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人はなぜ生きるのか。
これに関しては古今東西問わず人類そのものが持つ最大の命題かと思われる。
このテーマから逃げず向き合い,、説き、書き記し、弟子ができたり熱狂的なファンができたものが宗教となっていったり、哲学になっていったりしている。
困ったことに、このテーマから逃げたところで相変わらず人は生まれ、生きるものだ。
超金持ちの家に五体満足の美貌で生まれ生涯一切の難なしという者もあれば、生まれた時から最低限すら持たされていない者もいる。
ただ全員に共通していることは、生まれたが最後、全員死に向かって生きるという部分であるが、この人類の生態たるや、客観的に言えば恐ろしく非効率な営みとも言える。
オギャーと生まれてメシ食って寝てを繰り返して死ぬのだ、全員。
2022年の統計によると地球人口は80億人らしいが、よくまあこれをひたすら繰り返すだけの存在が80億人もいるものだ。
ワイを含めてな。
まず、最低限言っておかねばならないことがある。
それは、生きる意味とは、あるとも言えるしないとも言えるということだ。
どちらが正解ということはない。
どちらも正解とも言える。
これに関しては一番抽象度の高い部分での説明になるので、私の持論や事実などは一切踏まえないで話すが、そもそもが「意味」という概念の存在が議論の対象になる。
この辺はドイツの哲学者ヴィトゲンシュタインなんかをちょっと齧っていただけるといいかもしれないが、早い話が「意味」という概念を作り出したのも価値を見出そうとしているのも重要視しているのも、結局は人間であるということである。
ああ、じゃあ仮にそれが人間ではないとして、なんかしらの地球外生命体とかアセンテッドマスターとか神的な存在が「意味」という概念を人類に持ち込んだのだとしても実はあまり関係がなく、いずれにせよ「意味」の概念がないとこの世の全ては立ち上がってこない。
世界創造の前に「意味」の概念があるわけがないので、つまりこの言葉は絶対に後続なわけだが、つまりそれっていずれかの瞬間に何者かによって作られたものであり、要するに絶対的な存在ではないのだ。
逆を言えば、その何者かが存在しなければ、今この世界に「意味」の概念はなかったかもしれないわけだ。
しかし、その概念がこの世界になかったら人は生まれないのかと言われたらおそらく無関係に生まれたであろう。
「言語」と「生物」というカテゴリで言えば全くの別ジャンルの話だからだ。
わかりにくいかもしれないが、この理由により、生きる意味はあるのも正解、ないのも正解である。
もうこの時点でわかることがある。
生きる意味なんかねえよ、ヒャッハー!!と北斗の拳の世紀末に生息するモヒカン野郎っぽく生きても全然OKなんだぜという話である。
だってそれもまた事実であり真実だからだ。
ヒャッハー!!
つまり、根源的な観点で言ってしまうと、自堕落に生きようが偉人目指して生きようがよいのだ。
悩みだらけでもいいし、全力で楽しんでもよい。
とは言え、ほぼ百パーで人は悩みたくないものだ。
だって苦しいんだもん。
苦しいのはイヤなのだ。
だからせめて意味を求めて生きるのだ。
というわけで「生きる意味はある」の方にだけフォーカスして話すとすればだ。
まずほぼ百パーに近い人は、苦しいことはイヤだと言うだろう。
当たり前に聞こえるだろうが、ココを無視してはならない。
生命と本能は直結しており、イヤという感情や反応は本能に繋がるものだからだ。
つまり、苦は生命を維持させにくい要素があるということだ。
であるならば、生命を維持していくにあたり、苦の排除や減少はあらゆる意味で意図していかないと存在の否定になるわけだね。
この辺の向き合いは仏教が語っていたりするが今日は宗教の話じゃないんで流すけどもだね。
生命の本質を脅かす「苦」の対極はと言われたら、そりゃ「楽」になる。
ラクと読んでもいいし楽しいと読んでもいいし楽しみと読んでもよいが、概念的に方向性はまあ一緒だね。
「快楽」の「楽」として捉えてもいい。
人はそれぞれの性格や価値観に関わらず、本能的動物的な感覚から「生きたい」とする存在なので、その維持にとって「楽」はとても大切な要素ということになる。
「苦」の反対側だからね。
それぞれの思い、性格や価値観に関わらず、もう生まれて命がある時点で「楽」の感覚や感情が誰にとってもある種の必須栄養素に近い存在になるわけだ。
なぜ必須栄養素とまで比喩して話すのか。
ちょっと考えたらわかる。
日常に「楽」がある時、人は特に生命や人生について手放したいとか厄介だとかほとんど考えない。
日常にそれが一切ない時に「なんでこんな思いして生きてるんだ?」などと考える。
「楽」がないと精神的に、肉体的に苦しいのだ。
これは食べ物に入っている栄養とよく似ているだろう。
例えばビタミンやタンパク質などが完全にゼロの食事しかしなかったら体がダメになるというのは容易にイメージできるかと思うが、つまり、あったら大丈夫、なかったら死の危険を感じるという点で同じなわけだ。
大抵の人はここまであまり考えたことがないと思うのだが、無意識にこれを知っているのだ。
「楽」が欠如・欠落すると生命維持が難しくなることを。
Aの存在のためにBが必要である、みたいな言説がある時、BがなかったらAは存在できないとも言えるわけだが。
これを生命と楽に置き換えると。
生命のために楽が必要である、つまり、楽がないと生命は存在できない、という言い方にできてしまう。
いやいや、理性的に考えてみてくれよ、楽が一切ない日常だろうが結局苦しい苦しい言うて生きてるじゃんと。
わかるわかる。
そうなんだけど、少なくとも「楽」が一切ない状態の時、生命のための積極的・能動的な活動は難しくなるよね。
消極的・受動的活動になりがちだよね。
もしくは破壊的にすらなるよね。
このベクトルの方向が重要であってね。
生きるという活動や現象を積極的かつ能動的にさせる話としてね。
まあここをはしょって言えば、つまり。
「楽」と生命は同列と言っても過言ではなかったりする。
なんのために生きるのか、生きる意味とはなんなのか、という問いなわけだが、実は、生きること自体が「楽」のために存在するというようなニュアンスだ。
もしくは「楽」という概念や感覚、反応が先にあって、そのために生命が必要である、みたいな感じだ。
なんとなくでいいのだがふんわりでも感じていただければ。
「楽」のために我々は生まれたのだ。
英単語にすると「JOY」が近いだろう。
「楽」のために生きる、そう定義してもよいのである。
「楽」をひたすらに求めてみて欲しい。
生命が「楽」を欲するとも言えるし「楽」が生命を欲するとも言えるし、両者はこの意味で一対と言えるのだろう。
水を求めるように、空気を深く吸うように、「楽」を渇望するのだ。
あなたは「楽」のために生きている。
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