前回の続きです。
今回は八幡山城の堀として開削された
八幡堀です。
江戸時代は琵琶湖と
繋がる堀でした。
江戸時代の絵図です。(上が北)
豊臣政権下の天正13年(1585年)、
四国征伐で軍功を挙げた豊臣秀次は
43万石を与えられ、近江国八幡山に
城を築き、城下町を開町します。
その際、琵琶湖畔を埋め立て、八幡
山周囲に八幡堀を開削します。
本能寺の変直後に焼失した、5Km
東の安土城の城下から商人や職人を
呼び寄せ、碁盤上に区切った城下町
に居住区を設けました。堀まで造り
安土城の上を目指したのでしょう。
堀の北側を武士、南側を町人の居住
区域とし、さらに、町人の居住区の
西を商人、北東を職人の居住区とし
ました。
Google地図です。
秀次は京都に行くとき、
大手道を降りて八幡堀で
船に乗って琵琶湖に出て、
京都に行きました。
Googleストリートビューより
下図①付近の太陽光発電パネル付近
が船着場跡と考えられます。
秀吉から秀次は自害に追い込まれ、
城下町は商家町として存続して、
近江商人により繁栄します。近江
商人は八幡堀の地の利を活かして、
地場産物(畳表、蚊帳、瓦、米、)
などを陸路や水路を利用して各地
へ搬出し、各地の産物を持ち帰り、
再び各地へ売りに行く「諸国産物
回し」と呼ばれる商法によって、
各地の産業振興にも貢献します。
また、近江商人の商売哲学「三方
よし(買い手よし、売り手よし、
世間よし)」は、他国での商売を
通じて生まれました。
八幡堀(全長4750m)は交通路
や生活の場として長らくその役目
を果たしてきましたが、生活形態
が変わりだした昭和30年代になる
と、陸上交通が主流となり、八幡
堀は市民にとって、忘れ去られた
存在となり、川ざらえも無くなり、
下水を流したりして、蚊やハエの
発生源や、市民による不法投棄の
場所になり、ヘドロも溜まりまし
た。臭い匂いの公害源となります。
昭和40年になると、八幡堀に堆積
したヘドロは1.8mにもなります。
白雲橋③付近の1955年頃は(下が北)
堀の内側は武家屋敷でした。
③から④方向の現在の八幡堀です。
昭和30年(1955)頃は
1955年頃の八幡堀です。
(近江八幡観光物産協会より)
③から反対側は
現在の白雲橋の西側です
1955年頃の西側です。
地元自治会は衛生的観点から
署名を添え駐車場や公園等へ
の改修要望を市に陳情します。
お城の堀は埋め立てられる運
命にありました。
しかし、昭和47年に近江八幡
青年会議所が「堀は埋めた瞬
間から後悔が始まる」を合い
言葉に、全市民へ浚渫(しゅ
んせつ)と復元を呼びかけま
した。
青年会議所の清掃活動も始ま
ります。市民の共感を得て、
昭和57年(1982)に水緑
都市モデル地区整備事業の
指定地域に選定されました。
平成8年(1996)に水の郷
百選に選定 されました。
(国土庁)
今回はここまでで、次回後編です。
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