天皇奏上、争い(ツイッター)のない国へ / 国民民主党の公募 / 飛鳥山公園 / M.ヴェーバー | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立


 天皇奏上、争い(ツイッター)のない国へ

 

 

(王子神社 [御祭神:イザナギノミコト、イザナミノミコト、天照大御神、ハヤタマノオノミコト、コトサカノオノミコト] 7月3日 参拝)

 

 

 天皇を尊(たっと)ぶ日本人同士の争いが絶えない―。
 

 ツイッターは道徳倫理を一切教えられていない日本人を本当の悪魔に変える「木村花さん殺害ツール」である。

 ことに今現在、さまざまな容疑で警察捜査の対象にある立花孝志を筆頭とする政治家女子48党(旧NHK党)信者・アンチ界隈は、他者を配慮した論争ではなく、裁判所の業務を妨害するほどの訴訟を乱発したり、批判する人たちに対して高額な費用のかかる裁判をちらつかせるなどして「道徳のない訴訟社会」を目指している。

 日本一醜いSNS上だけの政女党の内紛では「立花支持か?大津支持か?」の0-100(ゼロ・ヒャク)の人たちしかおらず、この問題に関心のある人で、公平かつ客観的に見れている人たちは、一部のフリーの記者や秋田県在住で法律に詳しく社会正義のある大麻(おおあさ)大師さんとその支持者たちだけと非常に少ない。

 政女党支持者は、この国政政党の内情を誰よりもよく知る私に言わせれば、その極端な狂信性と盲信性から、テレビが報道しない「第2のオウム」の様相を呈してきており、SNS上の日本人の道徳退廃がピークに達していると言わざるを得ない。

 

 北野武さんは「ネットSNSはバカのための拡声器」と言ったが、大半の日本人はITでバカになっているだけだ。電車の中でも学生はスマホのゲームで遊んでいるだけ、ツイッターで個人攻撃やフォロワー集め、いいね集めに夢中になっているだけで、つまり各人に等しく用意されている老子が言う「道」から完全に逸脱させて、引いては生そのものを無効にする一ツールごときに熱中しているだけで、優秀になんかなりようがないのである。

 日本の若者の100%がスマホの中のゲームやSNSにハマっているが、ITの専門職に進む若者など1%もいないだろう。

 ツイッターなどのSNSから流れる情報は、著名な社会活動家のカレ・ラースンが著書で述べているように、「情報のゴミ」であり(政治家女子48党の情報が最たる例だが)、受け手の心をうつ状態にするなどの有害なものである。

 

 ツイッターは「ダメ人間製造機」であり、大谷翔平が一日中ツイッターで他の日本人を攻撃していたら、メジャーリーグのトップクラスはおろか、野球関係の仕事に就くことすらできていないだろう。しかし、いわくそれが大半の日本の40代以下なのである。 

 私は海外向けに音楽活動をしているので、アメリカ人のツイートを見ることも多いが、そもそもツイッターはフェイスブックほどメジャーでは全くないし、もっぱら知り合いへの伝達手段としてだけ使っている。つまりツイッターだけに関して言えば、頭の悪い日本人よりもよっぽど健全な使い方をしていて、全く依存していないのである。

 つまり日本では完全にツイッターが自分よりも主になってしまっていて、あべこべだ。

 日本人は全く個がなくて、匿名で、無礼で、傲慢で、攻撃的でなければいられない性質上、絵文字の感情表現がメインのLINEだけがよく似合うのかもしれない。

 

 ツイッター、SNSは必要な情報を見るだけにしよう。

 

 もちろん、SNSから流れてくる情報がすべてが完全にムダとまでは言えないし、情報を取捨選択するにも、ベースになる直感や精神性、道徳倫理が必要になる。自分の人生の橋渡しになるような他者や契機が見つかる可能性も大いにある。しかし、そうした自分の道を信じる、前向きで建設的な日本人が激減して、カレ・ラースンがよく言うような、他者の道を否定して自分の道も否定する日本人特有のシニシズム(皮肉主義)に陥り、SNSごときに完全に呑(の)まれて廃人、ダメ人間と化した日本人しかツイッター上では見当たらないのが現状だ。

 

 ツイッターは憎しみと誤解と非道徳の源泉であり、ツイッターを使う日本人の大多数が、道徳を知らず、かつ英語を使えないバカであるため、匿名で他の日本人だけを攻撃することが生き甲斐となっている。

