東アジア歴史文化研究会

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秀吉は国民の道義心再生で天下統一を成し遂げた 道義心の再生によって、欲得と弱肉強食の戦国時代から平和な国家統一に成功した。(国際派日本人養成講座)

2024-05-09 | 日本の歴史

■1.秀吉の「日本全国の統一」は「未曾有の盛事」

徳富蘇峰の『近世日本国民史』全百巻は、秀吉の天下統一に3巻、朝鮮征伐に3巻、そしてそれらを総括して、桃山時代概観に1巻と、合計7巻も充(あ)てています。そして、桃山時代の最大の特色は「日本全国の統一」であった、と述べています。

私は日本史上、いまだ桃山時代のように、徹底した日本全国統一の時代を、その以前に見たことがない。すなわち国史上、未曾有の盛事と言っても、言い過ぎではあるまい。[徳富、現代語訳伊勢]

確かに、奈良平安時代には東北がまだ国家の版図には入っていませんでした。頼朝の鎌倉幕府は一応全国をカバーしましたが、貴族や寺社には統治が及んでいませんでした。足利幕府に至っては、南北朝の分裂を抱え、その後、戦国大名が割拠する乱世に突入してしまいました。戦国の世を終わらせ、東北を含めた全国統一国家の再建をしたのが、信長とその後を継いだ秀吉の偉業です。

しかし、歴史教科書を見ると、そういう評価はまったくありません。東京書籍版では、「織田信長・豊臣秀吉による統一事業」という2ページの節を設けていますが、以下のように坦々と経過を述べているだけです。

信長の家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は,信長の後継者争いに勝利し、大阪城を築いて本拠地にしました。天皇から関白に任命された秀吉は、全国に停戦を命じ、1587年、その命に従わない九州の島津氏を降伏させました。次いで1590年に関東の北条氏をほろぼすと、東北の大名たちも秀吉に従い、全国統一が完成しました。[東書、p109]

「全国統一」という史実を、単に事件の経過を追って説明しているだけで、それが日本の歴史上、どのような意味を持つのか、まったく記載がありません。

これでは桃山時代だけを専門とする歴史研究者の筆致であり、日本の国の歩みを雄渾に描く蘇峰のような歴史家の文章ではありません。こういう文章からは歴史知識ばかり詰め込まれた物知りは育っても、国の歩みを我が事として愛着を持って引き受けようとする国民は育ちません。

今回は、秀吉の全国統一の意義をしっかり見ていきましょう。そこから、我々にとって国家とは何であるか、という国家観も見えてきます。

■2.「戦争をやめよ。これは天皇の意向だから従わない者は成敗する」

秀吉の全国統一には、単なる武力での全国征服以上の見識がありました。天正13(1585)年、関白となっていた秀吉は、島津義久らの九州諸大名に停戦命令を発しました。

そこではまず何よりも天皇の命令であることを前面に出して、「関東から奥州の果てまで天皇の命令に従い静謐(せいひつ、平和)なのに、九州で今も戦争が続いているのはよろしくない。国郡の境目の相論は、秀吉が双方の言い分を聞いて裁定する。まず双方とも戦争をやめよ。これは天皇の意向だから従わない者は成敗する」と述べている。[池上、p151]

成蹊大学・池上裕子教授は、これは単に武力で隣国を討つか、屈服させるか、だけの戦国大名の戦い方とは、根本的に異なる原理を持ち出した、と指摘しています。

ところが今や、武力を発動することなしに、九州全域について領土の裁定権は自分にあるから従えといい出した。これが関白になったことの意義であり、信長とは決定的に異なる論理を編み出したのである。その根拠は日本六十余州の支配権をもつ天皇から、秀吉が関白として土地と人民に対する実際の支配(進止)を委任されているという考え方を打ち出したことにある。[池上、p151]

薩摩の島津義久は「島津家は頼朝以来の名門である」として、秀吉のような由緒不確かな人間には従わず、かえって自力で九州のほとんどを占領しました。典型的な戦国武将の手口です。そこで、秀吉は後陽成天皇の勅命を受けて、天正15(1587)年3月に2万5千余の大軍を出し、島津の軍を打ち破りました。「官軍」の勝利です。

島津がいくら「頼朝以来の名門」と権威を振りかざしても、天皇の権威には敵(かな)うはずもありません。そして秀吉がどれほど「由緒不確かな人間」であろうと、関白という地位を得た以上、天皇の権威を背景にできます。「官軍」対「賊軍」という正統性において位負けしています。

