唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

唯識入門(40)

2020-10-11 12:09:44 | 『成唯識論』に学ぶ

 おはようございます。前回明日にでもとお伝えしましたが、少し先延ばしになってしまいました。
外境は存在しないとどうしていえるのかという問題です。ここは、無始以来の有漏種子が因として現行している異熟識を受け止めることが出来ないことに関わってきます。
 もう少し先になりますと、阿頼耶識の心所が述べられますが、触の心所が大事なキ-ワ-ドになると思います。
根・境・識の三和合に由って認識が生起するわけですが、ここに深く関わってくるのが恒審思量の第七末那識なのです。
根・境・識の何れの一つがなかったなら認識は起こりません。根が境に働きかけなければ識は生まれません。識があっても、根・境が無かったなら認識は起こりません。認識は和合体なのです。
前五識の成り立ちは、例えば眼識は眼根に依り、眼根の対象である眼境(色境のことです)を捉えて眼識が生まれます。ここには分別は働きませんので現量(ありのまま)なのです。
以下、耳識(耳根・声境)・鼻識(鼻根・香境)・舌識(舌根・味境)・身識(身ね・触境)の構造も同じです。
問題は第六意識です。意根と法境の三和合なのですが、意は感情を司る受の心所になります。依としては、因縁依・増上縁依・開導依なのですが、第六意識の所依は、『成唯識論』巻第四に於いて、(選註本P84)「第六意識の倶有所依は唯二種のみ有り。謂く七と八との識なり。」と説明されています。
 つまり、第六意識は第八阿頼耶識と第七末那識を所依としているのです。第六意識は第八阿頼耶識を根本依として意識活動を起こしているのです。そして第七末那識の関与は、これも『楞伽経』の伽他に説かれているのですが、「阿頼耶識を依と為て、故に末那転ずること有り。心と及び意とに依止して余の転識生ずるを得と。」と。
阿頼耶識の倶有所依は第七末那識なのですね。阿頼耶識の三相が説かれているところで、執されるところの蔵識と説明されていましたが、現量としての前五識はですね、意識を所依としてして動いていますから、意識の支配下にあるといえます。ですから、前五識が常に現量であっても、第七末識を通して認識された意識に依って、限りなく自己を思い量る自意識の色づけで持って第八阿頼耶識にインプットされることになります。
 この構造が過去の種子として、現の異熟識として行動しているのが自身の今の姿になりますね。有為有漏の相ですね。ここで何のアクションも無かったなら、未来は開かれませんね。だから、「今」が大切な時間なのです。時間は常に与えられているのですが、その時間を無視して生きているのが私の現実相です。
 横道にづれてしまいましたが、投稿が長いという指摘もいただきましたので、今回はここで終わっておきます。

唯識入門(39)

2020-10-03 09:31:52 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。いい天気ですね。ちょつとお出かけしたいと思います。
しばらく休憩をしていましたが、また再開させてもらいます。前回は因縁変・分別変について考えましたが、少し戻ってですね、阿頼耶識の所縁について考えてみたいと思います。
 その前に、四分義が終わりまして、「故に識の行相は即ち是れ了別なり。了別と云うは即ち是れ識の見分なり。」(『論』第二・(『選註本p42))
 ここが総結の文になります。ここをもって四分の説明はおわります。このように識の行相(働き)は了別(区別)して知ることである。そして区別するのは識の見分である、と。
 そして所縁が説かれてきます。
 認識の主体は常に自分なんですね。自分を離れて認識は成り立たないことを四分義は教えてくれました。
 眼は外に向いていますから、世界は自分を離れて存在すると思っていますが、自分が認識しないと世界の存在はあり得ないのですね。つまり、世界も自分の認識が作り上げたものということになります。
 その作り上げた世界が阿頼耶識の対象になって、自己が問われてきます。対象、つまり所縁の相分です。
 阿頼耶識は何を対象として捉えていくのが問われているわけです。それによって自己形成、自分が作り上げられてきます。これは休む間もありませんから、厳しい問いかけですね。
 そして阿頼耶識が所縁としているのは、結論からいえば、種子・有根身・器界の三つになります。種・根・器として表されます。
 外境としての器界と内境としての種子と有根身に分けられます。この種子と有根身は二に執受として表されます。
 『成唯識論』には、「言う所の処とは、謂く異熟識(いじゅくしき)の共相(ぐうそう)の種(しゅう)を成熟(じょうじゅく)せる力に由るが故に。変じて色等(しきとう)の器世間の相に似(の)る。即ち外に大種(だいしゅ)と及び所造(しょぞう)の色(しき)となり。」(『論』第二・p42)と説明しています。
処というのは、自らの種子を因縁として、阿頼耶識が器世間を変為(へんい)したものである。つまり、阿頼耶識が変化して内に種子と有根身とを、外に器世間を作りだす働きを変為といっているわけで、「阿頼耶識は因縁の力の故に自体生ずる時、内に種と及び有根身とを変為し、外に器を変為し、即ち所変と以て自の所縁と為す」と説かれているのです。
 阿頼耶識の対象として外に器世間を変為している、ここですね、非常に難解です。外に対象としての世間はあるではないか。世間が在って私が存在している、こう考えていますが、仏教はそうではないと否定します。すべての存在しているものは心を離れては存在しない、心が変化したものであると。徹底的にですね、すべては心に離れては存在しないと(一切不離識)と教えています。
 器世間は有情の所依処といわれています。私たちは器を所依処として存在している。その所依処は阿頼耶識が作りだしたもの、阿頼耶識が作りだしたものを所変として自らの所縁としているというわけです。その体は色・声・香・味・触の五塵でになります。
 例えばですね、眼識ですと、眼は視覚作用ですから、色境が対象となります。耳識ですと、声や音という声境が対象となります。
 ここを詳細しますと、第八異熟識は自体生ずる時、親因縁と及び業種子との力との力に依って、内に種子と有根身を、外に器世間を変為し、それらを自の所縁とするということになります。器世間が無いというわけではないのですね。ここがややこしいところで、器世間を縁として自らの中に器世間を写し出し、映し出されたものを見ているということなのです。自分が描いたように器世間が在るわけではないということです。
 ここは少し説明が要りますね。眼識の対象は色境であると述べましたが、それが阿頼耶識とどう関係しているのか。明日にでも投稿します。
 