 それが何よりも尊重されるべき、日本人たちが謳歌する自由と言えば確かにそうだが、言論の自由と道徳が全く両立していない非生産的で悪意ある民族としか言いようがなく、ただ、ツイッターそのものをなくさなくても、メジャーな音楽SNSであるSoundCloudのように、日本語表示をなくすことをイーロン・マスクには提案したい。

 木村花さんに対するネットの誹謗中傷を受けて、道徳のない日本人のSNS上での思い上がった言論の自由は殺すべきであり、焼き尽くすべきである。


 また、ツイッター上だけで秋篠宮さまに対するバッシングも行われており、皇位継承に一般国民の恣意的な意志が及ぶはずがないので、ましてや発信者のほぼ全てが匿名であり、反日勢力によるSNS工作も疑われる。
 

 天皇陛下は今こそ、皇室や天皇制そのものを攻撃するようなツイッターをむやみに使わないよう勅令を出すべきであるし、出せるようにすべきだ。こんなものは民主主義や自由の範ちゅうでも何でもない。ただの日本にはびこる極左勢力や外国からのサイレント・インベージョン(静かなる侵略)だ。

 

 ツイッター上における紀子さまに対する表面的な人格攻撃も度を過ぎているが、紀子さまは松浦氏の子孫にあたるという。そして松浦一族の総帥と言えば朝堂院大覚先生である。朝堂院先生は、松井一郎氏や橋下徹氏の後見人的存在と言える。

 尚、私自身の一族と○○とのつながりは一切口外できないが、立花氏を経由して森友学園事件を調べる過程で、愛国教育の籠池夫婦を応援していく中で知ることになった朝堂院先生には親近感を覚える。

 なぜなら、メイウェザー選手のRIZINの興行とビジネスで、朝堂院先生の息子のアレックス・松浦氏のビジネスパートナーである大柴哲氏は、故・園田博之元衆議院議員の公設秘書であり、私は明治大学時代に園田博之先生のご長女と一番仲が良かったためだ。

 私の大学4年間は、人として完全に未熟だった私と唯一けれんみなく接してくれた九州の女性である園田さんとの思い出であろう。


 また、天皇陛下が、弟の秋篠宮さまや紀子さまをお嫌いなはずがない。
 そもそも今は天皇や親王が乱立した南北朝時代と違って、男性皇族が極端に少なく、日本にとっては宝のように大切である秋篠宮さまや悠仁さまを攻撃するなど、反日勢力の仕業としか思えない。
 そもそもツイッターは津田大介氏など、天皇に批判的な左翼の著名人が優勢なSNSだ。
 日本だけに護憲を押し付ける外国勢力に酷似する。

 尚、私個人は諸々の事情により、天皇論、皇室論については猪瀬直樹氏や門田隆将氏以上に、言い尽くせないほど言いたいことがある。
 それは皇室とのつながりを軽々に吹聴してしまう、道徳倫理に欠ける竹田恒泰氏以上に、高次なレベルの話だ。
 竹田氏は「明治天皇の玄孫(やしゃご)」という触れ込みだが、当然女系の話であり、しかも女系としても縁遠く、私は竹田氏から「玄孫」という言葉を初めて知ったほどだ。


 無論、旧宮家で男系の子孫でもあるが、旧宮家としては伏見宮貞常親王が生まれた1426年まで遡(さかのぼ)ってしまうため、2023年以降から600年も遡って皇位に就いた前例などあろうはずもなく、最も隔世である継体天皇も、「応神天皇から五世の孫」(古事記)という血縁の近さであり、つまり、ほとんどが源氏や平家の子孫だった戦国大名が皆、余裕で自称天皇を名乗れることになってしまうし、当然、織田信長などの子孫も天皇になれるということになってしまうが、織田信長を始めとする下剋上をしてきた戦国大名ですら、自分が天皇を名乗るという、そんな前代未聞の大暴挙は頭をかすめすらしなかったのである。

 

 つまり、男系男子が完全に途絶えてしまった場合は、男系だけで600年も遡るくらいなら、圧倒的血縁の近さが優先されるべきである。

 あなたがたは「父方のいとこは親戚だが、母方のいとこは親戚ではない」とでも言うつもりなのかと。

 

