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【デビュー40周年】尾崎豊ゆかりの地 / 東京

2024年05月02日 | 尾崎豊




 尾崎豊の足跡を辿る



 東京都練馬で生まれ育ち、小学5年生の時に朝霞に引っ越して学生時代を送り、結婚後も都内で暮らした尾崎豊。

 生前、尾崎が26年の生涯を過ごした同じ場所に立って同じ景色を眺めることによって、見えてくるものがあります。

 去年の12月1日からデビュー40周年イヤーに突入しているということで、東京近郊にある「尾崎豊ゆかりの地」を紹介しますーー。



※尾崎の生まれ故郷「練馬」のゆかりの地はこちら、第二の故郷「朝霞」のゆかりの地はこちら




 自衛隊中央病院


 尾崎豊がこの世に生まれ落ちた「尾崎豊生誕地」。





 1965年11月28日夜、健一さんは産気づいた絹枝さんをタクシーで病院に送った後、練馬の都営住宅で知らせを待っていました。

 すると、産室に入ったと同時に出産が始まり、11月29日の明け方に医師が駆けつける前に看護婦さんの手で取り上げられたそうです。





 なお、尾崎が1歳半の時に、絹枝さんが髄膜炎を患ってこの病院に3カ月間入院しています。

 健一さんは病院に寝泊りすることになり、尾崎と康さんを岐阜の親戚の家に預け、病院から仕事場に通っていました。

 尾崎はこの3カ月で母親の顔を完全に忘れてしまい、「この時の経験が彼の人格形成に大きな影響を与えたのではないか」と健一さんは語っています。





 また、1984年8月開催のアトミックカフェでのライブ中に照明イントレからダイブして左足を骨折した際、尾崎が2週間入院した病院でもあります。





東京都世田谷区池尻1丁目2−24
 ※東急バス(モヤイ像側)「自衛隊病院前」下車徒歩5分 (乗車時間10分)



 タカセ洋菓子店池袋本店



 尾崎の父親の健一さんが尾崎の誕生日に毎年ケーキを買っていたお店。


     


