2024年5月24日静岡朝祷会・奨励
先月に続いて、また奨励の機会をいただき、感謝致します。きょうは先ず、テレビ番組の話をします。
2012年に本屋大賞を受賞してベストセラーになった三浦しをんの小説『舟を編む』がテレビドラマになり、今年の2月18日(日)~4月21日(日)にNHK BSで『舟を編む ~私、辞書つくります~』というタイトルで放送されました(1話49分、全10話)。このドラマが私はとても気に入ったので4月に放送が終わった後も録画した1~10話を全話もう一度観て、今は三度目を視聴中です (^^;;。さらに原作の文庫本も購入して読了し、2013年公開の映画『舟を編む』もネット配信で観ました。
なぜ『舟を編む』に、こんなにもハマったのか?いろいろありますが、理由の一つに、このドラマの中で繰り返し熱く語られる「辞書は言葉の海を渡る舟だ」というセリフへの共感があると思います。このドラマは、玄武書房という架空の大手出版社の辞書編集部が舞台です。ここでは十年以上の歳月を掛けて『大渡海(だいとかい)』という辞書を編さん中です。この『大渡海』には「大きな海を渡る」という意味が込められています。なぜ辞書の名前を『大渡海』にしたのか、この辞書の監修者である国語学者が熱く語る場面があります。
また、原作には監修者と編集者による次のような会話があります。
『舟を編む』は、辞書編集部のスタッフたちが奮闘努力して『大渡海』を刊行する物語です。私自身のこれまでの人生を振り返っても、辞書があったから広くて深い言葉の海を渡って来られたのだと思います。若い頃は新しい言葉に出会うと紙の辞書を引きました。今はデジタルの辞書ですが、辞書は今でも身近な存在です。
そして思うことは、【聖書】もまた「言葉の海を渡る舟」だということです。聖書が渡る海は「神の言葉」をも含む海ですから、辞書が渡る海よりもさらに広くて深い海です。辞書が渡る海を太平洋だとすれば、聖書が渡る海は太平洋だけでなく大西洋やインド洋、北極海や南氷洋をも含みます。しかも神の言葉は時空を超えた「永遠」の中にありますから、「永遠の言葉の海を渡る舟」、それが【聖書】だと言えるでしょう。
先月の4月28日、詩画作家の星野富弘さんが亡くなられて天に帰りました。口にくわえた筆でかかれた星野さんの詩と絵は、これからもずっと、人々に愛され続けることでしょう。星野さんは膨大な詩を遺して、これからも読み継がれて行きますから、星野さんの詩の世界もまた「永遠の言葉の海」です。星野さんの詩はどれも簡単な言葉で綴られています。ですから、辞書の舟は要りません。でも、聖書の舟はあると良いでしょう。聖書があれば星野さんの詩の海へ漕ぎ出して行けます。星野さんの詩の根底には聖書の言葉があるからです。
私はこれまでに2回、星野さんの詩画展を観に行ったことがあります。1度目は聖書にまだあまり親しんでいなかった頃、2度目は聖書に親しむようになってからです。2度目は聖書の舟に乗ることで、星野さんの詩の海を1度目よりも深く味わえるようになっていました。きょうは星野さんの詩を二つだけ紹介します。一つめは、「へくそかずら」という花の絵に添えられた詩です。
【へくそかずら】
町も人も 美しい名前が 多くなりました
でも 何だか 疲れます
ここに 小さな 花が あります
「へくそかずら」といいます
「へくそかずら」
呼べば 心が和みます
「へくそかずら へくそかずら」
「へくそかずら へくそかずら」
つぶやきながら 夕べは ぐっすり眠りました
この詩を読んで私はふとクリスマスの光景を思い浮かべました。クリスマスの日、イエス・キリストは家畜小屋で生まれました。家畜小屋ですから、動物の糞の匂いも漂っていたことでしょう。そのような中でイエス・キリストは赤ちゃんとして生まれました。赤ちゃんは自分では何もできません。星野富弘さんも事故で手足を動かせなくなりましたから、食事も下の世話もすべて人にやってもらっていました。クリスマスになると、街はきれいなイルミネーションで彩られます。もしかしたら星野さんにとっては、クリスマスの光景さえも、もしそれが家畜小屋からあまりに掛け離れた派手な装飾であれば、疲れを感じていたかもしれません。星野さんの心の内の本当の所は分かりませんが、聖書の舟に乗るなら、星野さんの心情に少し近づけるかもしれません。