 また、竹田家には父、竹田恆和(つねかず)氏の人身事故や五輪を巡る贈賄の問題、竹田恒昭氏の大麻所持など、犯罪や不祥事が多く、つまり、天皇家から「はるかに遠く」て道徳倫理がなく、国民から慕われる要素がない竹田氏ではなく、「天皇家に血縁的により近い男性を皇室に戻すべきだ」と考える。
 

 正式に臣籍降下、皇室離脱をせず、かつ血縁的に近い男性を…。

 竹田氏は一般的に見て、人としては優秀で立派だが、大学卒業後の若い私の普遍的な道徳倫理のバイブルとなった「精説倫理社会」をとある人物から○○された私としては、道徳がなくて、何ら非のないフランスを攻撃するような言論をしていた竹田氏を天皇や皇族には戻すことに賛成できない確固たる理由が存在する。

 天皇は小林よしのり氏の言うように、確かに国民から慕われる存在でなければならないかもしれないが、そんなことを言ってしまえば、残忍で知られる武烈天皇がいる。
 しかしその武烈天皇で皇室は507年に事実上断たれたと言ってもいいのかもしれない。
 
 ただ、武烈天皇が崩御して、次の第26代天皇を選ぶために大伴金村(おおともの かなむら)が、近淡海(ちかつおうみ)の国、つまり参政党の神谷宗幣くんの出身地である今の福井県にいたホムダノ[応神]天皇の五世の孫、男大迹王(をほどのおおきみ)を「慈しみ深く孝行篤(あつ)い人格である。皇位を継いで頂こう」として、今の福井県から連れて来て天皇に奉戴(ほうたい)したのである。
 

 そして神谷宗幣くん自身も、地元にある継体天皇の像を崇めているという。
 

 仮に天皇家が断絶しても、「令和の大伴金村」を自負する私が、ここでは言えない様々な力強い熱き事情があって、竹田恒泰氏ら全く徳のない旧宮家を復活させることはあり得ないだろう。

 無論、そうは言っても、女性天皇に反対しているわけでは全くない。
 ただ、秋篠宮さまと悠仁さまがおられるのだから、よこしまな心を持つ国民が恣意的に皇位継承順位を変えることなどあってはならないのだ。
 そんなことは男系が完全に途絶えてから考えることだ。
 
 私は日本国民の大半が知らない、紙幣にもなった神功皇后を敬愛しており、神功皇后は本来、天皇として数えられるべきである。
 奇跡的なスピリチュアリストである江原啓之(ひろゆき)氏が、神功皇后を「最古の霊媒である」としていたのを彼の著書を読んで、後に知り大変驚いた。
「神功皇后は応神天皇の母にあたり、実はスピリチュアルな研究で私が知る日本最古の霊媒です。」

 (江原啓之著「言霊のゆくえ」徳間書店)

 私が小林よしのりに言いたいのは、愛子さまが神功皇后くらいの足跡を残せたら、女性天皇を認めてもいいと思うが、神功皇后は、韓国、北朝鮮の皆様には大変申し訳ないが、豊臣秀吉や西郷隆盛に並ぶような、「完全に政(まつりごと)の人」である。
 

 しかし、今の天皇制とは完全に政治から切り離された存在であり、それでも秋篠宮さまや悠仁さまを差し置いて、あえて不必要に女性天皇を叫ぶなら、それは人権主義的な「反日」の外圧という他ないので、言論によって切り捨てるのみである。
  
 個人攻撃しか目のないネットだ、大マスコミの押し進める新自由主義だ、LGBTなどの人権主義だで、日本から仮に道徳的な人が一人もいなくなって私一人だけになったとしても、依然として「日本は存続する」。
 

 私に日本の神々とのつながりと、明治天皇が重視した道徳倫理がある限り。
 
 話は逸(そ)れたが、ここに「女性天皇論が全く現実的ではないこと」を証明したので、皇位の安定継承のために、もしもの時に備えて、公的に臣籍降下していなくて、血縁的に天皇陛下に非常に近い男性を皇室に入れておくことは、日本国の存続のためにも非常に重要であり、私が国政を担うことができたら、喫緊の課題と考えるが、本当に国のことを思っているのか、宮内庁を説得することは容易ではないだろう。

 

 

(6月5日 日本テレビ「ストレイトニュース」)