 尾崎もこのお店のケーキをとても気に入っていて、新婚当時、ときわ台に住んでいた時もタカセ板橋店でケーキを買っていました。

 タカセのシュークリームもお気に入りだったとか。





東京都豊島区東池袋1−1−4
 ※池袋東口より徒歩1分



 東池袋公園



 尾崎が高校時代に学校をサボって時間をつぶしていた公園。





 池袋駅東側のビル群の一角にある公園で1952年に開設。2005年にリニューアル工事が行われ、滑り台や遊具が設置されました。





 昔は木がうっそうと茂っていて、森のような公園だったようです。尾崎は、都会の喧騒から逃れたかったのでしょうか。





東京都豊島区東池袋3-14-1
 ※JR池袋駅東口より徒歩7分



 御茶ノ水郵便局



 東京メトロ丸ノ内線「御茶ノ水駅」の出口近くにある郵便局。





 尾崎が作ったデモテープは、絹枝さんが四谷のN棋院に書類を届ける仕事の途中、地下鉄の御茶ノ水駅で下車し、この郵便局からCBSソニーに送られました。





東京都文京区湯島1-5-45
 ※東京メトロ丸の内線「御茶ノ水駅」出口より徒歩0分



 ソニー・ミュージック信濃町スタジオ跡



 16歳だった尾崎が1982年10月11日に、CBSソニーのオーディションを行った場所。





 当日のオーディションをすっぽかし、ソニーのスタッフに説得されて翌日にジーパンにしわくちゃのシャツ、裸足にサンダルで現れた尾崎。

 『ダンスホール』、『もうお前しか見えない』の2曲を披露し、その人並み外れた歌唱力と表現力で最優秀アーチストに選ばれ、デビューが決定。





 また、尾崎のデビューアルバム「十七歳の地図」と3rdアルバム「壊れた扉から」は、このスタジオでレコーディングされました。

 「壊れた扉から」の制作時は撮影スタジオに入る時間もロケに出る時間もなかったため、のアルバムジャケットの撮影は屋上で実施しています。





 なお、建物はすでに解体されて創価文化センターの建物が建っており、現存していません。





東京都新宿区南元町5−8
 ※JR中央線「信濃町駅」より徒歩2分



 旧CBSソニー本社ビル



 尾崎豊とディレクターの須藤晃が1982年12月に初対面した建物。





 尾崎は約束の時間に1時間以上遅刻し、待ちくたびれて帰ろうとした須藤氏と6階のエレベータ前で鉢合わせました。

 青学の制服を着てカバンを脇に抱え、手には根性焼きの跡がたくさんあったといいます。





 2018年2月にソニーがこの建物を売却したため、現在はソニーの持ち物ではなくなり、武蔵野美術大学の市ヶ谷キャンパスになっています。





東京都新宿区市谷田町1丁目4
 ※JR中央線「市ヶ谷駅」より徒歩5分



 スタジオエビス



 尾崎豊のデビューアルバム「十七歳の地図」のジャケット撮影が行われたスタジオ。





 撮影は1983年8月に行われ、カメラマンを務めた田島照久氏のアイディアで、何かから逃れるために高いところから飛び降りる形になりました。


      


 尾崎は、自分で工夫しながら色々なやり方で用意された台から飛び降り、その回数は42回にも及んだといいます。


      


東京都渋谷区恵比寿1丁目9−2
 ※JR山手線「恵比寿駅」より徒歩1分



 駒沢公園



 尾崎がデビュー後、初めて屋外で写真撮影を行った場所。





 カメラマンの田島照久氏が、競技場の近くで吹き溜まりになっていた落ち葉の上に寝転んでほしいと頼むと、「平気です」と尾崎は応じたそうです。





 今でも、競技場近くには落ち葉が吹き溜まっている箇所があります。この辺りで撮影していたのでしょうか。。


     


東京都世田谷区1
 ※東京メトロ田園都市線「駒沢大学駅」より徒歩10分



 新宿ルイード跡



 尾崎豊が、1984年3月15日にデビューライブを行った場所。





 ライブ当日、キャパ300に対して倍近い観客が押し寄せ、入りきれなかったファンのために外にモニターが設置されました。





 “ロックの殿堂”と呼ばれた新宿ルイードは、1972年にオープンし、RCサクセションやキャロル、荒井由美、吉川晃司、チェッカーズなど、多くのアーチストを輩出。





 しかし、振動・騒音問題で1987年に閉店し、現在は場所を移転し、新宿ルイードK3として営業中。


      


東京都新宿区新宿3-26-18 カワノビル4F
 ※JR山手線「新宿駅」東口より徒歩5分



 日比谷野外音楽堂



 1984年8月4日、尾崎豊がアトミックカフェで7mの照明イントレからダイブし、左足を骨折しながらパフォーマンスを行った場所。





 周囲に壁があるためステージの先端しか見えませんが、緑と水の市民カレッジの3階の窓から客席とステージが少しだけ見渡せます。


     

     


東京都千代田区日比谷公園1-5
 ※東京メトロ丸の内線「霞が関駅」より徒歩1分



 代々木第一体育館



 1984年のLAST TEENAGE APPEARANCE TOUR、1991年のBIRTHツアー追加公演で尾崎がコンサートを行った場所。





 LTA代々木公演2日目とBIRTHツアーファイナルで行ったMCは、ファンの間で語り継がれ、伝説化しています。





東京都渋谷区神南2-1-1
 ※JR山手線「原宿駅」より徒歩10分



 有明コロシアム



 尾崎豊が、TREES LINING A STREETツアー中の8月29日、30日にコンサートを行った場所。





 彼は、ライブ前日に食べた魚介類に当たって発熱と嘔吐に苦しみ、当日も体調が回復しないままでのライブだったそうです。





東京都江東区有明2-2−22
 ※ゆりかもめ「有明駅」より徒歩3分



 東京ドーム



 覚せい剤による逮捕後、初めてコンサートを開催した場所。





 リハーサルのやり過ぎで喉が潰れ、ガラガラになった歌声で、リリースしたアルバム「街路樹」の曲を含む26曲を熱唱しました。





東京都文京区後楽1-3-61
 ※東京メトロ南北線「後楽園駅」より徒歩1分



 横浜アリーナ



 1991年5月20日に、BIRTHツアーの初日公演が行われた場所。

 コンサートとしては約2年半ぶりで、34都市48公演を行い、復活を待ち侘びた全国の尾崎ファンを熱狂させました。





横浜市港北区新横浜3-10
 ※JR横浜線「新横浜駅」より徒歩10分



 旧レッドシューズ跡



 西麻布の麻布パレスビルの地下1階にあったカフェバー。(1995年閉店)

