枇杷

枇杷から今度は温州みかんを
無農薬で育てています。
アゲハ蝶を歓迎しながら
あおむしさんを見守っています。

856-1 卒業してからの日々の想い出

2024年04月26日 | 日々のできごと

2024 4月26日 金曜日 文字数 7186

見直し訂正で3時間

想い出を記録してゆこう (75歳からマイナス60年間の記録)

人生の折り返し点が50年とすると。もうすでに25年は過ぎている。

 いつの日か人生を振り返って。。こんなこともあった!青春時代の日々。

これからの人生は回想の日々となってくる。まだ活動はできるけれど。

 

 数年間を振り返ってみると、ゆっくりでは。あるけれど・

身体の体力も。頭の働きも衰えて来ていることを感じている。

(ここまでの字の入力に10分間。)

 毎日の記録を日課として残された人生を楽しく過ごしてゆきたい!

願望である。

856ー1

中学を卒業してから数年間の出来事を記録する予定。目標 1

*自分で本を出版できるゆとりはない。

ある方は現在81歳・卓球での仲間の女性の愛子お姉さまは

 ご自分のヒストリー?を自費で書かれたとか。やはり

100万円ほどの経費。またある方は、私の母方の妹の

綾子叔母様 の長男のお嫁さんが小説を書かれたとか?。

内容は?長男の従弟に会って聞く機会がないので。

また実の姉は情報を高松の叔母様から聞いていたのか?。

その本を読んだとか。でもなぜか私にはその本を読んでみてとかの。

言葉さえもない!。小説というよりは事実に近い内容かも?。

 お嫁さんと叔母との関係や子供たちや(叔母から言えば孫たち)

その他。内容はしらないのである。想像するには・

 妄想だと思いながら・さらりと・受け流してほしい事柄かも。

(ここまでの入力 10分 小計 20分間 )

 

*私は29歳でご縁があって高松出身の同学年のよっちゃん!

に巡り合い結婚した。その綾子叔母様の紹介であった。

 *その叔母さまは車の運転もまた電動のオートバイにも

乗ってお元気な頃は色んなことにチャレンジされて。

介護保険のはしり?の頃には綾歌郡?の地域で介護の2級の

資格を取得。頭もよく。活動的な叔母であった。

 *実の姉も同じように長男の家にお嫁に行き環境が似ていたかも。

お互いにしっかり屋。何でもできる正確である。

なので他人?身内のお嫁さんや叔母の実家の*昨年の1月に

ガンで他界した。大好きだった!従妹。のお母さまに対しては

なぜか良い評価はされていなかったかも?。お嫁さんに対して

どこでもよいようには思ってはもらえない?。こともある。

母は7人弟妹の長女 農家で身内は郵便局に勤めていた。

その中ですぐ下の弟が師範学校までいかせてもらい。教育者になった。

 それも弟たち二男のまさひろ。三男のけんぞう・4男のくにひろ。

の弟が学校に行くのをあきらめて?長男にお金をそそいだ?。

と・身内は話していたようである。従妹のゆっこちゃん!

もそんな話を私にしたことがあったようだ。父親が教師に

なれたのは・みんなの犠牲の上での・・結果。?

 

(昔も・・いまも・お金がないと行きたい学校へは行けない時代もあった!

 どんなに頭が良い人でも。私の父親のお兄様 伯父様はかなり

優秀な方らしかった?知り合いのお医者様はいつも伯父の事を

褒めていらした。耳にたこができるくらいに?。でも

教育を受けていなくて?。それでも生き方は立派であった。

 今であれば・勉強したい人は夜間であっても

やる気さえあれば卒業はできると思う。

 私の大好きな叔母様は教育者であった。母のすぐ下の弟。

長男のお嫁さん。長男の叔父様も学校の先生。尊敬できる

叔父と叔母。いつも仲良しの音楽が好きだった従妹。

お兄ちゃんは辰年で名前は龍生。?

みんな優秀な人たち。であっても謙虚な人たち。

叔父さんが校長先生になっても。普通の叔父様で

 東京から帰省した私の話を。物静かに笑顔で接してくれていた。

学校でのお話は聞いたことはない。田舎の学校でその頃は

そんなにいじめなどもない?。あっても。話さなかったのかも。

 彼女の兄のたっちゃん!は私が通っていた。高松の高校。

県では優秀な人たちが入れる高校へ。私とは年齢差があったけれど。

 

私の場合は、中学校を卒業してから、普通の高校へは行かずに

女学校へ行くための費用は姉がだすから?とか言われたけれど。

 遠くへ自転車で行く気もなく、またそんなに賢くもない?ので。

明善?高校と。もう一つの女学校があった?。行く気はなかった!。

 

 余談で・・・ 話がそれますが

 ちなみに他界した主人の義理のお姉さまはいい家柄からお嫁に

彼の実家へお嫁に来られて。後で聞くとそのお嬢様。学校の

明善高校の卒業だったとか。その文子お姉さまのおじさまは

 主人が話すには過去の話ですが。旧・三和?銀行の頭取。渡邉○○氏。

だったようである。ふうん・・・。結婚した時に聞いたお話。

 

 でもなぜ??苦労をする為に?結婚をしたわけではないにしても。

その義理のお姉さまのご主人様は42歳でぜんそくの為に他界。

その時期に株で?大損?にて田畑を売ったかも?妄想?。

 その後は義理のお姉さまは養女となり。長い間。義母のお母さまが100歳で

他界されるまで仲良く?過ごされていたのでした。主人のお母さまは

 孫たちを比べたりもしない。優秀なお医者様になった!

