだ時の印象を先に述べましたが、普通の国民がこの条文を読むと非武装中立の方向に行ってしまうのはよくわかる気がするのです。

また前文にあるように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」となると、基本的には武力で守るのではなく、理想主義を武器にして自国の平和を守るのだと決意しているようにも読めますし、実際に戦後の憲法制定時にはそのような理念だったのではないかと思うのです。

問題はその後(というか本当は戦争終結時すでに)、国際情勢が変化し、近隣諸国に核や武力を有する「平和を愛しているとはとても思えない」国があり、日本を取り巻く状況が変化してきたことにともない、憲法を改正するのではなく、解釈を変えたり、暫定的な法律を作りながらそれに対応してきたことです。

憲法の解釈を変えること自体が悪いわけではありませんが、それが現状へのいびつな対応を呼び起こし、法の整合性や安定性に影を落としてしまうことにつながることは事実です。そもそも憲法に積極的な形で規定のない国防や安全保障の問題を、法律でカバーすることは非常に難しいと私は思います。

憲法という国家の基本法、最高法規がしっかりとしていて初めて、その下位の規範である様々な法律が正しく機能します。これが原則論であることは間違いないのです。

しかし、硬性憲法である日本国憲法の改正が現実には難しく、現状の危機に対応できない場合にどうするのか、ということが今国民に問われているのです。

安全保障法制に反対する人の中には、現実的な危機などないし、中国が攻めてくるなどということはありえない、などという人もいます。その疑心暗鬼がまた戦争を起こすのだという意見です。

しかし、歴史をみると理想主義や消極的平和主義に国が傾き、現状に対する対応力を失った時に国家が亡ぼされるという実例は、枚挙にいとまがありません。

また国防の問題はほんのわずかの可能性でも、それに対応すべく準備するもので、可能性が低いから何もしなくてもよいというわけにはいかないのです(一度他国の侵略を許せば、それを取り返すことはもはやできません)。

ただ、今の条文のままであれば、憲法第9条に「自分たちの国をきちんと自分たちで守る」という精神を読み取ることは不可能だと思います。前文や第9条には国防の精神がありません。そのような憲法の下に、必死で現状対応するための法律を作ろうとしています。

これは本当に苦肉の策であり、例外的な措置です。憲法の穴を法律で埋めるということですから(しかもそれは明確に憲法から授権されていないわけですから)のちのち必ず別の問題を引き起こす可能性があるのです。

本来ならば、この安全保障法制の議論と憲法改正の議論はセットで行うべきものです。そこを恐れていては、本質的な部分を失うことになるでしょう。

国民に選択を迫るとするならば、まず、自国を自分たちの力で守ることに賛成か否か、ということです。反対ならばアメリカを始め、外国の軍隊に守ってもらうか、平和を愛する諸国民に守ってもらうかしかありません。しかし、これはもはや独立国家とは呼べませんし、これは日本が日本でなくなる可能性を内包しています。

逆に、自国を自分たちで守るのだという結論が出た場合に、場合によっては武力を使ってでも守るのか、それとも経済力や文化力などの力で守る努力をし、決して武力に訴えない道を取るのかのどちらかです。

理想主義に殉じて非暴力を貫くことも可能かもしれませんが、それは武力の前にあっさりと降参することを意味します。個人としてはそのような信念をもってもかまいませんが国家としては安易にそれを認めるわけにはいきません(この理想主義的信念であれこれとやらかしているのが鳩山由紀夫という政治家です。この人は悪人ではないのですが、私と公(国家)の区別がつかないある意味で最悪の政治家です)。そしてその理想主義もまた日本が日本でなくなる可能性を内包しています。

日本の在り方を決める場合に、今生きている我々の考えだけで決めるわけにはいきません。チェスタートンという人が「死者の民主主義」ということを述べています。

われわれは今の政治の在り方を決める権利を持っていますが、それはすでに死者となって、これまでの日本の歴史と伝統を作り守ってきた人々の心を十分に斟酌して決めなければならないということです。日本の歴史と伝統を正しく振り返ったならば、おのずと結論は見えてくることでしょう。

