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史上最強の山岳会・・山学同志会

2024-04-29 14:35:53 | 登山
かつて、日本の登山史上に「最強集団」として、その名を轟かせた山岳会がありました。
その名を「山学同志会」といいます。
「山岳」ではなく「山学」という点に、彼等のこだわりがあるのかも知れません。
山学同志会ではなく、「ドーシカイ」という通り名で通用していたみたいです。
その名は日本の登山史上に、一世を風靡し燦然と輝いたのです。

今では時代も変わり、
もう死に物狂いでの登山などする若者も居なくなり、
「山学同志会」の現在がどうなっているのかは不明です。





この一世を風靡した最強集団を、率いたのは、小西正継(こにしまさつぐ)です。

小西正継(まさつぐ)1938年~1996年(57歳)
早くに父を亡くした小西は高校進学をあきらめ就職。
職場の山岳会の部長に連れられて山の世界へと足を踏み入れていきます。
18歳で「山学同志会」という山岳会に入ります。
この山岳会はまだ結成10年にも満たない小さな山岳会でした。

小西は山にのめり込みメキメキと頭角をあらわしていきます。
山に関する本をむさぼる様に読みあさり、海外の本も辞書と首っ引きで吸収しました。
小西はヨーロッパアルプス、ヒマラヤなどを見すえていました。
しかし、一緒にヒマラヤを目指していた仲間3人を国内の山で失ってしまいます。
その事故に対し、山岳会の古株達は危険な山行を禁止する措置をしました。

これに対し小西は「こんな連中と一緒ではとてもヒマラヤに行く事はできない」と、
山岳会の刷新を行い、選挙でチーフリーダーに選ばれます。
そして名ばかりの古株を降格させ、それに耐えられない人達は山岳会を去って行きました。
更に厳しい規律を設け、実力の無い会員、古株を追い払い、大規模な粛清を行います。
そして会員は25歳以下の男子に限るとします。
まさに山岳会史上最強の「鉄の集団」が築かれていったのです。
私もその強烈なフレーズを覚えています。
「会員は25歳以下の男子に限る」
そんじょそこらの軟派な山岳会などと一緒にされては困る、俺たちは最強集団なんだ。

1967年(29歳)
小西は会員2人と共に、冬季マッターホルン北壁登攀を目指します。
夏のマッターホルンも登った事がないのに、超難関の冬季北壁が登れる訳がないだろう。
と、高名な登山家からのアドバイスもありましたが、小西は全く耳を貸しませんでした。
そしてそれを登り、世界での第3登を果たしたのです。

その後、山岳会のトップと言うべき、日本山岳会から、ある招聘を受けます。
「前人未踏のエベレスト南西壁の登攀を計画している。君の様な優秀な登山家に、
一緒に行ってほしいという」という招聘でしたが、彼等大学生のレベルに低さに、
これを断ります。

その後も「山学同志会」は日本の登山界に刺激を与え続ける登攀を続け、
しかし、それ故に優秀な会員を何人も失う事故を起こします。
ですが、山学同志会と、その会長である小西政継の名は知れ渡っていきました。
1983年、山学同志会は、エベレスト西南壁に挑戦し、
一部は成功しますが、小西自身は登頂を果たさないままに終わります。

その後、小西はアウトドアグッズを販売する会社を立ち上げ、それに成功します。
それから10年、
小西政継は登山から引退したと思われ、その名前すら忘れられた存在でした。
しかし突然、小西政継の名前が再登場しました。

1994年、ヒマラヤの名峰ダウラギリ(8167m)に登頂。
これは小西には、初めての8000m登頂だったのです。
翌1995年、シシャパンマ(8207m)登頂。
1996年、マナスル(8163m)の登頂。
しかしそれらの山は、かつて山学同志会を率いていた小西が、
バカにして忌み嫌っていた登山スタイル。
つまり荷物運びのシェルパを雇い、酸素ボンベに頼るスタイル。
もう若い頃の体力は無くなり、事業に成功して、お金に困らなくなった彼は、
ヒマラヤの名峰登頂に、己の満足度を得ればいいのだと、変わったのでしょうか?

その時、一緒に登ったパートナーがテントに戻った時に小西の姿は無く、
そのまま小西は行方不明のまま現在に至っています。

それにしても「山学同志会」
本当に日本の山岳会に旋風を巻き起こし、一世を風靡しましたね。
鉄の男、小西政継の名も、忘れられない永遠の名前として残ったのです。

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