唯識入門(38)

2020-09-20 11:25:15 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。ご無沙汰しております。ブログを開設して数年経ちますが、ブログは当然読んでいただきたいのです。しかし、ブログは僕の学びのスタイルとして、こうでもしないと学びの姿勢がとりませんので書き込みをしているわけです。ですから読み手の方にとっては、書き込みをしなくても知っておられると思うわけです。煩わせて申し訳ありません。m(__)m
でも今日も考えさせてください。
前回、内因外縁について触れさせていただきました。親鸞聖人は信心正因と示されました。
典拠として、
『正像末和讃』(真聖p504)
「不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり 信心の正因うることは かたきがなかになをかたし」
「信文類」(真聖p223)
「涅槃の真因はただ信心をもってす。」
「信文類」(真聖p228)
「この心はすなわち如来の大悲心なるが故に必ず報土の正定の因と成る。」
『正信偈』(真聖p206)
「往・還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。」etc。
涅槃の真実の因は、涅槃は、意訳として「滅度」、迷いが消え去った彼岸の世界を表しています。天台の止観行や真言の三密行。瞑想や六波羅蜜なども涅槃に至る道なのです。
 今日はちょうど秋彼岸日ですのが、考えてほしいと思います。
親鸞聖人は「正信偈」源空章(真聖p207)において、迷いと目覚めの因を示しておられます。
「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもっえ能入とす、といえり。」と。
この因は大乗仏教では無為法として表され、種子としては無漏種子なのです。涅槃の真因は信心という背景は、私たちの有漏性が問われているのですね。私の持っている種子は有為有漏性で、生滅変化しているのです。縁によって右から左へと転換します。その背景は、第七末那識、限りなく自己に執らわれる心が潜んでいるからです。利己性ですね。恒に自分のことを思い量っている、自分と他を天秤にかけて自の優位性を保とうとしている心が寝ても覚めても働き続けていると唯識は説きます。
真宗の行は聞法ですといわれるのは、法は無為無漏ですから、その法を聞いて、聞く自分は自分の都合で聞いているのですが、聞いて法が身に染みてくることに於いて、我執が破れてくるのですね。破っている働きは無漏種子です。
聞法は有為法ですが、聞いている法は無為法ですから、信心を得るための増上縁となるわけですね。すべては我が計らいであったと頭が下がったところに、第七末那識が破れて、すなわち分別が破れて、すべてはこのこと一つ、信心を得るためのご縁であったと頂けるわけでしょう。阿頼耶識との出会いです。阿頼耶識との出会いが涅槃の真因と成るのですね。
ですから、有漏の出会いをいくら重ねても汚れしか生まれません。信心といっても、その信心の内実は罪福信になります。迷いを重ねるだけですね。年を重ねて老境に至っても、我が強くなるのは、迷いを積み重ねてきた結果に他ならないからです。
涅槃の真因が何故信心なのかを学ぶ姿勢が問われてきます。問うてくるのは無為法で、聞法からしか生まれてきませんね。
聞く私が、聞かれた法に呼び覚まされるのですね。
今日は雑感になりましたが、また難しい『成唯識論』を読んでいきます。またです。
 

唯識入門(37)

