年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地市場跡地の争奪戦の終わりの始まり

2024年04月20日 | 宅老のグチ
報道によると東京都が築地市場の跡地の方向を決めたようだ。この問題はもう50年以上の歳月が経っている。築地市場の豊洲移転の30年ほど前の準備会合で、ある委員がオランダ中央市場・パリ中央市場の移転騒動等の例を出して、一国の食文化の中心市場を動かすということは多くの利害関係者の調整で時間がかかるので50年は必要となると言っていて、傍聴人だった自分はとんでもないことを言う人だなと思っていた。その人はすでに大田市場の移転時にも築地市場で移転再整備の検討委員をしていたようで、参加者が納得している様子が見えた。その会合も25年ほど経っていて、記憶が薄れつつある。いつかはこの会議の議事録があるので公になる時もあると思う。参加していて、国会の議論より真剣だったという印象が残る。それは築地が日本を代表とする市場で江戸時代からの自負心から来ていたと思う。量の大田より品質の見極めの築地でマグロのセリで億の値段をつけられる得意先があることから来ている。
 印象に残るのは最初の会合で、東京都が示した首都圏4000万人の中核市場という発言だった。これは築地市場の問題でなく、東日本の生鮮市場の事を考えるということから来ている。東京都は今1300万人だが4000万人という数字がどこから来たか聞きそびれたが記憶に残る数字だった。そこから各市場参加者の現状と要望が述べられ、議事録も取っていて、その問題に対して東京都の回答が示されて、そこから回答に関しての疑問と議論を月一回会合があった。自分は発言権が無いので、時々東京都の職員に用語の意味とかの質問をしていた。行政用語と市場用語は慣れないと本質が理解できない。そんな会合を繰り返し、リオに敗退した時まで続き、その後の会合のやる気と、会合の頻度が落ちた。
 2020年の候補に再立候補を東京都が表明しても移転準備会合のモチベ-ションが下がっていた。本当にやる気が出たのは2020年開催地に決まってからで、今までは会合でも空論の様に感じていたのだが築地市場が移転しないと、東京オリンピックの失敗原因と糾弾される気持ちが出てきた。
 今盛業となっている築地場外市場は当時は人が消えると思っていた人はマスコミによって煽られていた気がする。当時の場外市場は築地の量販店対応の遅れから、売り上げが低迷し、観光客にも応対する時期だった。だが築地場外市場の衛生状況が悪く、中央区がトイレ整備などをして、悪評判を無くしていた。財政の豊かな中央区だからできたのだろう。
 2040年頃に計画された施設が築地市場の跡地に出来て、鉄道の駅も築地に来る計画のようだ。ということは晴海フラッグの交通の不便は最低でも後15年はバス便しかない。豊海の水産埠頭の冷蔵庫もいずれ移転となる気がする。月島のもんじゃ街のタワマンも固定資産税の高騰によって、移転した人もあると思う。千代田区の郷土資料を読んでいた時、多くの人が移転後にも千代田区の祭りに関心が在るようで、参加している様子が見える。大江戸線勝どき駅の大混雑は2040年までは続く。
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