 今はただ、日本のエリザベス女王的存在とも言える三笠宮百合子さまが100歳を迎えられたことを一国民として、いろいろと事情がある一個人として、完全に孤立しつつも、屹立(きつりつ)した哲学者、道徳家として、心の底より祝うばかりである。
 しかし、ロスチャイルド家とつながっていると言われていて、緊縮増税や水道民営化など、一回り遅れた新自由主義を日本だけに押し付けて、国民生活を困窮させ続けている麻生家の太郎には本当に悩まされたことと思う。

 太郎氏の妹信子さまは、百合子さまのお子の寬仁(ともひと)親王とは長年別居していて、全く看病もされていなかったと聞く。
 愛妻がそばにおられなかった寬仁(ともひと)親王にとっては寂しいご最後であったことだろう。
 彬子女王、瑶子女王とも、実母である信子さまとは疎遠であると聞く。

 だが、皇位の安定継承のため、三笠宮家だけは絶対に復活させなければならないと。
 

 また、生前の寬仁(ともひと)親王や、今ではツイッターで彬子女王に対する批判も多く、それによって皇族そのものを叩く向きもあるが、その理由は全く言えないが、「皇室の血」というよりもむしろ百合子さまのお父様で、旧河内丹南藩の最後の藩主、高木正善の子である高木正得(たかぎ まさなり)公の血筋であり、気骨だ。 

 尚、百合子さまのお父様である正得公は敗戦後に壮絶な人生を送られ、横溝正史の『悪魔が来りて笛を吹く』の椿元子爵のモデルにもなっている。私は2021年の都議選に立候補して、ポスターを貼るために野生の猿のいる奥多摩を周った時、正得公が自死された奥多摩の山々を仰ぎ見た。そしてまさに高木正得公の生き写しであるのは、私とも○しい…。
 
 今は「最後のフィクサー」というよりも、戦国大名としてその存在感を轟かしている朝堂院大覚先生に共感を覚える。ただ、縁で言えば、完全に吉田茂の「女系男子」の麻生太郎がライバルであるが…。

 ツイッターで叫ぶくらいの人しかいない国、日本。

 ほとんどの現場トラブルに対応できず、児童虐待すら判定できないAIも、ツイッターも完全にクソ食らえだ。

 真の侍として立つことがあれば、立たなければならない時期に来ているのかもしれない。

 

 「大和は 国の真秀(まほ)ろば 

  畳(たた)なづく 青垣

  山籠(ごも)れる

  大和しうるはし」

 

 ヤマトタケル命のこの歌に私は涙を禁じ得ないが、ヤマトタケル命もまた、私と同じく西多摩のような山々を見て、力ありながらも孤独であったのだろう。

 

 そして宮内庁よ、道徳倫理を全否定する大マスコミを中心とする日本国民よ、よく聞け。

 

「すべて天皇の御事業は、過去のことがらを参照して、今の時代を明らかにし、教化道徳の衰えたのを正しく起こし五倫のの絶えたのを復興するという、これ以外になかったのであります。」

(「古事記 序」太 安万侶(おおの やすまろ)の奏上  福永武彦 訳 河出書房新社)

 

 太安万侶が元明天皇に奏上した「古事記 序」。

 

 「天皇奏上、争い(ツイッター)のない国へ」

 

 誰に言っても信じてもらえないような15年前の奇跡的な体験を経て、キリスト教を作った聖パウロと、哲学者スピノザとの共通点が異常に多いことに気付いたこの私が、この国の太安万侶(おおのやすまろ)と渋沢栄一が重視する道徳に心打たれる―。

 

 

 

国民民主党の国会議員の公募に応募

 

 

 身の程知らずながら、6月25日に国民民主党の国会議員の公募に応募した。

 私は玉木雄一郎支持で、YouTubeのたまきチャンネルもよく視聴しており、国民民主党党員でもあるためだ。

 7月3日には、自民党の国会議員の公募にも応募するため、自民党本部を訪れ、初めて建物の中に入ることを許された。しかし、自民党には当然、どの選挙区にも多くの地方議員や前職がいるため、公認されることはなく、半ば以上は論文に深田萌絵さんの名前を出して、LGBT法案に対する抗議のための応募だった。

 

 

(撮影: 高澤 一成)

 

 7月10日には八王子で行われた玉木雄一郎代表の、さとう由美候補予定者の応援街宣を撮影しに行った。

 だが東京24区は、萩生田光一という大物政治家がいるため、前回2021年でも10万票以上の差を付けられて、14万9千対4万4千で、共産党の候補ほどしか得票できず、惨敗している。