2020-08-22 19:49:57 | 『成唯識論』に学ぶ
 
 今晩は。いろいろな繋がりがあって、本当に有難いです。僕は思うのですが、人間は本来純粋なんだとね。しかし、生まれもって自分という、他者より選ばれた存在という意識が働いて、自分がすべてという妄想の中で日暮をしているわけでしょう。
 しかし、本来の純粋性に還ることができると教えているのが仏教なんでしょう。浄土教の純粋性は、曇鸞大師が八番問答で、自利利他の問いを立てられ、人間からは利他は成り立たないと喝破されたことが、他の大乗教と異にする所だと思います。他に利せられることはあってもですね。他を利する力はないんだと。この曇鸞大師の受け止め方は、限りなく人間の傲慢性を破っていく原動力になりますね。
 私たちは、皆さんはどうかしれませんが、僕はですよ、やっぱりどこまでいっても自分が正しい、間違っていないと思って生活をしています。この姿勢が打ち砕かれます。自分の思いが打ち砕かれるのですね、そして本来の人間の姿に戻ることが出来る、ここに人間回復の道がすでに開かれていたことに感謝です。
 さて、本論に戻ります。
 第八阿頼耶識は、心・心所等を変似して所縁とすることがないのであろうか、という問いが出されます。
 所縁は、識体が転じて見・相の二分に似るところの相分ですね。能所の二重構造で語られますが、識体そのものは能変です。ですから、「此の能変は唯し三つのみなり」、開けば八識それぞれが別体なのですが、深層の意識を初能変・第二能変とし、表層の意識(前六識)を第三能変とし、三分科をもって迷いの構造を明らかにしているのです。
 識体が転じられたものは、識体の具体相になるわけです。それが見分に似る相と、相分に似る相とに分かれて所変とされます。見るという主体的側面と、見られるという客体的側面で、紙の裏表という関係です。そして見るという、認識する側面を能縁、見られると云う、認識される側を所縁として認識構造が明らかにされています。
 ここに問題が生じたのです。それがこの問いになるわけです。見・相二分は識体が転じた、識そのものが変化し現われたにすぎないのですが、見・相二分を実体化する心の働きがあるのではないのかという問いなんです。私たちは、こんな心では駄目だ、心も持ちようで変えることができるんだ、また自分を見つめて、自分を反省するということもあるわけです。阿頼耶識が心を対象として、所縁である種子・五根・器界だけではなく、心及び心に付随した心所をも所縁として、認識対象としてもいいのではないかということなんです。
 結論からいえばですね、対象化された心は、対象化する働きの上に成り立ったものなんです。つまり、対象化された心は、心の影ということになります。こんな心では駄目だと思っている心が存在する、その心を識体であり、外に投げ出された心は影像になります。
 略識唯識で次のような言葉がありました。
 内識が転じて外境に似る。我法と分別する熏習力の故に、諸識が生ずる時、我法に変似す。此の我法の相は内識に在ると雖も、分別に由って外境に似て現ず。諸の有情類は無始の時よりこのかた、此れを縁じて執して実我実法と為す。」
 「外境に似て現ず」が能変・所変の関係ですが、それを実体的にとらえ執着するところに我々の解決のつかない迷いがあるわけですね。迷いにも二つの相があってですね、解決のつかない迷いと、解決のつく迷いがあるということなんだと思いますね。
  私たちは無始以来ですね、有漏(迷い)の種子を引き継いでいるわけです。種子生現行・現行熏種子として展転同時因果として変現しているのです。これが因縁変になりますが、迷いは迷いの道理によって迷っていることなんです。これは解決のつく問題なんですね。 しかし、私たちは、分別によって自分に執着をしていますから、執着をした自分を立てますから、立てた自分が迷うわけです。この迷いは自分が問題になっておりませんから、解決のつかない迷いということになると思います。 
 私たちの意識構造はどのように成り立っているのでしょう。たとえば五識は五根が依り所と成りますが、意識は何を依り所として意識されるのでしょうか。
 意識されるのは意識される根拠があるわけです。意根ですが、一切法を根拠とするということです。これは何を意味するのか、私には全くわかりませんでした。こういうことなんだなと教えられたのは、友のメールでした。
 それは、私たちが意識することは、突然起こることではないということです。過去の一切の経験、一切の情報伝達のメカニズムが因となって今在る自分を限定していることなんでしょう。
 私が生きている、今ここにということは、過去の生い立ちそのものが、そのものとして現在しているということなんだと思いますね。
 つまり、過去の経験というか。過去の情報が無意識の領域に蓄えられて、様々な条件を伴って今の私を形成している。その過去の無意識の領域は純粋意識だと教えられています。即ち、私たちは常日頃純粋経験をしているんですね。にもかかわらず純粋経験が染汚されるのでしょう。私の心の深いところでは、私が知りえないことが起こっている。純粋経験は直接、アーラヤといわれている心の深いところにインプットされます。善は善として、悪は悪として一類相続されます。しかし表面に現れる時には、瞬時ですが、ありのままの、分別を加えない状態で私そのものとして現れてくるのです。本当はこの状態が私の本来性として私が願っている世界なのでしょうが、ここに分別心が働くのですね。これが厄介なのですが、この厄介さ、自己執着心が、自己執着心を超えた世界を求める原動力、エネルギーになることを忘れてはならないと思います。
 いうなれば、私たちは、自分が自分を投げ出した影をみて生活をしているのでしょう。影はどこまでいっても本体ではありません。影には働きがないからですね。
 私たちは、無意識の領域にインプットされた情報を依り所をして生活をしていますが、その生活が自己執着心を経由し、色付けされているということなのですね。でも大事なことは、いかに色付けされていても、元は純粋意識かでた染汚性ということなのです。ここに苦悩の発生する要因があります。自分が自分の思いによって、自分が苦悩している現実を生みだしているということですね。苦悩している現実は、自分が自分の思いによって作り出した状況に翻弄されているということなのです。普通は他に転嫁して溜飲を下げようとするわけですが、それは道理に反したことになりますから、永遠に満足するというか、頷きをえることはありません。
 紙一重といわれることは、深層意識から発信されている、このままでいいんだよ、貴方は、貴方、貴方以外の貴方になる必要が合りません、というメッセージを聞き得るかどうかですね。深層意識から発信されてく声を、意識がどのように受け止めるのか、意識の在り方が問われてきます。
 貴方は。今ある状況に安んずることができますか?私はどう答えるのでしょうか。
 外界は衆縁です。内因外縁という言葉が響きます。様々な縁によって私が試されているんですね。幸せを求めながら幸せになれない自分のどこに原因があるのか、と。
 友のメールは
 「小学校からの友人が大学生やフリーターでしたので、社会人だった僕よりは時間が自由でした。この時期は特によく遊びました。20過ぎの頃です。社会人、フリーター、大学生、置かれている環境、選んだ道は違えど今まで共有してきたものがありました。しかし環境が違ってくれば考え方も変化します。当時は気がつかなかったのですが、僕の立場からは、時間があり、羨ましいと思っていました。友人からすれば僕はどのように見えていたのでしょうか?当時は僕は完全に自分自身を見失っていたのでしょう。嫌な職業に就いていたから全てが嫌になっていました。嫌な職業なら辞めておけば良かったと、今でも思っています。まあ年齢的には簡単な事ではないでしょうが。もしかするともう嫌な職業という感情すら無くなってしまったのかもしれません。フリーターの友人にもフリーターをしなければならない理由もあり、大学生の友人にも行きたかった大学に行けなかったのですから。希望通りにいっていなかったのに他人は楽をしている。と思っていました。今でもそうですが。妬み僻みは生きている以上無くならないでしょう。 僕が今話した事は誰にでもあると思います。若い時は仲が良かったが、次第に疎遠になる。何故なのか? 同じ場所、同じ時間を共有することが無くなってきたから。と言うのもあると思われます。しかし一番考えられるのは自分自身という存在を時が経つにつれ意識するからではないかと。自分自身という存在を意識すればするほど他者との分別をする。分別は自分自身を中心において考える。このことにより、他者に対して妬み僻みといった感情が産まれるのではないかと。また自分自身の置かれている環境が影響力を持つと考えられるのではないでしょうか?善悪の判断、今僕の置かれている環境は平和な国です。これが平和でない環境、戦時下であれば敵を殺す事は善となってしまいます。確かに人は自分自身が一番可愛い、守ろうとする。戦時下の話をしましたが、人はいつでも他者を自分自身にとって味方なのか?敵なのか?の分別をしているのではないかと。会社の話になりますが、会社の人間を見ていていつも敵か味方か?の判断ばかりしている人間が多く感じられます。僕の妄想かもしれませんが。全体的な利益を考えず、自分自身の利益ばかりに執着していると感じます。僕はまあ多少の出世は欲しいですが、そこまでして、敵か味方の判断ばかりして働けません。それが出来るのは会社という存在があるからでしょう。会社や組織といったものからいずれは離れなければなりません。離れた時、独りになった時、どうすればよいのか?暗闇で迷子になってしまっては何故生きてきたのだろう?と思ってしまうでしょうね。僕は今が暗闇で死の間際少しでも光を見たいと思います。働かなければ生きていけませんし、全てを捨てて生きる気力なんて到底ありません。これからどのように生きていけばよいのか?自分自身の妬み僻みによって友人を無くした事は反省しなければと。勝手に友人を作り出していたのでしょう。自分自身の都合の良いように。」
 彼の苦悩が伝わってきます。できればですね。責任を転嫁しないで、素直に受けてめてほしいと思います。闇の中で一筋の光を問いとして見出したのですから、その問いは何処から来たのか、そのことを問うことに於いて閉鎖されている心が解放されることだろうと思います。しかし闇は深いですね。共に学び、共に歩みましょう。

