(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

「テレビでアナウンサーがわたしの噂話をしている」を、「妄想」にすぎないと考えないみなさんは、どのように理解しようとするか(1/10)【統合失調症理解#20】

*短編集『統合失調症と精神医学の差別』の短編NO.63

目次
・「テレビのニュースでアナウンサーがわたしの噂話をしている」
・思い出された実例「授業中に先生がわたしのことを話している」
・自信にもとづく現実修正解釈を別の角度から
・外出先で周囲に監視されていると思い込む
・電車で隣に座っていた人の貧乏ゆすりを自分への暗号だと信じ込む
・周囲のすべてが敵に思える


 先日、あるアプリを覗いていたところ、若いときに統合失調症と診断された、ひとりの女性を紹介する記事に出くわしました。


 その記事には、当該女性がそのころ抱いていた考えや思いが、「統合失調症による妄想」として紹介されていました。

 

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その記事はこちら。

【URL】https://www.oricon.co.jp/special/63296/
【タイトル】22歳で統合失調症患った女性、「関わりたくない」周囲の声…当事者が明かす偏見への想い「皆さんと一緒に生きたい」
【最終アクセス】2023年3月22日21:00

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 その記事を読んでいて、俺、ふとこう思ったわけです。


(精神)医学は、というか、この世のほとんどの人間は、当該女性をはじめとしたひとたちが持つ、ある種の考えや思いを、異常と判定し、「妄想」と呼んできた。そして、それら「妄想」は、脳のなかの何か一つの欠陥、たとえば、セロトニンのような脳内物質の欠乏か何かが生み出した、およそ人間には理解できない支離滅裂な発想であると説明してきた。


 こんなふうに。

かつてクルト・コレは、精神分裂病〔引用者注:当時、統合失調症はそう呼ばれていました〕を「デルフォイの神託」にたとえた。私にとっても、分裂病は人間の知恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎であるような気がする。(略)私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか(木村敏『異常の構造』講談社現代新書、1973年、p.182、ただしゴシック化は引用者による)。

 

 専門家であっても、彼らの体験を共有することは、しばしば困難である。ただ「了解不能」で済ませてしまうこともある。いや、「了解不能であることがこの病気の特質だとされてきたのである。何という悲劇だろう(岡田尊司統合失調症、その新たなる真実』PHP新書、2010年、p.30、ただしゴシック化は引用者による)。


 だけど、みなさん(いまこの文章を読んでいるみなさんのこと)もそれと同意見だろうか。


 みなさんもまた、そうしたひとたちの考えや思いを「妄想」と断じ、理解不可能と決めつけるだろうか。


 いや、むしろ、そのひとたちのことを、自分らとおなじ人間と見るのでないか。


 つまり、そのひとたちのそういった考えや思いを、家族や、友人、同僚、先輩、後輩、部下、上司といった身の回りのひとたちを理解しようとするときとおなじように理解しようとするのでないか。


 自分がこれまでしてきた体験と、自分のもてる限りの想像力とを駆使して。


 今回は、冒頭に挙げた記事で紹介されている女性の、統合失調症による「妄想」と決めつけられてきた、考えや思いを、みなさんがどのようにして理解しようとするか、そのさまを追っていきます。






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*前回の記事(短編NO.62)はこちら。


*このこのシリーズ(全64短編)の記事一覧はこちら。