島津義久は剃髪出家して秀吉を訪れて謝罪し、秀吉は一命を捨てて降伏したので、赦免するとして、「薩摩一国をあてがう。今後は叡慮(天皇のおもんばかり)を守って忠功を励むように」と伝えました。これにて、島津の「叡慮に従わなかった罪」は許され、また薩摩の所領は安堵されたのです。

■3.秀吉が持ち出した平和の基盤としての道義心

ここで考えなければならないのは、武力で九州全体を支配しようとする島津の戦国時代的行動と、天皇の勅命を受けて「官軍」として出動した秀吉の行動の違いです。

島津には、領土欲を満たすために武力を発揮しただけです。秀吉には武力に加えて、天皇の勅命という「錦の御旗」があります。民の安寧を祈る天皇の大御心に沿うことが正しい、というのが、我が国の道義のあり方です。「錦の御旗」とは道義の象徴なのです。

人間には他者を思う心が本能としてあります。道義心とはその現れです。島津軍の将兵で、殿様の領土欲を満たすために近隣に攻め込むことは、彼らの道義心を傷つけたでしょう。逆に秀吉軍の将兵は、天皇の民を祈る大御心を実現するための戦いだと、大いに道義心を刺激されたに違いありません。

また、戦いには直接加わらない農民、町民、商人たちにも、その道義心から秀吉の軍を応援する声が多かったと思われます。

戦国大名どうしの争いは、島津のように欲得と武力だけの戦いが多かったと考えられますが、秀吉が持ち出した論理は、天皇の民安かれの大御心を実現するために戦う、という形で、将兵や民衆の道義心に訴えることでした。

そして、その後、島津が反省すると、旧領の薩摩を安堵し、「今後は叡慮(天皇のおもんばかり)を守って忠功を励むように」と裁定したのです。これによって、島津が薩摩の民を安寧に治めることが道義に適(かな)ったことになるのです。

天皇の民を思われる大御心を道義の源泉として、その実現のために戦う、という秀吉の論理は、戦国の世を終わらせ、平和な時代を築く基盤となりました。そして、それは神武天皇の「大御宝を鎮むべし(大切な民が安らかに生きていけるようにしよう)」という我が国の建国以来の理想を継承した国家観でした。

■4.検地と刀狩りは地域社会の平和に不可欠

大名どうしの争いはこの論理で防止できますが、戦国の世では、村落どうしの戦いもありました。当時は農民と武士の区別が曖昧で、領主の戦いに農民が徴集されたり、また村どうしの境界をめぐって武器をもって戦ったりしていました。こういう戦国の気風をいかに治めて、地域社会に平和をもたらすか。

そのための手段として秀吉がとったのが、太閤検地と刀狩りでした。東書でも、1ページほどを使って、「太閤検地と刀狩」の項を説明してますが、これも何をしたか、を述べているだけで、実はこの2項が地域に平和をもたらすための手段であったことを述べていません。

そのかわりに太閤検地で年貢の量が決められたとか、刀狩りで一揆を防いだ、というようにあたかも農民支配の手段に過ぎなかったかのように描かれています。こういう記述に、執筆者の階級闘争史観による偏見が現れています。

検地と刀狩りが平和な社会を築くために必要不可欠の基盤であることは、たとえば、アメリカの西部劇を考えてみれば、中学生でもすぐに分かります。当時は白人とインディアンの土地争いは武力で決着を図るしかありませんでした。そうした戦いを避けるためには、国家が土地の調査を行って、どこの土地は誰の所有で、その権利と義務はしかじかである、と決めなければなりません。

同時に、白人もインディアンも銃を振り回していたら、強い者が暴力で弱い者を従わせる弱肉強食の社会から脱却できません。そういう社会に平和と公正をもたらすには、国家が国民から銃を取り上げ、政府の警官だけが銃をもって法を破ったものを逮捕する、という仕組みが必要です。

100年以上も続いた戦国の世には、農民たちも武装して、土地争いをしたり、戦国大名のもとで兵として戦ったりしていました。こういう世の中で平和的に統一を回復するには、検地と刀狩りは不可欠だったのです。この二つの政策を万難を排して実行したところに、秀吉の深い見識が窺えます。

■5.大名を移し替え可能な「鉢植え」とした太閤検地

まず太閤検地ですが、九州大学大学院・中野均教授は著書『太閤検地 秀吉が目指した国のかたち』でこう述べています。

律令国家期の班田収授法以来、明治政府の地租改正や第二次世界大戦後の農地改革など歴史の転換点には必ず土地制度の変革がともなう。[中野、p3]

