大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

コリントへの信徒への手紙Ⅰ第16章5~24節

2024-05-07 18:33:27 | コリントの信徒への手紙Ⅰ

2024年5月5日大阪東教会主日礼拝説教「主よ、来てください」吉浦玲子

<信仰と生活>

 コリントの信徒への手紙Ⅰも最後の部分となりました。この手紙だけでなく、多くの書簡の最後には、こまごまとした挨拶や、いろいろな予定などが書かれています。今日の聖書箇所でもこれからのパウロの旅の計画などが語られ、また弟子であるテモテをよろしく、とかアポロはそちらに行かないということも書かれています。なんだか諸連絡のようでもあり、少し人間臭い内容のようにも思います。書簡ですから、そういうことは書かれて当然でしょうが、聖書に正典として残っているものにこういう箇所があるのを読むと少し不思議な感じもします。

 しかしこれは、当時の教会が実際に生きている人間が集まり、現実の世界の中に息づいていることを示します。そしてそれはパウロの時代のみならず私たちの信仰が、人と人との交わりや、さまざまな現実的な状況から乖離したものではないことも示しています。信仰は教理や理論、心の持ち方の問題だけではなく、生きていくことすべてに関わることです。というより信仰者は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事によってすでに新しい命に生かされている者です。生きることも死ぬこともすべてイエス・キリストとつながれ、キリストの命の中にあって、この現実の世界を生きます。その現実の日々の中で、食事をしたり、働いたり、遊びに行ったり、そして家族や職場や友人、地域とのつながりがあったり、ある時は孤独を感じつつ、生きていきます。教会もまたそうです。教会は礼拝共同体であり、その礼拝は前奏、招きの言葉から始まり、中心となる神の言葉、感謝、と祝祷後奏で終わります。しかし、そののちに「報告」の時間があります。「報告」は、本来は礼拝の中で行うものです。ただ事務的なこまごました連絡事項があったり、個人的なことに関する案内やお知らせもありますので、いったん礼拝が式としては終わった後にしています。しかし、教会員の逝去といった事項は礼拝の式の中で「報告」としてお知らせします。礼拝の式の中で行う報告にしろ、礼拝の後奏のあとの事務連絡的な報告にしろ、礼拝は広い意味において報告まで含めて礼拝なのです。報告は教会がこの世にあって、活動をしていること、また教会がそこに集う一人一人がそれぞれに人生を抱えて生きていることと切り離された存在ではないことを示します。神学的な話と、礼拝の後に「今日は皆で掃除をしましょう」ということはまったく切り離されたことではないのです。

 パウロの書簡においても、神学的なことを伝えている部分や教会生活・信仰生活のあり方を伝えている部分と、今日の聖書箇所の「マケドニア経由でそちらにいきます」というような話はなだらかにつながっています。

<神によって開かれる門>

 しかしまた、連絡事項のような挨拶のような今日の聖書箇所も重要な内容がちりばめられています。まず教師についての事柄です。パウロはマケドニア経由でそちらへ行きます、と語ります。五旬祭、つまりペンテコステですが、ペンテコステまではエフェソに滞在して、コリントにはついでに行くのではなくじっくりと滞在したいと書かれています。「わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」とパウロは語っています。パウロは自分の考えで伝道旅行をしているのではなく、主の導きによって旅をしていました。使徒言行録を読みますと、その計画はしばしば変更されたことがわかります。滞在した町で騒動が起こり出ていかざるをなかったこともあれば、はっきりと理由は示されていませんが、行こうと思っていたところに行けないこともあったようです。そのすべてが神の御心に沿ったものだとパウロは考えているのです。その働きにはたしかに「大きな門」は開かれていました。パウロは神に召されて伝道者として用いられていたのです。自分の希望で伝道者になったわけではありません。神が門を開いてくださり、その門のむこうに押し出してくださったのです。皆さんの人生もそうです。神が門を開いてくださる、その門は場合によっては自分の望んだ方向への門ではないかもしれません。でも神と共に生きる者は神によって門を開かれ道を示され歩んでいきます。その道も反対者がいたり、困難なこともあり、思ったようには進めないかもしれません。しかし門を開いてくださった神は、同時に、たしかな輝かしいゴールまであなたを運んでくださる神でもあります。パウロもまた皆さん方も、神に導かれてこの地上を旅する者です。

<神の召しを受けた者を尊重する>

 そしてまた同時にここで大事なことは、パウロがコリントに行ったり、アポロは行かない、また年若いテモテが行く、そういったことも、すべて神の導きによることだということです。昨年、大阪東教会は東京神学大学から夏期伝道実習の神学生をお迎えしました。彼女は単にインターンシップや教育実習に来られたわけではなく、神の召しにこたえ、神に仕える者として来られました。単に年若い実習生として歓迎するのではなく、そこに神の働きを私たちは十分に見ることができたでしょうか。また別の観点で言えば教会への牧師の招聘の問題においても、神の召しということが第一に考えられねばなりません。その教師をまことに神から遣わされた者として受け入れることができるかどうか、というところに教会の信仰の成熟が求められます。

 パウロは若いテモテに関して「彼は主の仕事をしているのです。だれも彼をないがしろにしてはならない」と語っています。これは年長のパウロが、弟子であり後輩であるテモテのために大事にしてやってね、と人間的配慮をいているわけではありません。主の仕事をする者を教会はないがしろにしてはならないと言っているのです。テモテであれ、パウロであれ、今日の牧師であれ、完全な人間はいません。しかしテモテであれパウロであれ今日の牧師であれ「主の仕事」をしている、ということの重みを教会はしっかりわきまえるべきであるとパウロは語っているのです。そのスキルの髙さや人徳以前に、神に召されて、神から門を開かれ、主の仕事をしている、その重みをわきまえない教会は結果的に祝福を受けないのです。