唯識入門(36)

2020-08-15 11:02:06 | 『成唯識論』に学ぶ
 
 おはようございます。猛烈な残暑ですね。皆さまお気をつけて行動してください。
 先週のつづきになります。第八識の行相・所縁について考察しているところですが、第八識の識を自体として、行相を見分、相分上に種・根・器を変現しているわけです。ここは純粋経験になります。しかし、純粋経験が何故覆われてしまうのかを解き明かしているのが唯識を学ぶ上での醍醐味ですね。
 『三十頌』第十五頌に「依止根本識・五識随縁現」(根本識に依止す。五識は縁に随って現ず。)と表されていて、第六意識は常に根本識である第八識を依り所とし、五識は意識の影響下に置かれているわけです。しかし五識と第八識の関係は現量(分別を加えないありのまま)なんです。
 私たちの経験することのすべてを第八識はありのまま分別を加えないで認識しているのです。経験は五識に依って純粋なのですが、意識が介在することに於いて染汚されてしまうのです。意識が悪いわけではありません。意識も(第七末那識という自己に執着する心)にコントロールされてしまうのです。ですから、意識は三量(現量・非量・比量)に通じます。
 キーは第七末那識がどこで転依するかなんです。
 第七末那識が関与することに於いて、第八識は阿頼耶識と呼ばれます。阿頼耶識自体は迷っているわけではないのですが、第七末那識に覆われているところに、現存在として苦悩を感じているのですね。僕はね、苦悩は阿頼耶識の叫びだとおもっているのです。そういう意味では苦悩は菩薩道かもしれません。
 略説唯識で次のような言葉がありました。
 「内識が転じて外境に似る。我法と分別する熏習力の故に、諸識が生ずる時、我法に変似す。此の我法の相は内識に在ると雖も、分別に由って外境に似て現ず。諸の有情類は無始の時よりこのかた、此れを縁じて執して実我実法と為す。」
 「外境に似て現ず」が能変・所変の関係ですが、それを実体的にとらえ執着するところに我々の解決のつかない迷いがあるわけです。迷いにも二つの相があってですね、解決のつかない迷いと、解決のつく迷いがあるということなんだと思います。
 対象化された心は、対象化する働きの上に成り立ったものなんです。つまり、対象化された心は、心の影ということになります。こんな心では駄目だと思っている心が存在する、外に投げ出された心は影像になりますね。
 私たちは無始以来ですね、有漏(迷い)の種子を引き継いでいる。種子生現行・現行熏種子として展転同時因果として変現しているのです。これが因縁変になりますが、迷いは迷いの道理によって迷っていることなんです。これは解決のつく問題なんですね。 しかし、私たちは、分別によって自分に執着をしていますから、執着をした自分を立てますから、立てた自分が迷うわけです。この迷いは自分が問題になっておりませんから、解決のつかない迷いということになると思います。
 今しばらくは、第八識の内部の構造を学んでいくことになります。
 阿頼耶識は有漏(迷い)の識ですが、この有漏の識が変化して現れてくる。その現われ方に二種類あって、一つは因縁変であり、一つは分別変である。初めのは、因と縁との勢力に随って変現するもので、阿頼耶識の具体相は任運の義だと教えられているわけです。種子生現行、種子より現行を生じてくることは、因が熟して果となる、異熟ですね。これには力用があって、任運である。意識的な分別ではなく、自然に因縁の力に由って識が変化することなんです。このような識の対象となったものには実際的は働き(実用)があるのです。
 「有漏の識の変に略して二種有り。一つには因と縁の勢力に随って変ず。」(『論』第二・三十二右)
 『述記』は、「因縁生というは、謂く先業と及び名言の実種とに由る。即ち要ず力有るなり。唯任運なる心なり。作意するに由って其の心乃ち生ずるには非ず。」 と釈され、作意(思考・分別)をまじえなることなく、阿頼耶識が自然に対象の世界を変えていく、種子が現行を生む、過去の一切の経験が種子として熏習されているわけですが、私が生れてから現在に至るまでと言う時間経過をいうのではなく、不可知ですからわかりませんが、始めなき永遠の過去からの遺伝子情報が今、現行しているわけです。このような現行の在り方はごく自然であり、自ずから力と働きが有るわけです。これが一人一人の人格を形成しているわけですから、一人一人の唯識なんです。一人一人の阿頼耶識なんですね。三類境でいうところの性境です。これが因縁変になります。
 「ニに分別の勢力に随って故に変ず。」(『論』第二・三十二右)
 分別には私が入りますね。意識的な分別の力に由って変化することです。分別によって変化されたものには力用(実際の働き)がありません。考えられたものはすべて影像なんです。影には実際の働きはありませんが、それと同じですね。詳しくは、独頭の意識の心心所の相分、第七末那識の心心所の相分、第八阿頼耶識の心所の相分をいいます。
 「作意して生ずる心なり」と『述記』は注釈しています。作意して生ずる心は、籌度(ちゅうたく)する心である。籌ははかいごと、策略という意味ですから、自分の思慮分別によって作り上げられていく自己になります。此の場合は、自分の都合のいいように策略を巡らして対象を自分で変えていくのが分別変になりますが、「籌度することのない心」が因縁変で、本当の心なんですね。
 籌度(ちゅうたく)する心は、「思量し籌度して己が有と為さんと欲す」、自分の思い通りにしたいとする欲求が間違いを起こすことになると教えられています。
 「初めのは必ず用有り。後のは但し境のみと為る。」(『論』第二・三十二右)
 初めのは、因縁変。後のは分別変。分別変は対象となる、対象となるが力をもたない。つまり、考えられたもの、考えられた対象は任運ではなく、妄想ということです。
 随って、阿頼耶識の所縁、対象は外器・種子・五根が因縁となって現行が生ずる、心心所を対象とすることは考えられたものであって、考えられた心には、考えている心が変化したもので、考えている心には力用はありますが、考えられた心には力用は無いということになります。すべては妄念・妄想の世界ということになりますね。一生夢芝居に終わっていいのでしょうか。 またですね。