これまで、日本の独立を守るために多くの人々の努力と犠牲が払われています。日本の独立を守り、繁栄をもたらすために努力し、死んでいった人々の数はどのくらいの大きさでしょうか。その思いと行いに敬意を払うならば、今生きている我々の安易な判断によって日本の国家の存立を揺るがすべきでないことは言うまでもないことです。

そして「自分の国は自分で守る」のであれば、その精神は憲法に明確に書きこまなければなりません。国家にも独立自尊の精神は必要です。それを国民が等しく共有してこそ、日本の繁栄と発展はゆるぎないものとなるのです。

それぞれの国民が自分たちの国の在り方をどう考えるのか、憲法改正はまさに国家の大改革の根本なのです。















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憲法改正を急がなければならない理由

2015-06-14 | 日記
安全保障法案の是非をめぐって、最近は国会やマスコミ、様々な場所で憲法に関する議論が活発になってきました。

集団的自衛権の行使や、日本の安全保障の問題について、国民的議論が起きることはとても喜ばしいことです。

今回の安全保障法案の問題については、それが憲法に違反しているのか違反していないのか、ということに関して憲法学者も出てきて、様々な議論がされているようですが、国家の安全保障の問題に関して、違憲か合憲かなどという議論をしなければならないこと自体が、すでに大きな問題なのです。

国家の安全保障の問題は国の存立に関わる問題ですから(つまり国家がなくなってしまう可能性のある事態に対処するための問題で、安全保障が脅かされれば、憲法はその機能を失うほどの問題ですから)、それは憲法にきちんと明記されていてしかるべき問題であって、それが立場や見解によって大きく異なることは、それ自体が国を危うくするもので、大問題なのです。

自衛権を具体化するための法案ができて、それを議論する上で、違憲や合憲の議論をしなければならないということが、いかに不毛なことかを知らなければならないと思います。

今回の安全保障関連法案に関して、違憲であるという意見が憲法学者から出されているのは、彼らの立場からすれば理解できますし、政治家が憲法で認められた範囲内であって合憲であるというのもまた理解できるのです。

このようなあいまいな、解釈次第の憲法を放置していることそのものが大きな問題です。このような状態が続けば、例えば中国は海洋進出を急ぐことでしょうし、日本が安全保障の問題をきちんと整える前に、様々な既成事実を作り出していくことでしょう。

すでにそのような動きが大きくなっていることは中国の動きをみていれば誰にもわかるはずです。

そもそも国家の安全保障のリスクは、国際情勢や我が国を敵視する国の政策や動向によって変わってくるものです。日本の国内でどのように法律をいじっても、そのリスクを閉じた国内の中でコントロールすることはできません。

その意味で、防衛大臣などが「今回の法案で、自衛隊のリスクは大きくはならない」などと言っているのを聞くと、本当に日本は情けない国になったものだと思います。そのように発言しなければマスコミが騒ぎ、自衛隊員が死んでもいいのか、などという議論を喚起するからでしょう。

日本人はいい意味でも悪い意味でも「死を恐れない国から死を極端に恐れる国」になってしまいました。そこには宗教の不在があります。

そもそも「自衛隊のみなさん、今回の法案では別にあなた方のリスクは高くならないので、安全ですから安心してくださいね」という話は、国家の安全保障を責務とし、場合によってはその命をかけて職責を全うしている彼らに対して非常に失礼なのです。

自衛隊のリスクは本来、国家の安全保障のリスクと一体です。それを率直に認めたうえで、そのリスクを自衛隊に負わせることの意味や価値や使命をきちんと表明してこそ、自衛隊の方も納得してその職責を全うできるのではないかと思います。