土地は人々の財産の主要なものであり、その権利や義務を伴う土地制度の改革として、太閤検地は班田収授法、地租改正、農地改革と並んで、長い日本の歴史の中で4つの大変革の一つであった、と位置づけています。

それまでの戦国大名たちも自分の領地で検地を行うことがありましたが、秀吉は「六十余州(全国)を一律に」を掲げて、ものさしを全国で共通化し、検地を行っていきました。天正10(1582)年に光秀を倒して天下の実権を握ってから、慶長3(1598)年に死去するまでの16年間、勢力を広げた地域に次々と検地の指令を出し、全国くまなく新しい土地制度を広げていきました。

こうした検地の結果、土地の生産力を米の出来高であらわす石高制が可能になり、それにより、たとえば功績のあった大名を、近畿の5万石の領地から、九州の10万石の領地に「栄転」させる、という事が出来るようになりました。

これにより戦国時代に地域に根を張っていた大名を他国に移し替える事ができる、すなわち「鉢植え」的な存在にできました。それは律令国家時代に、朝廷から派遣されて、土佐の守などという役職についた行政官と同様の役割を大名に与えることでした。大名の地域とのつながりは薄れ、天皇と関白に任命される存在となったのです。これで、ますます大名どうしの争いは難しくなります。

■6.村々から争いの種を減らして、平和な共同体に

太閤検地と刀狩りは、地域社会も大きく変えました。それまでは武士と農民の区別も曖昧で、多くの民は平時は耕作を行い、戦さとなると武器を持って、戦場で戦っていました。領主と領民が地縁で結ばれた共同体をなし、時にはそうした村どうしで境界争いをしたりしていました。

太閤検地では村々の境界も明確にされ、また何重にも複雑に積み重なっていた土地の所有権を整理して、実際に土地を耕している耕作者だけにしか権利を認めないという「一地一作人」の原則を徹底しました。

地域で農民と大名の間で年貢を中抜きしていた武士たちは、都市に集められ、大名の部下として軍事や行政を担当して租税の分け前をいただく、という形になりました。地域に根を下ろして、直接年貢をとっていた在郷の武士から、大名のスタッフとしてサラリーマン化していったのです。

戦乱の世で村を支配していた武士たちがいなくなり、また刀狩りもされて、村々は非武装の自治体となっていきました。年貢なども村として責任を持って納める「村請(むらうけ)制」が機能し始めました。村々は、村人たちが互いに支え合う自治的な共同体になっていきました。

それにより、村での争いの種も大きく減り、人々の道義心に沿った、平和な地域社会がある程度、実現していったのです。江戸時代に完成した高度な農村自治は、太閤検地と刀狩りから始められたものでした。

■7.世の人々の道義心を甦らせて成功した天下統一

秀吉の天下統一の成功要因は、国家レベルでは民安かれの祈りを行う天皇を道義心の源泉とし、自分が為政者のトップとなってその祈りを実現するという政体を実現したことです。それは日本国が長い歴史を通じて、積み上げてきた「権威と権力の垂直分担」の叡知を再建することでした。

それにより、政治の主柱として道義心がもたらされ、足利幕府以来広まってきた欲得と武力が支配する乱世から、より多くの国民の道義心を満足しうる世になったのです。

また、村々を支配していた在郷武士たちを去らせ、農民からも武器を取り上げることで、村々を平和な共同体とし、そこでは人々の道義心に適った自治を相当程度、実現しました。

戦乱の世は、欲得と武力が世にのさばり、憎悪と復讐が燃えさかる世の中でした。そこでは人々の道義心が踏みにじられ、それがまた欲得と武力をのさばらせるという悪循環を呼びます。

神武天皇は「大御宝を鎮むべし」と言われた後に、先祖の神々が「正義を育成された御心を弘(ひろ)めてゆこう」と述べられ、それが八紘一宇、すなわち「天下を覆って我が家とする」ことに繋がると宣言されているます。

民を大切な宝とする、ということは、単に物質的に必要最低限の生活を保障する、という生活保護だけではありません。民の一人ひとりが道義心をもって、互いに助け合う世の中を作ろうということです。こういう伝統的な深い国家観を秀吉が持っていたからこそ、徳富蘇峰の言う「国史上、未曾有の盛事」が実現できたのでしょう。

(文責 伊勢雅臣)


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