 

東京24区(八王子)

当   萩生田光一 58    自由民主党    前    149,152票    
落 佐藤由美    49    国民民主党    新    44,546票    
落 吉川穂香    26    日本共産党    新    44,474票      
落 朝倉玲子    62    社会民主党    新    16,590票      
 

 そして次期衆院選も、玉木代表は野党共闘の一本化を拒んでおり、国民の佐藤由美氏と共産の吉川穂香氏が共に立候補する流れのため、当選する確率はほとんどないだろう。

 無論、萩生田氏には統一教会との問題や、女子トイレ廃止で猛バッシングを受けているので、逆風の選挙にはなるが、それでも八王子は広すぎるため、深田萌絵さんの運動が5月28日の八王子駅前一カ所だけで一日だけ盛り上がっても、選挙の大勢には影響はないだろう。まして3人いる野党系の女性候補が一本化しない限り、話にならない。

 

 一方で、私の住む西多摩の東京25区は、24区に比べればはるかに可能性があり、野党が立憲の島田幸成氏に一本化して現職の井上信治に挑んだ選挙区だった。

  

東京25区(西多摩)

当   井上信治    52    自由民主党    前    131,430票    
落 島田幸成    53    立憲民主党    新    89,991票    
 

 10万票以上の差が付いた東京24区に比べれば、まだ勝機があるが、西多摩は立憲が弱い選挙区であり、自民と立憲の党勢の差がそのまま付けば、次期衆院選も井上氏当選は固いだろう。

 

 私が今回、国民民主党の公募に応募したのには非常に多くの理由があるが、仮にここに国民民主党が労組寄りの候補者を立てても、決して左ではなく都議としても実績のある島田氏とキャラがかぶって、労組寄りの票が割れるだけであり、現職の井上氏に有利になるだけである。

 つまり10万、できれば、11~12万票を取って、西多摩地域を極限まで衰退させてきた、20年続く「緊縮増税・ロスチャイルド家」の麻生派の井上信治の牙城を打ち砕くには、最低でも以下の三つの要素が必要となる。

 第一に、新しく加わった都市部の昭島市から、ネットの影響が強くて麻生太郎に批判的な保守層の票を得ること。

 第二に、道徳倫理の必要性を掲げて、東京の自民党との協力関係を解消した公明党支持層の票を得ること。

 そして第三に、あえて国民民主党から立候補して、立憲支持層からもある程度の票を得ること。

 

 つまり、井上氏に勝つためには保守からだけではなく、公明支持層や立憲支持層からもまんべんなく票を取りに行かなければならないのである。 

 そこで「無名、無所属、支援者なし」で、全く何もしていない福生市と羽村市の都市部で3%を得票し、全戸ポスティングして玉木代表の応援を受けた世田谷の関口太一氏よりも得票率で上回った私が公募に応募したのである。

 また、私は「道徳倫理」を掲げているので、自民からあしげにされて投票先のない西多摩の公明党支持層からも、一定程度は理解が得られるのではないかと考えている。

 

 そして、玉木代表と榛葉幹事長が、共産党との野党共闘を巡って岡田克也と対立しているため、前回共産党と組んで一本化したこの東京25区に、国民民主党が独自に候補者を立てる可能性が高まっている。

 また、国民民主党には未だ東京選挙区に議席が一つもなく(東京ブロックの比例もゼロ)、まして山尾志桜里、大塚耕平、岸本周平といった党の中心が次々と転身していなくなっているため、哲学者、道徳家で「経世済民」の私が出れば、唯一国民でも勝機のある東京25区は喉から手が出るほどほしい選挙区であり、議席のはずだ。

 

 極左自民党政権によるLGBT法案成立で、倒錯した反日左翼の大マスコミと左翼の外圧とが主導する道徳を破壊する悪しき人権主義の嵐が吹き荒れて、自民党の支持率が37%まで下落し、マイナンバーカードで保険証も使えなくなり、酷暑の中の大幅な電気代値上げに、インボイス制度、容赦ないサラリーマン増税で、新自由主義からさらに日本国民の格差が広まって、つまり大部分が貧困化して、倒錯した反日左翼の大マスコミによる道徳破壊で、児童虐待の激増、子どもと女性の自殺増、いじめ、少子化、大企業や公務員による犯罪、不祥事で、日本が日本ではなくなる危機的状況が続いている。

