年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

日清戦争と図書館で検索すると出た本・日清戦争が連戦連勝で戦争が娯楽となった上野の様子

2024年03月29日 | 宅老のグチ
この本の著者の経歴から,上野の東京芸大で過ごし、東大の教授となった時の本である。著者は時々JR上野駅で降りて、上野動物園の年間パスを利用し、動物園を通り抜け、歩いて東大迄通ったようだ。最近池之端から不忍池・茅町を歩いていたので、昇り下りが苦にしなければ耐力保持コ-スと思っていた。

戦争という見世物  -日清戦争祝捷大会潜入記-木下 直之著 2013
明治二十七年十二月九日上野祝捷大会  捷という漢字は今はあまり使われないが勝という意味。つまり日清戦争の祝勝会を上野の不忍池の片隅で大々的に行われていた。問題は開催日時で明治27年12月は歴史の結果を知っている身ではまだ日清戦争が終わっていないし、台湾掃討作戦が終了したのは翌年11月なのでまだ終戦まで1年もあったし、その間に三国干渉というのもあって、浮かれている場合ではないと今では思う。
 冷静に見ていた勝海舟は日本が清国に大勝すると、列国の中国侵略が進み、さらにアジアの未開国が急に力をつけることの警戒をするという見方をすでに示していた。
 清国との講和条約の後に、明治日本の最大の外交問題(不平等条約改正)が進む。この浮かれ具合を詳細に記述している本で当時の東京市民のはしゃぎぶりが書かれている。図書館で日清戦争の絵画を見ていると、講和条約締結後と思っていたが、あまり日本が連戦連勝で難攻不落という前評判の都市や陣地も一日とか行っただけで、逃げてしまう清軍を見下し感があって、もう勝利が間違いないと祝勝会を上野公園で開催した。このあと冬将軍という寒波で進軍が止まったようだ。明治28年3月に下関で講和条約が結ばれるが、その途中で日本は些細な口実で台湾澎湖島に進軍した。後々の日本の戦争史から、上野の祝勝会から台湾進攻が戦争への道が出来た。軍が行動を起こし、勝てば理屈が付いてくる。満州事変・ハワイ真珠湾奇襲攻撃等が思い起こす。これは新聞が戦争を起こすと販売部数が増えるので、勝ち戦では批判できない傾向があった。明治以降で新聞拡販には戦争報道が一番の娯楽で、他社の記事より一日も早く、さらに従軍挿絵画家も戦地で活躍した。画像の進化はこの頃から挿絵から写真に代わり、伝達も早くなった。
 2024年3月28日にまだ桜が開花しないので混雑は少ないと考え、大江戸線上野御徒町駅で降りて、不忍池口から動物園のカバとキリン舎の奥にある、記念碑を探りに行った。当時の写真が残っていて、清国の戦艦二隻のイカリが戦利品として不忍池を背景としている。
 著者が上野動物園の職員に依頼し、清国の戦艦の遺跡がカバ舎の後ろに埋まっていることを確認した。鎮遠乃錨の碑が埋もれていて、ひっくり返すには多大な費用が掛かりそうというので今でもカバ舎の後ろに眠っている。その側面の文章は『臨時増刊風俗画報 新撰東京名所図会第二編 上野公園之部下』載っている。今では動物園関係者もだれも知らないと著者はいう。

 九段下の昭和館図書室で輪王寺宮を検索し、出された二冊の能久親王御事蹟の本から、日本海軍が近代の砲戦で最初に沈めたのが清国海軍船でその最大の船のイカリをワザワザ海から引き揚げ、上野公園に展示した記述があった。今でも清国戦艦イカリが日本のどこかに木下 直之さんは残っているという。
 靖国神社の遊就館の展示物が時系列の予備知識なく見ていたので、当時の日本人がいかに連戦連勝に浮かれ、清国民を蔑視していたことが見える。それまでは日本人は中国を尊敬していたように見える。明治の文化人は漢文素養が必要だった。これは今でも続いていて大学入試でも国語の試験で漢文が一問は出て来る。
 輪王寺宮(北白川能久親王)は福神漬の文献の根拠でずいぶん脱線した調査だが何か戦争に関係ある漬物と思う。


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