唯識入門(35)

2020-08-09 16:52:17 | 『成唯識論』に学ぶ
 唯識入門も今回が35回目の投稿になります。論書である『成唯識論』をベースに読ませていただいてますので、幾分難解さもあろうかと思います。原典を鏡として、私たちの日常の生活の在り方を問い、いのちは何を求めているのかを明らかにしたいという思いがあって、今回の行相・所縁において、いのちは何を対象として動いているのかを考えています。
 最初に原典を載せておきます。幾度となく音読していきますと、言葉の響きが伝わってくるように思います。
 「「此識行相所縁云何。謂不可知執受處了。了謂了別。即是行相。識以了別爲行相故處謂處所。即器世間。是諸有情所依處故。執受有二。謂諸種子及有根身。諸種子者謂諸相名分別習氣。有根身者謂諸色根及根依處。此二皆是識所執受。攝爲自體同安危故。執受及處倶是所縁。阿頼耶識因縁力故自體生時。内變爲種及有根身。外變爲器。即以所變爲自所縁。行相仗之而得起故。」(『成唯識論』巻第二・二十五左。大正蔵経31・10a11~a20)(選註P39・10行目~P40・2行目)
 (「この識(しき)の行相(ぎょうそう)と所縁(しょえん)云何(いかん)。謂く不可知(ふかち)の執受(しゅうじゅ)と處(しょ)と了(りょう)となり。了と云うは了別(りょうべつ)。即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。處と云うは謂く處所(しょしょ)。即ち器世間(きせけん)なり。是れ諸の有情(うじょう)の根依處(こんえしょ)なるが故に。執受に二有り。謂く諸の種子(しゅうじ)と及び有根身(うこんじん)となり。諸の種子とは、謂く諸の相(そう)と名(みょう)と分別(ふんべつ)の習気(じっけ)なり。有根身とは、謂く諸の色根(しきこん)と及び根依處となり。此の二は皆是れ識に執受せられ摂して自体と為して安・危を同ずるが故に。執受と及び處とは倶に是れ所縁なり。阿頼耶識は、因と縁との力の故に自体の生ずる時に、内に種と及び有根身とを変為(へんい)し外に器を変為す。即ち所変を以て自の所縁と為す。行相は之に杖(じょう)して起こることを得るが故に。」)
 和訳
 この第八識の行相(すがた)と所縁(対象)とはどのようなものであるのか。
 それは不可知の執受(種子と有根身)と処と了とである。
 了とは、行相である。認識主体として、対象をみきわめる働きであるから。
 処(場所)とは、器世間(ものの世界)である。すべての生きとし生けるものの、存在の依り所である。
 執受(有機的・生理的に維持されること。或いは維持されるもの。苦楽の感受作用を生じるもの。ものを生じる可能性)とは、これに二つある。
 ①諸々の種子と、②有根身(身体)である。
 ①諸々の種子とは、相(相分・対象)と名(対象のすがた)と分別(思考)との習気(阿頼耶識のなかにある種子の別名。様々な行為の結果として阿頼耶識に熏習されたということから習気という。)である。
 ②有根身とは、諸々の色根(五つの感覚器官・五感。勝義根のこと。)と根依処(五感の依り所。扶塵根。)である。
 この二、つまり種子と有根身とは、第八識に対象として認識され、五感覚の源泉とされ、阿頼耶識に摂められ、識自体とされる。阿頼耶識と一心同体になって、安全な時も危急の時も存亡をともにするのである。
 そして、種子と有根身と及び処とは、第八識の所縁、対象となる。阿頼耶識は、因と縁との力に依って生ずるのであるが、阿頼耶識が変化して内的には種子と有根身とを作り出し、外的には器世間を作り出す働きを持つ。
 すなわち、阿頼耶識が変化したもの(所変)をもって自らの所縁としているのである。阿頼耶識の行相、働きはこれに依って生起するのである。
 私たちの日常の認識では、外界に物が有って、認識を起こすと云う、外界と私という分別をベースとして認識し判断を下しているのですが、唯識は「ちょっと待って、本当にそうですか」と疑問を呈しているのです。それはですね、私達には自証分が不明瞭なんですね。不明瞭である為に、見るもの(能縁)も体であり、見られるもの(所縁)も体であるという実体化が起るのです。唯識は、能縁・所縁は所変であり、能変は自体分であると明らかにしたのです。能変が変異したもの、それが見・相二分である、と。認識作用も、認識される対象も阿頼耶識が変化しとものなのです。
 すべてを受けとめて安危共同(あんぎぐうどう)である。覚受(身体が苦楽などを感ずること。)がないと死に体ということになり、覚受が有ることが、生きているという働きの一面になりますね。 阿頼耶識は、いつでも、いかなる時でも、どんな境遇であっても私と共に生きつづけている。「摂自体」これが自分であると摂して、安危を共同している種子と有根身と阿頼耶識が一体となって、私という、一人の人間が動いていく、どんな時でも一緒やで、というのが阿頼耶識なんですね。
 楽な時、順境の時は問題なく過ごせるわけですが、苦悩という逆境の時は、意識は逃げたい逃げたいと思うわけです。しかし、阿頼耶識はすべてを引き受けているんですね。身はすべてを受け入れているということになりましょうか。為したことは種子として阿頼耶識は受け入れ、受け入れられ種子は現行として身は引き受けている。内に種子と有根身(有情世間)、外に器界(器世間)を変現して阿頼耶識は働いている。大切な教えだと思います。

唯識入門(34)