 

 真の政治家など、この国には一人もいない。

 

 

 私はまったき哲学者である以上、国民に迎合する政治は考えていない。

 たとえ日本人と言っても、「自由論」で有名なJ.S.ミルが「道徳的非難や道徳的刑罰を受けるべき」という、全く道徳のない悪しき人たちに与(くみ)する気は毛頭ない。

 

 そして、玉木雄一郎が考える三つの国家の役割「1、国を守ること。2、業を興して民を豊かにすること。3、人を育てること。」に感銘を受け、共感している。

 

 私は人を育てることができるし、逆に言えば、普遍的な道徳を全く教えることのできない日本人では人を育てることはできない

 普遍的な道徳の必要性は3月に亡くなった大川隆法氏でも言っていたようなことだ。

 

 私個人は、エル・カンターレというわけではないが、自分自身の経験から、大川隆法氏や半田晴久(深見東州)氏に非常に共鳴する点が多く、彼らのことを非常に良く理解できるが、そもそも私は宗教家ではなく哲学者であり、また私は、日本人から迫害されてきた意識しかなく、彼らのように知人や理解者が多くいたり、事業を興す才覚があるわけでは全くないため、彼らとも全く違う。

 

 今の日本人たちは、自分たちが教育を受ける必要があるくらい愚かであることすらまるで自覚できておらず、人としての微塵の謙虚さもなく卑劣で傲慢なのだ。

 

 今の日本人たちに対してはただただ深い失意と絶望しかない。

 

 「ただ、この玉木雄一郎を除いては」と。

 

 私は道徳倫理や中道、中庸の必要性を国民民主党に説得している。 

 このままでは日本がなくなってしまうため、民主党系の人たちにも理解いただく他ない。

 だが、今のところは党からの反応はなく、私が国政選挙に出る可能性はまだ不透明だ。

 

 

 

 

20年ぶりに飛鳥山公園と旧渋沢庭園を訪れる

 

 

 

 私ももうすぐ50で、人生も無為にここまで来てしまったので、1999年から2000年の20代の若い頃によく訪れた飛鳥山公園と渋沢栄一庭園を20年以上ぶりに訪れた。

 ―と言っても、西多摩の地方からそう簡単に行けるわけではないので、自民党本部内に入った永田町の帰りに、新しい戸籍謄本を発行するために、永田町駅から地下鉄南北線一本で、大学時代に住んでいた王子に向かい、王子区役所で公募の応募用の戸籍謄本を発行した後、20代によく訪れた思い出深い飛鳥山公園を登った。

 

 ただ7月3日は、35℃くらいの酷暑で、49歳という年もあり、緩(ゆる)くて長い坂道を登って公園に入るまでが非常に過酷で、大変だった。

  

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 もうすぐ一万円の紙幣が渋沢栄一になるが、日本の近代化に大きく貢献した道徳を重視する渋沢栄一のような人材は日本にはもはやなく、対外純資産が418兆円と世界一で、税収が71兆円で過去最高とは言え、日本の政治やマスコミ、言論そのもののがもはや不在であるため、日本の発展はおろか存続すら危ういであろう。

 

 真夏の暑すぎる庭園に、渋沢栄一と若き日の自分に思いを馳せて、物を考えることはできなかったが、資源がなく、技術もなくなって人すらいない日本に一体何ができるのかと。

 

 周知のように渋沢栄一は、銀行や鉄道など社会インフラを整えて、ヒト・モノ・カネを回していくサン=シモン主義の資本主義を実践し、社会福祉にも熱心で「東京養育院」を運営し、また、水戸学と論語をベースに、論語的な「社会秩序の維持」を目指した点は、「資本主義的経済組織は秩序界であり、全ての個々人に対して規範を押しつける」として、社会学者マックス・ヴェーバーが重視した「規範」の概念に一致する。

 

 また大蔵省を退官した後は、官位や爵位に目もくれず、銀行、損保、鉄道、海運、ガス、電力、倉庫業、ホテルといった日本の社会基盤全体を築き上げて、業を興し、大衆を富ませることに向いていた。

 システム全体がうまくいけばいいという大きな考えがあった。

 

 今の日本では完全に死語となった道徳と、経済の合一説を唱え、事実、それが広く社会の利益に供するものとなった。

 そして「金儲けは決して否定されるべきではない。金を扱うことがなぜ卑しいのだ。」という渋沢栄一の有名な言葉も、先ほどの社会学者ヴェーバーの「ベンジャミン・フランクリンの貨幣の獲得における有能さが『道徳』である」とする論考と一致する。