そもそも公安系公務員(自衛隊や警察官、消防官)などに対して、危険はなく安全だから大丈夫ですというような言い方は彼らをバカにしていると思います。ただでさえ生命のリスクの高い職業ですから、それは本人も家族も理解し、それゆえに誇りを持って臨んでいるはずです。またそれゆえに尊敬されるべき職業なのです。

日本は安全保障に関して、もっと正直に率直に議論し、自衛隊の役割やその働きを憲法に明確に規定すべきだと思うのです。

そして、差し迫った現実的な危険は中国の動きですが、それもきちんと名指しで批判し、具体的な議論を提供すべきです。政府が名指しで批判すると外交問題になりますが、マスコミはもっと明確にそれをやるべきだと思います。今回の安全保障に反対の立場の方(特にマスコミや共産党、社民党や民主党も)は、中国の海洋進出や時代遅れの領土拡張政策を全く批判しません。その部分をマスコミなどが大きく報道して国民的な危機感を共有すること自体が、実は中国に対して強い抑止力につながることがなぜわからないのでしょうか。

マスコミが戦争が嫌いなら、逆に戦争をせずに中国を抑止するために、言論で戦うということをなぜしないのか不思議に思います。それをマスコミがしないなら、差し迫った危機の下では、政治家はそれに対処するための具体的な措置を考えなければならなくなるのです。

そのくせ政治家が発言をすれば上げ足をとり、批判して審議などをストップさせ、政治家の本音の発言を引き出せていません。そのため政治家は腫れ物に触るように発言し、結果的に国民の利益を損ねています。

言論活動によって中国の暴走に手を貸しているのは実は自分たちだという認識をマスコミには持って欲しいものです。彼らはその意味で、日本の安全を脅かす先鋭部隊です。

また憲法学者についても言っておきますが、憲法の問題は憲法という法典の中身を解釈するだけでその結論が出せるわけではありません。残念ながら他の法律と違って、憲法は現実の政治世界や国際情勢に開かれているものであって、価値体系的には閉じていないのです。

その意味で憲法学者の意見が政治的に、あるいは社会的に間違っていることはよくあることです。今回の安全保障の問題に関しては憲法を変えるべきと発言する学者がいましたが(慶応大学、小林節など)それが憲法学者としては当然のあるべき議論です。

憲法を守らなければならないから、それに合わないと解釈されるものはすべて認めてはならない、と考える憲法学者は多いと思いますが、彼らは、現憲法を解釈しているだけで、国民の生命や安全については何の責任もない人たちです。国家の存立に関わる高度に政治的な問題(裁判上は統治行為論として最高裁判所も判断を避けたり判断できない領域があります)については、国民や国民が選んだ政治家が責任をもって判断すべきで、憲法学者の意見などに左右される必要はありません(というより憲法違反だというなら憲法を変えるしかありません)。

今回の内閣は憲法改正を目標にしているのですから、本当に変えるべき条文を明確にして、それをさっさと国民的議論の台座に乗せて、改正論議を進めればいいのです。「第9条を変えます」と断言して大いに議論を巻き起こすべきなのです。

変えやすいところから変えようなどと言って、安全保障という国家にとって最も大切な問題から目をそらしてきたツケが今回ってきています。マスコミが蒙昧無知で国民がそれを盲信盲従する日本の風土では、政治家がそれを啓蒙し、国民の意識を変えていくことも、政治家の大切な使命なのですから、堂々とそれをやればいいと思います。

内閣が憲法改正を目指すということに関してそれを批判する人もいます(伊藤真、「憲法の力」など)。内閣には憲法尊重擁護義務があるからだそうです(このようなことを言っていたら永久に憲法改正などできませんね)。野党の政治家にもそのようなバカなことをいう人がいるので驚きですが、このような人たちは真の意味での民主主義が理解できていないのでしょう。憲法の条文を閉じた解釈論にとらわれて議論するとこのようになります。

