富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストの復活」ヨハネによる福音書20章1-18節

2024-03-28 19:06:57 | キリスト教

 ↑ レンブラント・ファン・トレイン1606-1669オランダの画家             「ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)」1638年の作品 61 x 49,5 cm            所蔵:バッキンガム宮王室コレクション ロンドン

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

復活節第1主日(復活日) 2024年3月31日(日)午後2時~2時50分

                        礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  325(キリスト・イエスは、ハレルヤ)

交読詩篇     30(主よ、あなたをあがめます)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書20章1-18節(新p.209)

説 教      「キリストの復活」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   333(主の復活、ハレルヤ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

           次週礼拝 4月7日(日)午後3時~3時50分

           聖 書 ヨハネによる福音書20章19~31節

           説教題   「復活顕現(1)」

           讃美歌(21)335 329 27 交読詩篇 118:13-25 

  本日の聖書 ヨハネによる福音書20章1~18節

 1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

  11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 20:13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 本日の説教

 過越祭の準備の日(金曜日)、ピラトは十字架につけるためにイエスをユダヤ人たちに引き渡しました。イエスを引き取ったユダヤ人たちは、ローマの兵卒たちに処刑の作業をさせました(19:16-18)。

 主イエスはゴルゴタ(「されこうべの場所」の意味)で十字架につけられました。そこはエルサレムの都に近い場所でした。イエスの十字架のそばに、イエスの母マリアと母の姉妹と、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアが立っていました(19:25)。

 この後、主の母マリアはヨハネの家に引き取られます。午後3時頃、イエスは息を引き取られました。

 「マグダラのマリア」は、イエスに「七つの悪霊を追い出していただいた婦人」です(ルカ8:2)。彼女はガリラヤ湖西岸の町マグダラ出身の女性です。「七つの悪霊」とは神経系の病気と思われます。当時の人々は目に見えない悪霊が存在して、それが人の精神を乱したり、種々の病気を起こすと信じていました。彼女はひどい心霊的苦悩からイエスによって救い出された女性です。マリアは病気をいやしていただいたことに感謝し、イエスを慕い愛しました。イエスに付き従って行動を共にしたことは自然なことです。

   イエスが十字架につけられた日(金曜日)の日没から、ユダヤでは安息日に入ります。過越祭の特別な安息日です。この安息日になる前に、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身の「身分の高い議員」(マルコ15:43)ヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ローマから派遣されている総督ピラトに勇気を出して願い出て許されました。ヨセフはゴルゴタに行って遺体を取り降ろしました。そこへ、かつてある夜、イエスに会ったことのある「ファリサイ派に属する議員」(3:1-15)であるニコデモが、没薬と沈香を混ぜた物を持って来たので、二人はイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布に包みました。

   イエスが十字架につけられた所には園があり、そこにはだれも葬られたことのない新しい岩を掘って作った墓がありました。そこにイエスを納め、墓の入り口には大きな石を転がして入り口をふさぎました。それは日没前に急いでなされた仮埋葬でした。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていました(マルコ15:47)。

   マリアは翌日(土曜日)の夕方、安息日が終わるのを待って、イエスに油を塗りに行くために香料を買っておきました(マルコ16:1)。

(次から、今日の聖書の箇所に入ります。)

      週の初めの日、日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは、「用意しておいた香料を携えて」(ルカ24:1)墓に行きました。他の福音書では、マリアは数人の女性と共に墓に行ったと記していますが、ヨハネ福音書はマグダラのマリアが一人で行ったように記し、マリア一人に焦点を当てています。マリアは墓の入り口から石が取りのけてあるのを見ました。マリアは誰かが墓に入って、イエスの遺体を運び去ったと思ってしまいます。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と伝えました。

 「イエスが愛しておられた弟子」とは、この福音書の著者であり(21:24)、12弟子の一人、ゼベダイ子ヨハネとも考えられるし、あるいは、特定のだれかを指すというよりも、イエスがその愛を注ぎつくされた、地上に残された弟子たちの集団を、イエスが愛した弟子として表現したと考えられています。

 そのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行きました。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着きました。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてありました。しかし、彼は中には入りませんでした。続いて、シモン・ペトロも着きました。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見ました。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所にはなく、離れた所に丸めてありました。遺体を盗むのであれば亜麻布で包んだままで運ぶはずです。丁重に亜麻布が解かれているのは、イエスの身体がこの場所から出て行ったことを示しています。それは、イエスの死体が決して盗まれたのではないということの証しになっています。先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じました。彼は、遺体がないのを見て、イエスが復活されたことを信じます。しかしまだ浅い信仰です。