2020-07-26 10:04:53 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。今日も雨模様です。感染拡大も日に日に多くなっています。生活様式の変化が求められる中で、仏教徒は連綿として世間のありように左右されることなく、生きることの意味を尋ねてまいりました。
 これまでに種子生現行の種子について考え、認識はどのような過程を経て知りえることが出来るのかを見てきました。
 種子は本識(第八阿頼耶識)の三相の中の因相について考究されていますが、四分義の認識の在り方は第二の行相所縁で考究されているところです。(『選註』p39)
 第八阿頼耶識の行相と所縁について考えます。いのちはどのような対象を持ち、どのような動きをしているのかを明らかにしているところです。
 『成唯識論』では問いと答えそして解義が述べられています。
 「この識の行相と所縁は云何ぞ。」「謂く不可知の執受と処と了となり。」と。
  不可知は行相・所縁にかかります。その中で、執受・処は所縁門、了が行相門になります。
 行相とは、識の自体が所対の境を縁ずる能縁(認識するもの)の作用で、心の働きです。見分のことです。
 所縁は認識される対象。例えば、六根の所縁は六境である。対象、何を対象として働いているのかです。相分のことです。
 ここで、
 阿頼耶識は何を対象としているのかが説き明かされます。
 行相 = 見分 ・ 了別
 所縁 = 相分 ・ 器世間(有情の所依処)
      「執受に二有。」諸の種子と有根身(阿頼耶識が認識し続けている対象で、感覚器官を有する身体のことです、)
 初めに行相門が語られます。
 「了とは謂く了別なり、即ち是れ行相なり。識は了別を以て行相と為すが故に。」(『成唯識論』第二・二十五左)
 了別について四分が語られていました。阿頼耶の「了」は、四分説によることにおいて明瞭にされていたのですね。次に、
 所縁門
 「不可知の執受と処と」 - 阿頼耶識の所縁を表わしている。但し、「不可知」は次の「了」という行相門にもかかります。
 無意識の領域は、私たちには解らない。有るのか・無いのか、それが不可知という概念なのです。知ることが出来ない、知り様がないことであるけれども、他の識と同様に了別(ものごとを区別して理解すること)の働きをもって能縁・所縁があることが知りえることが出来るのではないかと。
 了別は行相。「識は了別を以て行相と為す。」了はは識の自体分であってですね、行相とはまた、見分である。識体は自体分ですね。自体分が転じて見・相二分に開かれるのですが、具体的は働きは見・相二分になるのです。
 能縁が了別です。これを行相という言葉で言い表しています。では所縁は何かといいますと、認識対象のことですが、「種・根・器」という。諸の種子と、有根身と器世間、これが所縁である、と。
 第八阿頼耶識は、内に種子と有根身(五色根と根依處)を変じ、外には器世間を変じます。器世間が有情の所依處になるわけですね。
 種子と有根身は「摂為自体同安危故」(摂して自体と為す。安と危とを同ずるが故に)と言われていますように、執受が有ります。「執受に二有り。謂く諸の種子と及び有根身なり」。器世間には執受はありません、外のものですから執受はなく、處といわれています。
 種子と有根身は、第八識の見分がこれを境と為すと共に、自己自身として執受しています。厳密には「阿頼耶識は種子を執持(種子を保持する働き)し、有根身を執受(維持されるもの)する」と説かれています。これが第八識の相分になります。あらゆる経験の価値観を色付けすることなく、ありのままを受け入れ、身体を維持し保持しているのが阿頼耶識なのです。
 それともう一つ、外側には器世間ですね。外界の一切、「是諸有情所依處故」(是れ諸の有情の所依處なるが故に)。これは所縁であり、識の相分であるということですね。
 大事なところは、識所変を以て、自の所縁と為すということになります。


唯識入門(33)

2020-07-12 10:25:58 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。先週で簡単ではありますが、認識の在り方について四分義を考察いたしました。
 今回より、第八識阿頼耶識(心王)は、どのような心所(心所有法)と相応するのかを考えてみたいと思います。選註本の『成唯識論』ではP45から始まります。ここで巻第三にに入り、心所相応五遍行が説明されています。
 「此の識は幾ばくの心所と相応するや」と問いをたて、「常に触・作意・受・想・思と相応す。」と答えています。
 阿頼耶識は、始めなきいのちの始発から今日に至るまで、迷いの境涯は恒にこの五遍行と相応していると説かれています。
 『成唯識論』巻第三・本科段より、巻第三にはいります。『述記』では、第三末・初右。大正43・328a16~より説かれています。
 初めに科段が示され、全体的な釈文の傾向が明らかにされています。
 「此の識は幾ばくかの心所と相応する。」(『論』第三初右)  
 「此れは初に問うなり」(『述記』第三末・初右)と。
 語句の説明ですが、
 心所とは、正しくは心所有法(しんじょうほう・心が所有している法)。心の中心体である心王(八種類)に付属して働く細かい心作用のことなのです。『倶舎論』では、大地法・大善地法・大煩悩地法・大不善地法・小煩悩地法の五種類に分離されていますが、唯識は、さらに細かく、六位五十一の心所を挙げています。即ち、遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六種に分類しています。
 初能変の識を、第八識
 第二能変の識を、第七末那識
 第三能変の識を、前六識
 これらの八識が心王です。この八つの識の具体相が心所になるわけです。心王はある意味抽象的です。理論的に捉えて、第八識は五遍行と相応す、というのは他の心所とは相応しないということが具体相なんですね。心が動いていく具体相が善であり、煩悩であり、随煩悩であるわけで、その心所に五十一数えられています。
 この心所は三能変に付属して存在しますが、どの識がどの心所と相応して働くのかは異なります。第八識の場合は、五遍行と相応するわけですが、ただし捨受のみである。(五遍行と相応して働くのですが、対象をそのまま受け止める、苦もなく、楽もなく、憂いもなく、喜びもない、あるがままをあるがままに受けとめているのが第八識の特徴です。)私たちの心の深層は純粋であると明らかにしているのです。純粋であるが故に傷つき傷つけることが起こってくるのですね。純粋は染められることはあっても、自らを染めることはありません。
 では他に依って染められるのかというと、そうではないのですね。自らが染められてきた歴史がですね、染汚の歴史が種子(有漏種子)となって、純粋である阿頼耶識を染汚してくるわけです。
 阿頼耶識の所縁(相分)は種子(有漏種子)と身体(根を有する身)と世界(大地)ですが、阿頼耶識は無分別に取捨選択することなく平等に受け入れているのです。それが現実の行動として表面化してくる時に我のフィルターを潜って自他の断絶を起こしてくるのです。
 唯識を学ぶのはこの一点に尽きるのですが、我の深さが見えてきませんので縷々説明がされているわけです。
 阿頼耶識は、
 「常に触(そく)・作意(さい)・受(じゅ)・想(そう)・思(し)と相応す。」(『論』第三・初右)と。この五つを遍行(へんぎょう)といいます。
 遍行とは、触(そく)・作意(さい)・受(じゅ)・想(そう)・思(し)の五つです。第八阿頼耶識が動くときには、必ずこの五つと倶に動いている。
 また、遍行とは、どのような認識にも働く基本的なもので五つあります。
 簡単に説明しますと、
 触とは-心を認識対象に触れしめる心作用で、「三和(根・境・識)して変異を分別(ぶんべつ)するぞ。心心所を境に触れしむるを以て性と為し、受・想・思の所依たるを業と為す」心所である。
 作意とは-心を始動せしめて対象に向けしめる心作用で、「能く心を警するを以て性と為し、所縁の境の於(うえ)に心を引くを以て業と為す」心所である。
 受とは-感受作用、「順と違と倶非との境の相を領納(りょうのう)するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す」心所である。
 想とは-対象が何であるかと知る知覚する心作用で、「境のうえに像を取るを以て性と為し、種々の名言(みょうごん)を施設するを以て業と為す」心所である
 思とは-認識対象に具体的に働きかける意思決定の心作用で、「心を造作せしむるを以て性と為し、善品等のうえに心を役するを以て業と為す」心所である、と説明されています。
 (註)
 心王 ― 八識
 心所 ― 五十一の心所をいう。遍行(5)・別境(5)・善(11)・煩悩(6)・随煩悩(20)・不定(4)
 心心所相応 ― 各識に相応する心所 /前五識…34 ・第六識…51 ・第七末那識…18 ・第八阿頼耶識…5  
 また説明します。