ちなみに伊藤真によれば憲法は国民のものなのだから改正を政府が言うのはおかしいという議論のようです。伊藤真は法律の先生としては本当に優秀ですが、政府と国民を対立するものである(根本に政府は悪、権力憎しの考え方がある)と考えるヨーロッパ近代立憲主義に洗脳されていて(まあほとんどすべての憲法学者がそうですが)、それが全ての議論をゆがめる原因となっています。

政府と国民が対立する思想は、何も日本的なものでもなければ、世界的で普遍的な思想でもありません。それはヨーロッパの一神教的な風土における政治的な抗争の結果できたものですから、そのような風土のない日本にはそれをそのまま全て真似したり、あてはめたりする必要はないのです。

また民主主義下の政治家の役割は、国民に政治的な議題を提案し、啓蒙することも当然に含まれているのです。そしてマスコミがまともな役割を果たせない日本の惨状では、政治家がリーダーシップをとって、その政治的な課題に関する議論を巻き起こし、国民世論を正しい方向に導かなければなりません。

その意味ではまだまだ今回の政権もそれには成功していないように思えます。

憲法学について言うと、先にも述べたように、憲法は他の法律と大きく違って、国際情勢や高度に政治的な価値判断に開かれている法典です。

その意味で、憲法解釈学とは別に、現にある条文にとらわれないもっと広い意味での憲法学を創設し研究すべきであると思います(すでに憲法政治学という形で具体的に提起している学者もいます。小林昭三など)。

日本は憲法学者の解釈や彼らの価値観に振り回されてきた面があり、今でも法学部や法律の研究機関ではそのような人々の解釈論や価値観が根強く残っていて、日本の国益を害し続けています。

憲法学者の中にはやたらに近代立憲主義を述べ立てて、憲法の目的は政治権力を縛るものだという議論ばかりをしていますが、日本は日本の歴史や日本の宗教的風土、政治的風土に合った独自の憲法体系を創造すればいいのではないでしょうか。

近代ヨーロッパ生まれの憲法思想が必ず先進的で正しいわけではないのです。

ただ、最近はようやく若い学者などが独自の研究機関を作ったり、ソーシャルメディアで憲法に関する意見や情報を発信したりするようになってきていて、非常に喜ばしいことだと思います。

最後に国民に対して言うと、日本では民主主義が正しく機能できる前提が欠けているように思います。それが価値判断や価値観の違いが明確に出てくる問題に関しては、自分の意見を言えないという風潮です。

政治問題や宗教問題などは、その価値観が明確に出てくるところですが、このような議論で自分の意見や立場を表明すると偏見の目で見られたり、レッテルを貼られたりするので、社会的な立場を守り、他人との対立や争いを避けたい日本人は、それから目をそらして生活しています。

価値判断や信念をぶつけ合う議論ができないうちは、日本の民主主義はまだまだだと言うしかありません。というよりそれは民主主義とは呼べません。

今回の安全保障法制の問題についても、世論調査では十分な説明や議論がされていないという意見が多数あったようですが、そもそも多くの国民がこの問題に関してきちんと問題意識をもって情報を集め、勉強しているのか非常に疑問です。

日本は中国や北朝鮮とは違って、平然公然と政府の批判ができるとてもいい国です。居酒屋で本も読まないおじさんが内閣総理大臣を批判しても悠々と生活できるとてもいい国なのです。情報もバカなマスコミを除けば自分から求めることでかなり正確で多様な情報が入ってきます。

それを利用せずに積極的な努力をしていないのは国民の問題であって、政府やマスコミの責任だけにしてはいけません。民主主義は国民の成長とともにあるべきものです。その意味で国家の安全保障の問題に関しては、全国民が関心をもち、一定の意見を持ってしかるべきなのです。