 それから、この弟子たちは家に帰って行きました。彼らは「不思議に思いながら家に帰って行きました」(ルカ24:12)。

 マリアは二人の弟子が家に帰った後も、墓の外に残って立ち、泣いていました。マリアはその場を立ち去ることも出来ずにいました。彼女は遺体が見つからないことにあきらめきれず、泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。しかしマリアはそれが天使であるとは気付かなったようです。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と言いました。マリアは、大切な主の遺体がどこかに移されて、見失ってしまった悲しみを訴えます。マリアがいかにイエスを慕い愛していたか、その深い心情が、この言葉に込められています。

 こう言いながら、人の気配を感じたのか、マリアは後ろを振り向くと、人の立っておられるのが見えました。しかし、それがイエスだとは分かりませんでした。イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と言われました。マリアは、園丁(墓園の管理人)だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言いました。マリアとしてはせめてもイエスの遺体にもう一度丁寧に油を塗って、正式に埋葬したいと願っていたのでしょう。イエスが、「マリア(ヘブライ語で<ミリアム>)」と言われると、彼女は振り向いて、自分の名を呼んだ方に、ヘブライ語で、「ラボニ」と呼びます。マリアは師であるイエスを呼ぶときにいつも用いていた呼び名です。このとき思わずその呼び名が口をついて出たのです。ラボニとは「(わたしの)先生」という意味です。これはマリアの素直な喜びの表現です。

  復活のキリストを目の当たりにしながらそれと気付かなかったマリアも、自分の名を呼ばれて、初めて霊の目が開かれたのです。

 嬉しさのあまり、マリアは思わずイエスにすがりつこうとしました。そのマリアに、イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。「まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われました。復活したイエスは生前のイエスが現れたのではありません。イエスは地上の体ではなく、天の父なる神のもとへ上る霊の体となっています。マリアは、生前のイエスに対するのと同じ思いでイエスにすがりつこうとしたのです。しかし、イエスのこの拒否の言葉を聞き、マリアは死の支配に打ち勝たれた復活の主を見ました。イエスはマリアに、「わたしの兄弟たちのところへ行って、『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」言いなさいと、伝言を託しました。

 キリストが弟子たちをさして<わたしの兄弟たち>と言い、神はわたしの父であって、またあなたがたの父でもあると言われました。イエスはこれから父のみもとに上られることによって、イエスと弟子たちとは、地上のイエスと弟子たちとの関係以上に、深く結びつくことを告げたのです。

 マグダラのマリアは、イエスを失って失望の底にいた弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げました。そして、主から言われたことを伝えました。マグダラのマリアは復活されたイエスの最初の証人とされました。女性の証言する能力を認めなかった当時としてはおどろくべきことでした。

 復活したイエスと出会う前、マリアが見ていた墓は死者の世界、死の支配する領域でした。マリアはそこにイエスの死体を探し求めていました。愛し、慕っていたイエスとの結びつきは、イエスの死によって引き裂かれ、自分自身も生ける屍のような状況にありました。せめてイエスの死体を手厚く葬りたいと思っていました。もし、そのご遺体も見い出せなかったら彼女はどんなにか傷心したことでしょう。

   1995年1月17日に発生した震度7の阪神・淡路大震災では死者は6343人、行方不明者は3人です。

 2011年3月11日に発生した最大震度7の東日本大震災は津波による被害と福島第一原子力発電所の事故による災害も加わり、死者数15900人、行方不明者は2520人にもなりました。

 そして、今年2024年1月1日の能登半島地震では、火災による被害も多く、死者数244人です。2011年3月11日に発生した最大震度7の東日本大震災は津波による被害と福島第一原子力発電所の事故による災害も加わり、死者数1万5900人・行方不明者は2千520人にもなりました。

 2012年1月17日に発生した震度7の阪神・淡路大震災では死者は6千343人、行方不明者は3人です。

 そして、今年2024年1月1日の能登半島地震では、火災による被害も多く、死者数244人です。安否不明者は3人です。ご遺族の方々の心境が偲ばれ、心が痛みます。主よ、ご遺族の方々に慰め、亡くなった方々を天国にお迎えくださいと祈るほかありません。

  マグダラのマリアは復活したイエスと出会うことによって、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ、死と滅びの世界から生命の支配へと変えられました。

  イエス・キリストは復活しました。父なる神によって、復活させられました。主イエスは死に勝たれました。主は、わたしたちに復活の命に生きる希望を与えてくださいます。永遠の命に生かされている保証として、聖霊を与えてくださいます。この神の恵みにあずかっていることに感謝し、多くの人がこの救いの恵みにあずかるように祈りましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「十字架への道」ヨハネによ... | トップ | 「復活顕現(1)」ヨハネによる... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事