唯識入門(32)

2020-07-05 11:08:30 | 『成唯識論』に学ぶ
 おはようございます。九州地方は大雨で大変な状況になっています。心配です。局地的豪雨は多大な災害をもたらしますし、防ぎようがありませんから当事者の方々のご心労はいかばかりかとお察しいたします。
 コロナ禍もじわりじわりと第二派に向かっているようで三蜜は避けなければいけませんね。
 四分についての説明です。
 私たちの認識活動は、「識体転じて二分に似(の)るなり。」と、自分の心が転変して、見るものと、見られるものとに似て現れる。見られるものという相分は、自分の心の表れである、見分も相分も自分の心の表れであって、「倶に自証に依って起こる」と云われているのですね。自証分を依り所として見分・相分が成り立っているという。
 識が縁ずる(対象とする)のは、識の中に表された対象を縁ずる、内識のみであって、無境ということ、唯識とは、唯量という意味を持ち、識が外境に似る、その構造が二分であって、唯二という。そして意識は、意識があって、様々なものを縁ずるのではない、一々の意識が二分をもっている、それで種々という。「唯量・唯二・種々」という意義を総合して唯識という。
 体が自証分で、用(ゆう・働き)が見分・相分の二分で三分が成り立つのです。
 難陀の二分説は「内識転じて外境に似る」、内識である見分が転じて外境の相分に似て現ずるという。
 三分は、見・相二分の根底に自証分を見てくるのです。自証とは自覚、自分の心に映じたものを自分が見ているという自覚自証ですね。見分も相分も自証分もすべて自分の心であると見ていくのですね。 
 「似る」ということについて、
 『論』に「変と云うは、謂く識体転じて二分に似る」と説明していますが、識体とは依他起性(えたきしょう・縁に依っておこってくるもの)であって、実体として有るものではなく、有に似ているのもとして存在している。心そのものが転変して、見分と相分という二つの働きに分かれると説かれています。ですから、見分・相分も実体として有るものではないということです。
 遍計所執(へんげしょしゅう)の二分の見・相に似て変化したものにすぎないということになりますね。
 「分別心に由って相の境生ずるが故に、境いい分別して心方に生ずることを得るには非ず。故に唯きょうに非ず。但だ唯識と言う。」
 分別心によって相境(そうきょう・対象)が生じるのであって、境の相が分別心を生ずるのではない、と解釈しています。
 つまり、対象物が存在して分別心が起こってくるのではなく、自分の心の中の分別心が相境を生み出しているというのです。私たちの認識とは全く逆をいっていますが、私たちの認識の顛倒が迷いを生起させてくるのであると教えています。
 鎌倉時代の法相宗の学僧である良遍は、
 「先一切ノ諸法ハ皆我心ニ不離。・・・・・心外ニ有リト思ハ迷乱也。此迷乱ニ依ル故ニ、無始ヨリ以来、生死ニ輪廻スル身トナレリ。」(『二巻鈔』。大正71-109a) と述べています。深い見識です。
 護法は三分共に依他起としています。即ち能変の識体だけが依他起ではなく、所変の見・相二分もまた依他起として有という立場になります。
 しかし、安慧は自体分のみが依他起であって、見・相の二分は遍計所執であるとています。遍計所執とは、心の外に実体として有ると執着されたものですから、本来的には無いものです。無いものを有ると執着したものですから、見・相の二分は本来的には存在しないもの、依他起ではない、依他起の自体分が遍計の二分に似る、有るのは自体分のみであるということで、安慧の主張は一分説といわれるのです。
 所変という意味は、識が変化して現れ出たもの、了別するのが識の働きですから、「識の所縁は唯識の所現なり」と云われるのです。そして、識は何を介在として現れるのかという問題があります。それは「マナス」という染汚性なる自己中心性なのです。自分にとって何が得で、何が損となるのかを瞬時に判断して行動を起こすのです。自分という実体が未来永劫壊れることなく存在すると思っている執着が恒に働いていると教えています。
 護法は自証分という、何かを見たという認識を自分が知っていることを、また自分は知っているいう証自証分を立てます。自覚が無限に続くという、肝胆相照らすという言葉がありますが、自証分と証自証分は互いに照らすのです。
 四分説の教えていることは、私たちの認識が如何に虚妄分別で成り立っているのかなのです。誰のことでもありません、私の心の在り方が指摘されています。
 すべては私の心が作り出したもの。私は私の心の影を見て日々の暮らしをしていることになります。あなたをご縁として、私は日々私と対面しているのです。
 ここで一応四分説の概略を終わらせていただきます。
 また来週です。

