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フォッサマグナ

2024-04-27 09:32:48 | 日記
フォッサマグナとはラテン語で、
フォッサ(大きな)マグナ(溝)という意味です。
初めてこの言葉を聞いたのは覚えていないずっと前ですが、
初めて意識したのは映画「日本沈没」でした。



地震学者の田所教授(小林桂樹)が、フォッサマグナという言葉を言ったのです。



日本列島にフォッサマグナを発見したのは、
ドイツ人の地質学者、ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(1854ー1927)でした。
ナウマンという名前を聞いて、はて?と思われると思います。



そうです、ナウマン象の化石を野尻湖底から発見した人なのです。
ナウマン象という名前は彼にちなんで名づけられました。

ナウマンは明治政府の招きで1875年(明治8年)若干20歳で来日しました。
政府が何だってまだ20歳の若僧を招いたのかは分かりませんが。
それから1885年までの実質9年間、
北海道を除く日本列島を1万キロ、主に徒歩で歩き調査し、
日本初の本格的な地質図を完成させました。



ナウマンは、JRで一番標高の高い所を走っている小海線沿いを調査していて、
野辺山辺りで、南アルプスと関東山地の間に広がる、
広大な平地を見渡して、ハッとひらめきました。
「ここに地溝帯があるんじゃないか」と。
その時、ナウマンは22歳~23歳の時でした。

ただ、キチンとしたメカニズムが解ったのは、
プレートテクトニクス理論以降なので、1980年以後です。

映画「日本沈没」の時にも、
「科学者にとって最も大切なのは何か?」と政界の重鎮に訊ねられた、
地震学の権威、田所博士は即答します。
「それは勘です」と。
一枚の新聞紙をビリビリと引き裂き、
「これが元は一枚の紙だったのは誰でも分かります。
しかし、バラバラになった紙が元は一枚の紙だった事には、誰も気づきません」
つまりそれがプレートテクトニクス論なのです。

2000万年前、日本列島はアジア大陸の一部でした。
1700万年前頃になると、大陸の一部に割れ目が入って、
巨大な湖が出来ます。これが日本海の原型といわれます。
1600万年前頃になると、日本列島がバキッと割れて、
真ん中が沈み、その沈んだ所がフォッサマグナと言われる。
フォッサマグナという言葉が名付けられたのは1886年で、
日本列島がアジア大陸から離れる時に出来た、
幅数十キロという大きな裂け目だという、
ナウマンの理論は、まだ認められる以前の発見だったのです。



ナウマンも日本列島が動いたとは思っていませんでした。
ただナウマンはフォッサマグナ周辺の特徴を見て、
溝の両側の地質が似ていて、溝にどうやら新しいのが溜まっていると、
そんな感じでフォッサマグナというのを考えたみたいです。

しかし凄いですね。
たった22、23歳といった若者が、
初めて来た日本という外国で、目の前に広がる山と山とに挟まれた、
平らな地形を見て、「これは溝じゃないか」とひらめくなんて。
それまで、ずっと日本に住んでいながら、
そんな事など全く思いもしなかった人達全員が考えもしなかったのに、
それを外国人の若者に見破られるなんて・・・

私はずっと昔、ドライブに行った時だったか、
長野県か山梨県辺りの何処かで、
「フォッサマグナが見られる場所」とかの看板に引き寄せられ、
見に行った事があります。



まあ、おおむねこんな地形が剥き出しになった場所でしたが、
これの何処がフォッサマグナなの?としか思いませんでした。
天才と凡人の差です。



何度も行った山梨県白州町のキャンプ場、オートキャンプ牧場チロル。
私達の居るのは南アルプス山脈の麓、
遠くには八ヶ岳の山並みがあり、その間には平地が広がっています。
ナウマンが見たのはここではありませんが、
つまり、こういった同じ様な地形を見て、彼はひらめいたのですね。

日本人全員が見抜けなかった事を、
外国の若者が見抜いてしまった。本当に凄い。



新潟県糸魚川市には、フォッサマグナミュージアムがあり、
同じ糸魚川市ですが、こことは違う場所に、
フォッサマグナパークというのもあります。
そちら方面に行く事がありましたら、一度行ってみるのもいいですね。



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