二男の息子さんのことも。自慢はしない方。高齢になっても新聞や

ニュースでいろんな情報を得て話題にされていた。100歳で肺炎で

入院されて。1週間後に主人の目の前で静かに逝かれたのでした。

 

 

 人生とは人それぞれなのかもと。わが身は普通のサラリーマン。

神戸の造船関係から転勤で今度は飛行機関係の仕事へ

**労働災害とは告発はできないにしても。

職場ではかなり猛毒?の有機溶剤?。事務職から

こちらの工場では現場での仕事。かなりやばい?

お仕事を少しの期間。働いていたと。妄想なのかも?。

 長い物にはまかれろ?。

職場での自殺者も。ありでも。

会社は伏せて。おそらく。家族にも仕事の悩みよりも

ご本人の病気のせい?。と保証はあったのかどうか?

優秀な技術者でも悩みはつきもの。働くとは周りを

楽にすることであるのに。難しい問題である。

我が家の場合は

 出世もなし、家庭を大切にして子煩悩な父親。そんな平凡な

人生を私たちは苦楽を共にしてきた。なんといっても中庸が

いちばん?。少しの苦労は乗り越えられる。

 結婚の相手を高学歴で背丈が高くて・高収入で。家があって

車もあり。などなど。と。

 思うよりも性格が良くて。健康的で。

相手を思いやる優しい心の持ち主であるならば。

特に欲深く考える必要もないと。普通の家庭で優しい両親に

育てられた環境に感謝をすることをいつも教えられてきた。

 人を非難することなく。いい面を褒めて、争いのない

家庭が一番大切であると。嫁と姑。とはいつの時代も

相手の立場や生きてきた環境の違いを理解できず。

 自分が正しいと思っている?そんな妄想は結局は

相手を非難するたびに自分を苦しめることにもなるかも?

 どんな時にも・プラスの志向。それが元気に長生きできる

薬でもあるように感じるのは年を重ねてきたからなのかも・

 

 話がかなりそれて・・もとの回想にもどりますが・・

まずは。看護婦。准看護婦になるために。15歳で知り合いの紹介で

前田医院という内科の診療所。高松市内でかなり夜ににぎあう?

夜の街にも近い?場所で。医院の真ん前はなんと!中日劇場?。

 

いま瞬間に頭の中で名前が出てきたのは?不思議でもあるけれど。

間違っているかもの映画館。物語はその前田医院への

就職から始まるので。前置きに記録しておきたい。

 

*そのたっちゃんは大学を出てから。努力のかい?あってか?

退職する頃には百十六銀行のトップに近い?席にいたようだ。

後で姉から聞いたことは。銀行でのトラブルに巻き込まれてか

うつ状態にもなっていたらしい。上司の不祥事は部下に

責任を押し付けられる?今日のNHKのドラマのようでもある。

 

主人があるときに。言っていたこと。3役でなければ?車での

送迎はない!とか。そんなに重要でないポストの時に彼は

職場への送迎を受けていたらしい?今は亡き主人。今は亡き

従妹のお話を主人が元気な頃に話した時の事。

 

もう従兄は高松で高齢の母親を支えながら自宅と実家を

行き来している。その従兄は昼間の高校。

 

*私は学びながらの苦学生?楽しみながらの方が正しいのですが。

香川県○○ 高松駅南から広い道路があり市役所。中央公園

私が初めて就職したのはその古馬場の繁華街!。その数年後の

 

18歳からは日赤病院に就職。日赤の隣・西側にはあの頃は

丹下健三氏の建築家の立派な庁舎。今は?今も同じなのか?。

 

香川県庁・と高松高校の間になぜか?高松日赤が建っていた!。

近くには現在は中央公園があり。菊池寛の銅像もある。父帰る?

ゆっくり読んでないので機会を見つけて読みたい!

 

反対側の道路の建物には芸術関係の文化会館とか?

近くには図書館、市役所。この場所に住んでいたら?

 

現在の岐阜県では考えられない便利さかも?。

母の末っ子の叔父様は中央通りの百十六銀行の高い建物の

エレベータの管理などを仕事にしていた?叔父様も優秀で?

 

私が中学の時に難しい勉強も見て下さっていた。御養子

となり。ある時期には電気屋さんのお店を開いていた。

もうその叔父様もご病気である。綾子叔母さまも

闘病の生活。長男が東京と高松を往復しながら。時々は

姉が病院への通院や。お見舞いに!

 

**そんな訳で私は15歳からは実家は就職先からは車であれば

20分で通勤。通学もできる。距離であった。けれど。

18歳で現在のように免許を取得して。住み込みでなくても・

実家からでも。今の時代ならば何でもできる。

 

50年前とはそういう時代ではなかった!、お金が持てる時代は日赤病院で働き

ある程度のお給料を准看護婦として働きながら、夜は高松の高校へ。

寮の生活ならば時間的にも体力的にも可能で・病気もせずに

頑張れたのであった。

 

ここまでで1時間 考えながら昔の事を回想しながらの

記録でした。

付け加えると・・・

**六人兄弟の末っ子のよっちゃん!とご縁があり**

私の人生の歩み方を理解してくれていたのは・・

もうこの世にはいない・・8年前にすい臓がんで・・

末期の為に仕方なく。100歳の実母やご先祖様のお迎えにより

遥かかなたへ旅立ったのでありました・

枇杷:856ー1

1回目は頭の中を整理しながら忘れていた日々を

ありのままに・・入力しました。

いつもいろんな方々に助けられながら現在まで

ある程度。健康に年齢を重ねてこられたことを。

日々感謝をしながら・・。

時々は話がそれることもありですが。一人の

不器用な人間が伴侶を得て二人の子供たちに

支えられて生きている。生きてきたこと。

 これからも。数年間は回想をしながらの

残された日々を。旅行や人々との交流など

1年間の目標をゆっくりこなしながら・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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