 

 逆に道徳を全否定してSDGsを掲げ、全く価値を生み出せないゾンビ企業は生き残っては行けない。

 部数が伸びなくなってSDGsを声高に叫び、一等地に保有する不動産の安定利益に依存する左翼系の大手紙や民放キー局は大丈夫だろうか? いくら普遍的な真理から目をそむけて、全く勉強せずにSDGsだけをお経のように唱えて道徳を知らない純粋な国民に押し付けても、不動産市況が激変したら一巻の終わりじゃないのか?

 

 全てを失った後で、いくら日本には必要のない左翼であっても、マックス・ヴェーバーが言う「資本主義には道徳倫理が必要だ」という「いろはのい」を学び直したらいいと思う。

 

 

 

 

 マックス・ヴェーバーに見るホリエモンとひろゆきの存在価値について

 

 日本にはビル・ゲイツやイーロン・マスク、スティーブ・ジョブズもなく、WindowsもFacebook(Instagram)もツイッターもなく、つまりGAFAのような企業を生み出すことはできず、いるのはホリエモンとひろゆきというITから身を引いたにも関わらず、鴨頭さんのような「自己啓発」の寵児(ちょうじ)だけだ。

 

 日本で神のように崇拝されている彼らは「IT創業者」というよりも、むしろツイッターやYouTubeといったSNSを利用している「ユーザーさん」に過ぎない。「インフルエンサー」と言えば聞こえはいいだろう。

 日本では大マスコミから持てはやされて(※今はひろゆきのみ)GAFAのCEO並みの発言力を有している。

 

 尚、これからの日本は「Web3.0時代」と言って、そこで日本が主導権を取れるよう政府が模索しているが、ホリエモンとひろゆきは、一見新人類に見えても、実は電子掲示板にホームページ作成というWeb1.0時代の完全に古い世代の人たちだ。

 そしてWeb2.0時代はSNSやブログであり、日本では誹謗中傷のイメージしかないような、日本人同士を対立させる不毛な双方向の時代を経て、それまでの中央集権型ではなく、ブロックチェーンによる分散型(ネットワーク型)のWeb3.0時代と、そのための基幹的な技術であるNFT(Non-Fungible Token、代替できないデジタルデータ)に注目が集まっているという。わかりやすく言えば仮想通貨、暗号資産だが、ガーシーにYouTubeで脅迫をさせていたドバイグループによるBADGE詐欺もあり、日本ではすこぶるイメージが悪い。

 

 そこでWeb1.0時代の2000年代前半に勃興したホリエモンとひろゆきの、全く普遍的ではない自己啓発本にどれだけの価値があるのか?

 思うに彼らの経営哲学や人生論といった個人的な自己啓発は、社会学者マックス・ヴェーバーの言う道徳に近い。

 

 マックス・ヴェーバーはキリスト教のプロテスタンティズムの道徳が、資本主義に合うことを唱えたことで有名だが、プロテスタンティズムの道徳が、ホリエモンとひろゆきという一見して道徳のない、むしろ脱法行為を続けてきた成功者の道徳に近い。

 つまりそれは、儒教道徳を重んじる渋沢栄一のように高尚でもなければ、思い通りにピンハネをするレントシーカーの竹中平蔵のように悪らつでもない。

 

 「貨幣の獲得における有能さが『道徳』」とヴェーバーは言う。

 

「一切の自然な享楽を厳しく斥(しりぞ)けてひたむきに貨幣を獲得しようとする努力は、幸福主義や快楽主義などの観点を全く帯びていず、…貨幣の獲得は―それが合法的に行われるかぎり―近代の経済組織の中では、…有能さの結果であり、こうした有能さこそが…フランクリンの…道徳…となっているのだ。」(マックス・ヴェーバー著 大塚久雄訳 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波書店)

 

 つまりホリエモンとひろゆきは道徳という言葉や概念は決して使わないし、道徳的な人たちではないため使えないし、むしろ嫌いだが、ヴェーバーによれば、「利益追求こそが道徳」なのである。

 

「フランクリンの道徳的訓戒はすべて、正直は信用を生むから有益だ、時間の正確や勤勉・節約もそうだ、だからそれらは善徳だというふうに、功利的な傾向をもっている。」(同著)