今回の安全保障法案の問題は、日本の今後の方向性をあらゆる意味で大きく左右する非常に重要な問題です。生活の問題やお金の問題、その他日常的な様々な問題はあるでしょうが、その前提に関わる大きな問題です。

全ての国民が正面から向き合うことを期待したいと思います。




















平和主義を問い直す

2014-11-02 | 日記
日本国憲法の基本原理の一つが「平和主義」であると言われています。この「平和主義」に関して考えてみましょう。

現在の政権(2014年11月)のもとでは「積極的平和主義」というものが外交政策の基本方針となっていますが、この方向性は基本的には正しいと言えると思います。

日本国憲法の平和主義は、前文の解説でも述べたように「消極的平和主義」です。これは前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という文言に非常によく表れています。

もちろん前文の中には「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」などとも書いてありますから、国際社会の平和に積極的に貢献しようとしているようにも読めるのですが、実際にはこのような行動はとっていません。

日本で平和活動を行う人は多々いますが、戦乱の中で苦しむ人々がいる国に自ら出向いて平和活動をする人はほとんどいません。

世界には平和を愛しない諸国民がいるという事実のもとでは、このような憲法の平和主義の前提はあっという間に崩れてしまうのです。

そして消極的な平和主義は、逆に戦争を誘引してしまうという最悪の結果をもたらすこともあるのです。

平和というものは自らが戦争や戦いをしなければ得られるというほど単純なものではなく、積極的に平和を創造する努力なしには、決して得られないものだということを知らなければなりません。

「奴隷の平和」という言葉があるように、何をされても服従し、争わないという考えもあるでしょうが、そこには自分らしく生きることや、自由や繁栄は決して訪れないのです。

また、世界の様々なところで起こっている不幸に目をつむり、自分だけが安全な場所で平和を語っても、それが世界に誇れる平和主義と言えるでしょうか。。

日本国の独立や安全を脅かすものから、国民の生命や財産、そして日本の独立を守るためにも、日本国憲法の前文や9条は変えていかなくてはならないのです。

大きな前提は、日本は外国を侵略しないが、決して侵略もさせない、という決意と、それを実効たらしめるための軍備や法整備が必要であるということです。

その意味では国防軍というものは必要なものであり、それがなくなる世界を究極の理想としつつも、現段階では平和を脅かす様々な勢力に対しての備えは怠ってはならないわけです。

現憲法の9条に関しては、様々な解釈がなされて、非常にわかりにくい条文になっていますし、日本にすでに存在し、国民の安全と生存を守っている自衛隊が、戦力でないわけはないのですから、必要なものは必要なものとして、きちんと憲法上の地位を与えるべきなのです。

「戦の一字を忘れるな」

これは西郷隆盛が常々口にしていた言葉です。

必要な時に戦うことを恐れ、それから逃げる者に、真の平和は訪れないのです。

日本国民は「平和」というものをどのように捉えているのか。例え奴隷になっても、ただただ争わないという平和を希求するのか、それとも自分たちの自由や独立、生存や安全を脅かすものに対して自らそれを排除し、努力して平和を作り出すつもりなのか。

その「平和主義」の概念に関して、国民的な合意が必要なのだと思います。

平時には、できる限り武力や戦力に訴えることなく平和を維持する努力をしながらも、日本の独立や繁栄を脅かすような武力による干渉がなされた場合は、断固としてそれを排除し、自らの力で積極的に平和を創造する勇気と気概を持たなければならないでしょう。

そしてその「勇気と気概」こそが、実は平和主義には最も必要なものであるのだと私は思います。

自らの平和のみならず、日本が世界平和に貢献するのであるならば、絶対に失ってはならないものなのです。

以上、憲法の平和主義に関して簡単に述べました。この部分に関しては現実に差し迫った危機が存在しています。

早急に「平和主義を問い直す」ことが求められているのです。











基本的人権を問い直す

2014-10-13 | 日記
日本国憲法のいわゆる基本原則とされる「基本的人権」について考えてみます。

人権を尊重しなければならないのは当然であり、権利獲得のための人類の歴史的営みは尊重されなければなりません。

問題はそのあり方や、その根拠です。現憲法の人権規定の問題点を述べてみます。

まず、人権の根拠をどこに置くか、ということですが、人権は「人間が人間であることに由来する権利」であるといわれています。しかし、人間が何ゆえに尊いのか、それについては十分な根拠が述べられているとは思えません。