 当時のカルチャーの先端を行く人々の間で評判となり、様々なジャンルのアーチストの溜まり場となっていました。





 真っ赤な店内に、大きな「風神・雷神」の絵が飾られ、あらゆる種類の美味しいお酒が揃い、料理は本格中華。

 スクリーンには、映画やミュージックビデオが延々流れており、BGMはロックオンリー。





 尾崎も吉川晃司らとよく訪れており、『RED SHOES STORY』というお店の名前を冠した曲も作っています。






東京都港区西麻布2-25−18 麻生パレスビルB1F
 ※都営バス/RH01/六本木ヒルズ行き「渋谷駅前」~「西麻生」下車徒歩0分
 ※東京メトロ日比谷線「広尾駅」下車徒歩10分



 レッドシューズ



 1995年に閉店後、2002年12月に場所を移して再オープン。西麻生にあったレッドシューズから渋谷方面へ歩いて8分ほどの所にあります。


     


 先代から引き継いだ風神雷神が奥でにらみをきかせる真っ赤な店内では、週末にDJイベントや、バンドイベントも行われています。


     


東京都港区南青山6-7−14 チガー南青山B1F
 ※都営バス/RH01/六本木ヒルズ行き「渋谷駅前」~「南青山7丁目」下車徒歩1分



 キャンティ



 尾崎豊の行きつけだったイタリアンレストラン。





 キャンティは1960年オープンの日本のイタリアンレストランの草分け的存在で、文化交流のサロンとなっていました。





 午前3時までの営業で、遅い夕食をとる放送・芸能関係者から、政財界人に連れられて来る赤坂や銀座のホステスなどで深夜まで賑わいました。





 1980年代のバブル時代には「キャンティ族」という言葉が流行り、芸能界の華やかさの象徴となっていました。


      


 見城氏と一緒に食事をした後、店を出た尾崎は、店の横にあった自販機にいきなり殴りかかり、拳を血だらけにしたことがあったとか。





東京都港区西麻布3-17−26
 ※東京メトロ日比谷線「広尾駅」より徒歩8分



 旧・イタリアントマト・ファースト



 尾崎豊がNYに旅立つ前日の1986年5月12日に、高校時代の仲間と壮行会を行ったお店があった場所。ここで、繁美さんと初めて出会いました。





 約束の時間に3時間も遅刻した尾崎は、2次会のカラオケ屋で大騒ぎし、ライブバーで熱唱後、明け方のレッドシューズでお開きになったとか。

 現在は、ginga六本木というイタリア料理屋になっているようです。




東京都港区六本木3-8−15
 ※東京メトロ大江戸線「六本木駅」徒歩1分



 つづきスタジオ



 尾崎豊がBIRTHツアーのリハーサルを行ったスタジオ。


     


 リハーサルは1991年2月末から始まり、期間は2カ月。『FIRE』でスタートしたリハーサルは、本番と変わらない熱気と迫力に溢れていたそうです。





東京都港区麻布十番4-6−9
 ※東京メトロ南北線「麻布十番駅」より徒歩1分



 居酒屋カンちゃん



 通称「尾崎が愛したカレー」が食べれるお店。





 1988年にプロレスを引退したキラー・カーンさんが、新宿で居酒屋をしていた時に尾崎が来店し、おふくろの味の様な優しい味のカンちゃんカレーを好んで食べていたそうです。