 

 功利主義と言ってしまえば簡単だが、ホリエモンもひろゆきも自己啓発本を書くほどだから、細かい制限や細かい決まり事、経営哲学みたいなものがあって、「やたらに友達を作らない」であるとか、「人にお金を貸さない」などは共通しており、これがヴェーバーが研究してきたような道徳に合致しているのである。

 また、彼らは若い頃は脱法行為で非道徳だったが、徐々に道徳的とは言わないまでも、社会規範を重んじるようになったり、遵法的になっていって、人として、経営者として成長して行っているのである。

 そして達観したプロの目による卓越した経営論や人生哲学がこれらの成功者にはあって、自分の部下や目下の人たちに対して徹底している。

 

「職業義務という独自な思想がある。…単なる利潤の追求…に過ぎないにもかかわらず、各人は自分の『職業』活動の内容を義務と意識すべきだと考え、…意識している。…義務の観念がある。こうした思想は、資本主義文化の『社会倫理』に特徴的なもので、…今日の資本主義的経済組織は既成の巨大な秩序界であって、個々人は生まれながらにしてその中に入り込むのだし、…誰であれ市場と関連をもつかぎり、この秩序界は彼の経済行為に対して一定の規範を押しつける。

 …今日の資本主義は、経済的淘汰によって、自分が必要とする経済主体―企業家と労働者―を教育し、作り出していく。」(同著)

 

 プロテスタントは、日本で言えば、カトリックに比べて、宗教の信仰がメインではなく、あくまで道徳程度で、創価学会員に近い。カトリックは日本で言えば、日蓮宗の僧侶だろう。

 しかしヴェーバーは、資本主義が発展して、人を育てていくためには道徳と規範が必要であると言っていて、つまり渋沢栄一と全く同じ考え方であり、それらがすでに完全に否定されて崩壊している日本は、衰退こそすれ、成長、発展は全く見込めない。また「国民の道徳」を出版した西部邁(にしべ すすむ)はネット社会における「規範」の重要性を強調していた。

 

 今の日本の企業や労働者にある道徳とは、宗教倫理ではなく、漠然とした個の弱さ(デュルケムの社会学では重要な要素の一つ)と、村社会と、絶滅しつつある配慮(もっぱら社会的に弱い男性のみ)であり、それらはまだかろうじて残っている。

 

 だが、クソみたいな左翼思想のSDGsとLGBTをいきなり押し付けて、普遍的な道徳を排撃するという完全に倒錯し切った「人権主義」に舵を切る日本の企業の道徳が今後強くなっていく見通しは完全に皆無である。

 

「営利にさいして利己的に振舞う、その絶対的な厚かましさが到(いた)るところに見られるというのが、まさしくその独自な特徴だったのだ。…たとえば…イタリアでは、労働者の『良心的であること』のなさが、資本主義の発達を妨げる主要な要因の一つとなっていたし、…フランクリンの教訓もはっきり教えているように、およそ厚顔な態度に終始する実業家も役に立たない。

 …金銭欲への衝動にかられて一切をなげうった連中は…近代独自の資本主義『精神』…の源泉となった心情の持ち主ではなかったのだ。」(同著)

 

 つまり今の若い人たちは知識や教養がなく、かつSNSに慣らされて年長者に対する敬意もなく、傲慢になってしまっているため、資本主義に向かない19世紀のイタリア人のように日本の資本主義も発達はせず、むしろ衰退していく以外はないし、企業だけではなく、公務員にも道徳がなくなっているので、資本主義はおろか、電気やガスといったライフラインの公共機関や行政サービスすら今後立ち行かなくなるであろう。

 

 我々日本人は、戦後80年近く道徳や規範を全否定している以上、今後はヴェーバーの言うように、「戦争や海賊のように規範に服することのない」、完全に退化した道を選ぶ以外はない

 

 それでも「道徳が必要」と言う私のような人間が必要ないなどと未だにこの国の人たちは言うことができるだろうか? 

 そして前述したように、渋沢栄一は水戸学と論語を以て、社会秩序の維持を目指していた。

 つまりは、社会全体を見渡せる目によって、さらには道徳を強調することによって、誰よりも規範を重視していたのである。

 キリスト教プロテスタンティズムや、渋沢栄一の儒教道徳のような道徳、規範こそが資本主義経済の発展には不可欠だったのである。