これについては欧米の「天賦人権説」という考え方をもう一度再認識しなければならないと思います。

人権は神に与えられたものであるという考え方です。そこには神に対する義務というものも前提にされていて、人権の暴走に対して一定の制限がかけられています。天賦人権説の思想の中には、人間は神に対する信仰を基本として、神に対する義務を果たすがゆえに「人権」を賦与されているのだという謙虚な思想があります。

このような人間を超えた世界に人権の根拠を置くことは非常に重要であり、日本国憲法にはこのような人権規定の根拠にあたる部分が抜け落ちています。

これでは、人権を振りかざして、権利の主張ばかりをするという人権の横暴に、歯止めをかけることはできません(公共の福祉という言葉で制限をかけるといっても、それは結局自由を制限する方向に解釈されていくでしょう)。

日本国憲法の人権規定の根拠には、このような人権の行使に一定の節度を持たせるための規定を入れていべきだろうと思います。またそれによってこそ、本当の意味での人権の不可侵性、神聖性も出てくるのです。

人権の根拠には宗教や歴史などを踏まえた倫理規定が必要なのです(憲法の中に一定の思想や倫理規定などを入れるべきではないという憲法学者も多いのですが、それは国家の基本法としての憲法の本質を理解していないことの表れです)。

また、人権に関してはもう一つ大切な問題があります。

現在の憲法の人権規定は、人権カタログ的に様々な人権が横並びに規定されています。

しかし、私はもう一度この人権規定を「自由権」というものを基本として再構成し直すべきであると思うのです(人権にも価値の序列があります、ということです)。

基本的人権の出発点は、そもそも国家権力からの自由というものが基本にあったはずです。そしてその自由を支えるため、そして自由を実効たらしめるために「社会権」などの人権が出てきているのです。

これが現在ではその優先順位が混乱し、社会権や生存権というものを根拠にして「自由権」が広く侵害される結果になっています。

これは平等を主張する人が「機会の平等」ではなく「結果の平等」を求めすぎることに端を発する問題でもありますが、あくまでも人権規定は「自由権」を中心としたものでなければならないと思います。

平等権の問題は「機会の平等」という観点から「自由権」の中に吸収することができます。機会の平等ということは誰にもが同等のチャンスが用意されているということですから、すなわち自由が保障されているということです。

もちろん自由権すら行使できない極限状況の人に、一定の前提を準備するという意味での社会権や生存権はなんらかの形で準備されなければなりません。しかし、それが人権の前面に出てくることは避けなければならないのです。

自由というものが基本にあってこそ、人間は自分らしく個性を発揮して幸せに生きていくことができます。また、それによって国家や社会の発展や成長もあるのです。「国家からの自由」や「国家への自由」はあっても、「国家による自由」というものはそもそも論理矛盾であり、緊急避難の例外的なものであると考えなければなりません。

このような人権のあり方が国民に受け入れられるためには福澤諭吉が述べたような「一身独立して一国独立す」という気概が国民に存在していなければなりませんし、現在のように国家に依存し、自分の生存を国家に委ねるような国民が多くなってはいけません。


日本が独立の気概を持ち、世界の人々の幸福に貢献できるような国家となるためには、現在の憲法の人権規定のあり方から見直さなければならないのです。

以上、人権に関しては個々の人権のあり方に関して述べるべきことは多々あるのですが、基本的な問題点だけ述べておきました。

次回は「平和主義」に関して、その問題点を述べることにします。