 ここでアポロはコリントに行かないということもさらっと書かれています。コリントの信徒への手紙の最初の方に、教会の中で、パウロ派、アポロ派、ペトロ派に分かれて争いがあることが書かれていました。ここでパウロがアポロはいかないとわざわざ書いているのは、パウロが「コリントの教会の真の指導者は私であってアポロではない」ということを言っているわけではありません。むしろパウロやアポロといった指導者同士は教会の覇権を争っているわけではないということを強調しているのです。パウロとアポロの間には親しい対話があり、それぞれにその働きに神の門が開かれており、神の導きに従っているのです。アポロ自身、今自分がコリントに行くことはパウロの手紙によって鎮静化している対立を再燃させるかもしれないと判断していたと思われます。しかしそれはアポロの思慮を越えて、行かないということが神の御心としてアポロには示されていたということです。

<大きな教会>

 そしてこの結びの部分で大事なことは、それぞれの教会が単独の教会だけでなく、教会がさらに大きな交わりの中で息づいているということです。前にも、「大きな教会」「全体教会」ということを申し上げました。教会は時代的にも場所的にも単独で立っているのはありません。パウロ、アポロ、テモテが同じ信仰をもって、それぞれに巡回していろいろな教会を伝道しています。そしてまた「アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています」とあるように、場所的にも文化的にも隔たった教会が有機的につながっているのです。私たちの教会は、西部連合長老会へ来年加盟する予定になっています。それもこの大阪東教会が単独で立つものではなく、同じ信仰に立つ教会と有機的につながっていくということです。ここで繰り返し申し上げますが、連合長老会に加盟するのは単に困った時の互助や組織に入っていれば安心だからということではありません。牧師の招聘のためでもありません。ある意味、加盟によって、教会の負担はむしろ増える部分もあるでしょう。たとえば私自身はすでに個人加盟をしており、これまでも何度か無牧の教会の説教応援をさせていただきました。私の不在の時には代わりに応援の先生に来ていただきましたが、その対応に関しては長老を始め皆さんにもご苦労いただいたと思います。さらに、今月、来月と、牧師がご病気の教会へ日曜午後、応援に行くことにもなっています。教会同士が共に支え合い、時に痛みも分かち合いつつ歩んでいくなかで、それぞれの教会も祝福されるのです。

<マラナ・タ>

 そして手紙の最後のところには「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」とあります。パウロの手紙はパウロが語るのを書き留める人がいました。つまり口述筆記された手紙です。しかし最後の挨拶はパウロ自身が書いているというのです。ですから手紙のそこだけは字体が他の箇所と違っていたでしょう。パウロは目が悪かったと言われますから、パウロが書いたところだけ、字が特別大きかったかもしれません。その大きな字でパウロは精一杯の愛を込めて挨拶を書きました。

 しかし、この挨拶の最後のところは少し不穏な言葉が書かれています。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ。」神から見捨てられるがよいという言葉は怖い言葉です。ここは原語で「アナテマ」という言葉で、端的に言って「呪われよ」という意味です。神はすべての人間を愛し、キリストはその救いのために十字架にかかってくださいました。神がそれほどに愛してくださっている人間に対し「呪われよ」なんてパウロは愛のない酷い言葉を言っているように感じられるかもしれません。しかし、呪いということは、旧約聖書から出てくることです。神の祝福と呪いはワンセットで語られているのです。神に従う者には祝福が、逆らう者には呪いが語られていました。

 主イエスは十字架において、人間が受けるべき呪いをその身に受けてくださいました。ですから主イエスの十字架と肉体を持った復活を信じる者は呪いから免れています。ですからパウロが「呪われよ」と書いていても私たちは呪いを恐れる必要はないのです。しかしまた、主イエスを信じる者は当然ながら主イエスを愛する者です。私たちがほんとうに自分が救われたことを聖霊によって知らされ感謝しているならば、私たちは主イエスを愛するのです。愛するゆえに主イエスに従い、先ほど言いましたように、必ずしも自分の思い通りに道が進めなくてもそこに神の御心を見、主イエスが共におられることを感謝します。一方で主イエスを信じると言いながら、自分の思いだけで生きていく、むしろ神を口実にして自分の思いを成し遂げようとするなら、それは主イエスを愛しているとは言えません。たとえば愛する家族を養うためと言いわけをしながら、実際のところは家族をないがしろにして自分の権力欲のために仕事や社内の駆け引きに夢中になっていることと変わりません。神を口実にして、自分の欲望を満たそうとするとき、それは主イエスを知らないこと、信じないことより罪が深いことです。

 そして「マラナ・タ」という言葉があります。これは主イエスがふたたび来られることを待ち望む祈りです。私たちはこの世界が新しくされ完成されること、そして自分自身が新しい永遠の命を生きる体を受けることを待ち望んで生きます。この願いは、私たちが聖霊によってキリストの受肉と復活の神秘を知らされることを土台とした祈りです。処女降誕も肉体の蘇りも理性では理解できないことです。聖霊によって知らされることです。神であるキリストが人間となられ、人間として死なれ、そして蘇られた神だということを知らなければキリストの再臨はまことには希望としてもてないのです。単に死んだら天国で幸せに暮らすということではなく、また、この世界に神の国を人間の力で作り出すというのでもなく、神がすべてを成し遂げてくださることを信じる信仰によって「マラナ・タ」という祈りは祈ることができるのです。私たちは信じています。キリストがふたたび来られることを。「マラナ・タ」と私たちも祈ります。聖霊に導かれて「マラナ・タ」と祈る私たちに、再臨の時までは目には見えませんが、今日も明日も未来も、神は共にいます。

 



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