唯識入門(31)

2020-06-28 12:16:18 | 『成唯識論』に学ぶ

 今日は。中一週あきましたが、前回のつづきを述べてみたいと思います。
「了」(りょう)についての説明です。了とは、了別、つまり物事、対象を区別する働きを持つものという意味です。それは認識主体である見分(けんぶん)になります。見分は常に認識対象である相分(そうぶん)と一緒に働いています。私たちが誤解をするのが、相分と共にですから、相分(認識対象)が存在すると錯覚を起こすのですね。これが二分説になるのですが、二分説では認識の在り方が十分に説明がつかないわけです。
 そこでですね、陳那論師が二分は自体から生ずると見抜かれました。自体分から認識するもの、認識されるものが転じているのだと。このような構造ですと、認識の在り方は、自体分、つまり自分から生まれているんだと、自己責任に於いて認識判断を行っているのが私であるということになります。これが三分説になります。
 『論』の説明ですと、
 「了」についての所論は、「了」とは、異熟識(ただいま現在の私)が、自分の所縁(対象)に於て、了別の用(働き)をもつことであって、四分の中では、見分に摂められる、と説かれているわけです。
 そして、「然も有漏の識の自体生ずる時に、皆所縁・能縁に似る相現ず。」(有漏の認識作用は、自体が生ずる時に、皆な必ず所縁・能縁と云う対立した相を現わす。)
 この「自体生じる時」という自体は、自体分(自証分)といいますが、これが私たちが認識するときの軸になるわけです。自体を中心に、外の境が実在すると思う対象の相を「相分」と名づけられ、そして実に外に認識する対象が実在すると思う働き、能縁の側面を「見分」と名づけられているのですね。自体を軸として、相分・見分が、外境は実在すると認識するのです。これが迷いの根本構造になります。二分の相は体に対して云われるわけです。体もまた実体化されているわけです。その体の上に現れる二分の相とは、私たちの外境は存在すると妄執している相なのですね。妄執している相が相分・見分として現行しているのです。これが三分説になるわけですが、二分説は、識の体は、能縁の見分が自体であり、相分が相であるわけです。二分説は、難陀の説になりますが、見分を相とはみないわけで、体であると。対象化しない、実体ではなく、作用であるとみているわけです。私たちに認識の底には、このように、二分に見ていくという構造があって、ものを知るということが成立しているのです。これを、
 「識に離れた所縁の境有りと執する者、彼説く、外境は是れ所縁なり。」
 私とは無関係に外の世界は存在する、私の主観を抜いて外境は有ると執着する見方です。しかし実際は主観の相違によってものの見方が違ってくるのですね。私の見ている世界と、他の人が見ている世界は違うのです、千差万別です。ですから、「識に離れた所縁の境有りと執する」ということは間違いだといえるわけです。
 これに対してですね、相分は所縁であり、見分は行相である、と見ていく有り方ですね。「識に離れたる所縁の境無しと達せる者」は、「相と見との所依の自体をば事と名づく、即ち自証分なり」と。
 自証分は自覚作用であるということです。見分・相分は自内証であって、外的関係ではないと明らかにしているわけです。そうしますとね、私たちの認識はどのように成り立っているのでしょうか。私が見ているという認識はありますが、それは外に実在としての環境世界が有るという関係に於いて認識が成り立っています。外境を所縁とし、相分を行相・見分を事とみている有り方なんです。このものの見方が間違っていると指摘しているのが三分説になるのです。 
 所縁(対象)は相分・行相(作用)は見分という見方は、相分という心の影像、主観によって捉えらえたものを見ていることになります。自分が心の中に捉えた映像を、自分が認識して知るという構造です。これが識の本質になるわけです。この本質を自体分といいます。この自体分が無かったなら、見・相二分は外界の存在になり、外界は実在と見るという錯誤を生じるわけです。自体によって二分が成り立つのですね。自分が自分を知っている、他人は騙せても自分は騙せない、騙したことを自分は知っている、自分は自分から逃れる術はないというのが自体になるわけですね。道理です。自証をもって自体とする、これが道理である。見・相二分の所依が自体である。二分では判然としなかった識の構造が、体は識、用は二分ということで諸法唯識が成り立つのです。
 三分は、陳那菩薩が経に依って道理を立てたいわれています。「然も心と心所とは、一々生ずる時に、理を以て推徴するに三の分有り。」といいますが、何故三分を立てるのか、という問いが出されます。「所量と能量と量果と別なるが故に、相と見とは必ず所依の体有るが故に。」と答えられています。量とは認識することで、所量・能量・量果で一つの認識が成り立つといわれています。認識されるものを所量、これは相分に当たるわけです。そして認識するものを能量、これは見分にあたり、認識の結果を確認する心の働きを量果といい、自証分にあたるのですね。果によって、能・所が完成する、量果によって、能量所量が完成するのです。認識は量果によって成り立つのです。量果が無ければ、能量所量は成り立たないのですね。そして量果が因となって、能量所量が働くのです。これを『述記』には、「相分と見分と自体との三種は、即ち所能量と量果と別なり。・・・・・若し自証分無くんば、総見の二分は所依の事無きが故に、即ち別体を成じて心外に境有るべし。今所依有りと言うが故に、心に離れて境無く、即ち一体なり。」と。「・・・・・」に喩が出されています。「尺丈を以て物(反物)を量る時、物(反物)を所量と為し、尺(ものさし)とは能量と為し、数を解するの智は名づけて量果と為すが如し。」と、反物と尺があるだけでは量ることはできないのです、そこに量る人がなければならないのです、量る人があって初めて能量・所量が意味を持ちます。量る人、即ち自体があって、見・相二分が成り立つのです。
 これは教証として、『集量論』の伽他の中に説かれているのですね。「境に似たる相は所量なり。能く相を取ると自証とは、即ち能量と及び果となり。此の三は体別なること無しと云う。」と。「今此の三種は体是れ一識なり。識に離れざるが故に、之を説いて唯と為す。功能各別なり。故に説いて三と言う。」と『述記』の中で慈恩大師は説明されています。
 またにします。