5年前の更新を再UPしました。
前回の続きです。
今回は本丸です。
本丸です。
ここにある解説板は
観音寺城は山上が町ともいえる
大きな山城です。
弘治年間は1555年から1558年
までの期間に、石垣が改修され
ました。1568(永禄11)年には
織田家が入城しますが、家臣と
なった支流の佐々木氏に守らせ
ますが、1582年信長が亡くなり、
その時に明智光秀に攻められて、
安土城とともに落城します。
六角氏は戻らず、その後は廃城
になります。
下図⑬の石段です。
下から見ると
石段下の⑮から見ると
石段下の⑮から見たところです。
発掘調査の時に発見された石垣
です。発掘前は土に埋もれてい
ました。これは観音正寺の表参
道の石段に大変よく似ています。
寺の子院も山麓に移されたので
(今も残る教林坊は子院でした)
本丸などの曲輪は、寺の子院跡
を利用した可能性が大です。
寺と同じような時期に出来た気
がします。なので表参道が大手
道であった可能性があります。
石段の大手道の方が、外部の来
訪者に対してもカッコいいです。
なので、観音正寺を城に取り込
む前は、下図の本谷道が大手道
だったと考えます。
現在地にある地図です。
⑭付近に行くと
下図A付近の石垣です。
本丸裏門の石垣です。
観音寺城跡を守る会製作の図です。
A付近の本丸裏門の石垣です。
ここも角が算木積になってい
ない、野面積の石垣です。
発掘調査された時の本丸古写真です。
大量の生活用具が出土したので、ここ
で暮らしていたと考えられます。
裏虎口の外に出た所です。
後を振り返ると
本丸裏虎口外側から本丸内
方向です。この裏門の構造
は食違い虎口となっていま
す。
裏門を出た所には
太夫(殿)井戸があります。
深井戸が掘れないので、本丸
の高さより低い位置なので、
本丸に降った雨が溜まります。
拡大すると
太夫井戸です。
天井石もあり今でもきれいな水
が溜まっています。
A→B→Cと見て回りました。
A付近からB方向です。
昭和44~45年度に行われた、
本丸跡発掘調査からは、茶器・
硯・水差し・皿・壺などが見つ
かりました。礎石のある建物跡
も発見されています。ただ瓦の
出土が無いことから、屋根は檜
皮葺などであったようです。
B付近からC方向です。
C付近です。
土塁の上に石垣があります。
カメラを左に回すと
下図Cから外への道方向です。
石垣が途切れています。
CからDに移動しました。
上図Dから外への道方向です。
DからE方向です。
本丸の中央付近です。
E付近に戻りました。
本丸跡の石碑があります。
E付近からの石段です。
ここには門があったと
考えられます。
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