パンデミック麻疹・コレラ、幕末を襲う
歴史に学ぶ日本人、幕末にパンデミックを経験済み新型コロナウイルスで大変な状況の今。我々は必ず、この状況を乗り越えらえれる。何故なら、我々の祖先は、幕末に、コレラ、麻疹(はしか)、痘瘡(天然痘)のパンデミックを経験し、それを乗り越えたから。その中で、麻疹の例を見てみよう。麻疹が流行 文久2年(1862。)この年に「麻疹」が大流行する。 当時、麻疹にかかると、「命定め」つまり死を覚悟しないといけなかった。特に子供と老人の致死率は高かった。 5代将軍徳川綱吉も一説には、麻疹が原因の呼吸器不全により食べ物を喉に詰まらせ死亡したとのことである。そしてこの麻疹の被害は、5月から流行し8月まで続き、な何と死者7万5千人。コレラの大発生 そして同じ時期に今度は、夏7月にまたコレラが大発生。 ちなみに、勝海舟もこのコレラにかかり回復しているがそのせいで海軍奉行並への就任が遅れている。 この年は、麻疹とコレラが同時多発で起きていたことになる。何とも恐ろしい事態である。 2種類のウイルスがパンデミックになったことになる。 何とも恐ろしい事態。当時は原因が分からず、なすすべがなかった、と言ってもよい。 そしてこの時の被害は、両方の病気の死者数は、信じられないが、23万人以上。江戸100万の人口としても20%の人が死んだ事になる。全国にみたらもっとその数は増えるだろう。江戸だけで5人に1人は江戸だけで死んでいるという異常事態。 そんな社会不安の中、政治も混乱した。 有効な手が打てなかった幕府への不信感が募った。 その幕府の威信を益々低下させたのが、1月に起きた坂下門外の変で老中安藤信正が襲撃された事件。命に別条はなかったが大老井伊の暗殺の記憶も新しい中幕府の信用は失墜する。 そのムードを払拭すべく幕府は、和宮と将軍家茂の結婚の儀を企画し、天皇の権威を持ってそれを払拭しようと行われた。 ちなみにこの家茂は、女性に人気がある。奥さん一筋。歴代将軍の中でも側室を持たず奥さん一筋という将軍はこの14代様しかいない。 自分が奥さんである和宮と仲良くする事が、朝廷と幕府のためになると純粋に思っていた。何といじらしい可愛い性格であろうか。今の大学生位の年齢。 勝海舟も家茂が好きで、21歳で家茂が脚気衝心で亡くなると、「今日で幕府は滅びた。」と,嘆いたという。島津久光一行はメガクラスター? 4月には薩摩の島津久光が兵を率いて上洛。この時、寺田屋事件が起きている。続いて江戸へ。その帰国する時に生麦村で生麦事件が起きる。 久光が江戸へ来たころ麻疹(はしか)の流行の真っ最中だった。麻疹の空気の中に一行は入って来た。 しかもこの麻疹が全国に広がって行ってしまった。中部、近畿にその広めた感染源がこの久光の大名行列だった。江戸で感染した薩摩藩士が特に大坂で多く広めてしまった。つまり島津久光の大名行列がメガクラスターになってしまった。何ということか! 当時麻疹は、先述の様に、“命定め”の病であるから、事実このわずか3か月でしかも江戸だけで何と、7万5千人もの人が死亡している。 これだけでも相当酷い状況だが、時代の転換期であった幕末期はこれだけでは終わらない。 先述の様に、7月には今度は、コレラが大発生。安政5年のコレラの大発生からわずか4年しか経っていない。 この時の被害つまり死者数は、これら二つの病気を合わせて23万人以上。江戸だけである。江戸の人口がこの時約100万人として20%以上の人が亡くなっている。異常事態である。 そんな状況の時に、久光はやって来て幕政改革を迫っていたことになる。 これが明治維新のわずか6年前の事である。 これだけの非常事態を経験し乗り越えて来た歴史を、我々は経験している。 ましてや現代医学、科学が発達している現在、我々が乗り越えられない訳がない。 必ず、乗り越えられる!