 今は新大久保にお店を移転して営業しており、尾崎との思い出話も聴けるようです。





東京都新宿区百人町1丁目6−14 春日ビル1階
 ※JR山手線「新大久保駅」より徒歩2分



 戸塚警察署



 父親の健一さんが、尾崎豊の覚せい剤使用を通報した場所。





 そして、尾崎が朝霞の生家で逮捕されて連行された1987年12月22日から翌年正月明けにかけて拘留されていた場所でもあります。





東京都新宿区西早稲田3丁目30−13
 ※JR山手線「高田馬場駅」より徒歩10分



 東京地方裁判所



 1988年2月22日、尾崎が懲役1年6か月(執行猶予3年)の判決を受けた場所。





 判決直後、尾崎をひと目みようと約1000人の女性ファンが地裁正面玄関になだれ込み、一時パニック状態になりました。





 近くの日比谷公園では、数百人のファンが集まり、集会も開かれたそうです。





東京都千代田区霞が関1丁目1-4
 ※東京メトロ日比谷線「霞が関駅」A1出口より徒歩0分



 東京拘置所



 尾崎豊が、1988年の年明けから2月22日まで拘留されていた拘置所。





 2月22日に東京地裁で判決を受け、護送バスで東京拘置所に移送された尾崎は、午後1時に拘置所の正門をくぐりました。





 正門前の土手には500人以上のファンが集まっており、バスが見えると同時に「ユタカー!」「オザキー!」などの絶叫が巻き起こりました。

 絶叫は次第に手拍子に変わり、最後には『存在』の大合唱になったそうです。





東京都葛飾区小菅1丁目35−1
 ※東京スカイツリーライン「小菅駅」より徒歩数分



 前野町のマンション



 尾崎豊が新婚時に住んでいたマンション。

 繁美さんの著書「親愛なる遥いあなたへ―尾崎豊と分けあった日々」には、玄関前で撮影した繁美さんと裕哉君の写真が掲載されています。


     


 こちらのマンションに住んでいた時は、ケーキは同じ板橋区内にあるタカセ板橋店で買っていたようです。




   


東京都板橋区前野町1丁目
 ※東武東上線「ときわ台駅」より徒歩10分



 ヒルトン東京



 所属事務所を辞めた尾崎豊が見城氏と再会した場所。月刊カドカワで連載を抱えていた頃に宿泊していたホテルでもあります。


       


 このホテルのバーで、5thアルバム「誕生」がオリコン1位になったことを当時月刊カドカワの編集長だった見城氏から聞いた尾崎は涙を流したといいます。





東京都新宿区西新宿6丁目6番2号
 ※都営大江戸線「都庁前駅」より徒歩5分



 旧個人事務所「アイソトープ」



 尾崎豊が設立した個人事務所アイソトープの事務所があったマンション。





 尾崎は、「いかにも音楽事務所めいた駅前のオフィスビルではなく住宅街に事務所を構えたい」という意向で、このマンションに決めたといいます。





 住宅用のマンションを音楽事務所として使用することや、覚醒剤の前歴もあることから、不動産屋から何軒も断られた末にようやく見つけた場所。





 代々木八幡駅北口から徒歩1分のところにあり、2階の左側が前事務所。尾崎の生前の友人で俳優の吉岡秀隆が尾崎の追悼式での挨拶文をここで書いたそうです。





 社長室の壁には、健一さんが書いて事務所にFAXで送った“人間万事塞翁が馬”という言葉が書かれた紙が貼られていました。





 尾崎は、「ファンクラブの会報を0℃から始めて、人間の体温である36.5℃になるまでは続ける」と宣言したといいます。




 こちらの写真は、アイソトープの社長室での尾崎を映した一枚。


           


東京都渋谷区代々木5丁目6
 ※小田急電鉄「代々木八幡駅」より徒歩1分



 歌謡スナック「レジャード」


 1976年開店の老舗のカラオケスナック。音響設備の良さからデビュー前の尾崎豊がマネージャーとともに通っていました。







東京都足立区千住2丁目2-9
 ※「北千住駅」より徒歩5分



 O'BAR(オー・バー) 2218跡



 芝浦に93年12月31日まで存在したディスコ。今は駐車場になっています。





 大箱で吹き抜けの空間に巨大な滝が作られ、中央に開放感に浸れるダンスフロアとお立ち台もあり、素晴らしいディスコだったそうです。

 尾崎は後楽園でのビアパーティーに出席した後に友人たちと繰り出し、深夜2時頃にタクシーで帰路に着きました。





東京都港区芝浦2-2-18
 ※品川駅港南口バス停乗車(浜95 東京タワー行き)、海岸三丁目バス停下車徒歩4分



 千住警察署大橋交番



 1992年4月25日早朝、酒に酔った尾崎がタクシー内で運転手と揉めて、運転手が尾崎と一緒に駆け込んだ交番。





東京都足立区千住橋戸町31−1
 ※京成電鉄「千住大橋駅」より徒歩3分



 旧尾崎ハウス



 尾崎豊が1992年4月25日早朝、泥酔状態で倒れていた場所





 家の一角を増築して尾崎ファンのために解放されていましたが、今は改築されてファンの交流部屋も無くなってしまっています。





 当時を偲ばせるのは、ブロック塀のみになっています。泥酔した尾崎は、このブロック塀に頭突きをかましていたとか。。






 アコール北千住



 尾崎豊が亡くなる直前まで住んでいたマンション。2階に住んでいたそうです。





 命日当日、尾崎の呼吸が止まった(心臓は動いていた)場所でもあります。通りを挟んだ斜向かいのマンションには、尾崎の義母が住んでいました。


東京都足立区千住曙町41-5
 ※京成電鉄「京成関屋駅」より徒歩4分



 日本医科大学付属病院



 1992年4月25日12時6分、尾崎豊がこの世を去った場所。





 亡くなる直前、窓の外のベランダにジーパン姿の尾崎が立っていて、ガラス越しに繁美さんに向かって微笑んでいたそうです。





東京都文京区千駄木1-1-5
 ※東京メトロ千代田線「千駄木駅」より徒歩10分



 護国寺



 1992年4月25日に急逝した尾崎豊の追悼式が行われた場所。

 正午からの追悼式のために、午前8時には前日からの徹夜組200人を含む5000人が詰め掛け、最終的には4万人を超えるファンが押し寄せました。





 哀悼の列が蛇のように渦巻き、多くの「尾崎豊を知らない人たち」は、この大勢の若者たちの追悼に驚愕していたといいます。





東京都文京区大塚5丁目40−1
 ※東京メトロ有楽町線「護国寺駅」より徒歩0分



 落合斎場



 1992年4月30日午後4時、追悼式を終えた尾崎豊の肉体は、ここで荼毘に付されました。

 枢には、彼の全てのCD、愛用のギター、ジーパン、シャツ、サングラスなどが納められ、大好きだったシャンパンがかけられました。





 ・東京都新宿区上落合3丁目34−12
  ※東京メトロ東西線「落合駅」より徒歩3分



 狭山湖畔霊園







 埼玉県にある尾崎豊が眠っている霊園で、納骨式は彼の27歳の誕生日である1992年11月29日に行われました。

 尾崎の父親の健一さんが丘の上からの眺めを気に入ってここにお墓を建てたそうで、命日や誕生日には全国からファンが訪れます。






 旧Cafe Artery&Vein / Edge Of Street



 尾崎没後に開設されたオフィシャルショップ「Edge Of Street」、ファンクラブ会員専用のコミュニケーション・スペース「Cafe Artery&Vein」があった場所。





 オフィシャルショップでは、CD、ビデオ、写真集、バンドスコアなど尾崎に関するものなら何でもそろっていて、多くの種類のオリジナル商品やグッズも取り扱っていました。

 カフェ内の天井や壁には尾崎愛用のモノが所狭しと飾られ、大型モニターに映し出される尾崎のライブ映像を見ながら、カクテルなどを楽しめました。





東京都渋谷区恵比寿西2-17-8 I.T.O代官山ビル
 ※東急東横線「代官山駅」より徒歩5分



 青山学院高等部



 尾崎が高校時代に通っていた高校。





 彼は、1984年1月25日に学校を自主退学してアーチスト活動を開始。3月15日の卒業式の日に、デビューライブを行いました。

 現在の校舎は数年前に建て替えられているので、当時の面影は無くなっています。


 



 尾崎豊の歌碑



 渋谷クロスタワー前のテラス。

 学校帰りの尾崎がよくここに立ち寄って夕日を眺めていたことから、三回忌の1994年4月25日に歌碑が建立されました。





 『十七歳の地図』の「歩道橋の上 振り返り 焼けつくような夕陽が今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ」という歌詞の舞台にもなっています。

 毎年、尾崎豊の命日と誕生日には全国から尾崎ファンが集まり、歌碑の前や歩道橋で、彼が遺した歌を弾き語りながら彼を偲んでいます。





東京都渋谷区渋谷2丁目15
 ※東急東横線「渋谷駅」より徒歩5分




 編集後記



 「KLAXONは鳴り止まず」。

 
 この作品は、尾崎豊の追悼式に参列したファンが、当日の様子と、その後を記録したノンフィクション・ドキュメンタリーです。
 
 この作品には追悼式当日、テレビや雑誌では紹介されなかった尾崎ファン同士による心温まるエピソードやファンの感情の変遷が事細かに記されています。
 
 追悼式会場となっていた護国寺周辺では、降り続く雨に打たれながら、深い哀しみと喪失感に打ちひしがれているファンが大勢いました。

 その姿を見て、「何とかしなければ」という使命感から、ファンによる追悼コンサートを企画し、実現へ向けて奔走した尾崎ファンたちがいました。

 “尾崎豊没後の世界”の始まりの物語といえるでしょう――。



 



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