もう一つ、「たんぽぽ」の綿毛の絵に添えられた詩を読みます。
【たんぽぽ】
いつだったか きみたちが 空をとんでゆくのを見たよ
風に吹かれて ただひとつのものを持って
旅する姿がうれしくてならなかったよ
人間だってどうしても必要なものはただひとつ
私も余分なものを捨てれば 空がとべるような気がしたよ
星野さんは中学の体育教師になったばかりの24歳の時に、事故で首から下を動かすことができなくなりました。前途洋々だった星野さんは一瞬の事故で希望に満ちた人生のほとんどを失いました。星野さんほど多くのものを手放した人はいないでしょう(いたとしても、ごくわずかでしょう)。そんな星野さんでも「たんぽぽ」の綿毛が飛ぶのを見て「私も余分なものを捨てれば、空がとべるような気がしたよ」と綴っています。まして私たちは、どれだけ多くの余分なものを抱えていることでしょうか?
では、星野さんが「どうしても必要なものはただひとつ」と綴った「ただひとつ」とは何なのでしょうか?それもまた、聖書という舟に乗ることで見えて来るのではないでしょうか。星野さんほどハッキリとは見えなくても、少しでも見えるようになれたらと思います。ヒントになりそうな聖句はいろいろあります。きょうの聖句のヨハネの福音書の3章8節もまたヒントの一つになりそうです。
聖書という永遠の言葉の海を渡る舟に乗ることで、星野さんが綴った「どうしても必要なものはただひとつ」を、私たちもまた知ることができたらと思います。
言葉の海を渡る舟
ヨハネ3:8「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
先月に続いて、また奨励の機会をいただき、感謝致します。きょうは先ず、テレビ番組の話をします。
2012年に本屋大賞を受賞してベストセラーになった三浦しをんの小説『舟を編む』がテレビドラマになり、今年の2月18日(日)~4月21日(日)にNHK BSで『舟を編む ~私、辞書つくります~』というタイトルで放送されました(1話49分、全10話)。このドラマが私はとても気に入ったので4月に放送が終わった後も録画した1~10話を全話もう一度観て、今は三度目を視聴中です (^^;;。さらに原作の文庫本も購入して読了し、2013年公開の映画『舟を編む』もネット配信で観ました。
なぜ『舟を編む』に、こんなにもハマったのか?いろいろありますが、理由の一つに、このドラマの中で繰り返し熱く語られる「辞書は言葉の海を渡る舟だ」というセリフへの共感があると思います。このドラマは、玄武書房という架空の大手出版社の辞書編集部が舞台です。ここでは十年以上の歳月を掛けて『大渡海(だいとかい)』という辞書を編さん中です。この『大渡海』には「大きな海を渡る」という意味が込められています。なぜ辞書の名前を『大渡海』にしたのか、この辞書の監修者である国語学者が熱く語る場面があります。
「辞書は言葉の海を渡る舟だと私は思うんです。多くの人が長く安心して乗れるような舟を、寂しさに打ちひしがれるような旅の日々にも、心強い相棒になれるような舟を作りたい。」
また、原作には監修者と編集者による次のような会話があります。
「辞書は、言葉の海を渡る舟だ。」
「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう。」
「海を渡るにふさわしい舟を編む。」(文庫本p.34-35)
「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう。」
「海を渡るにふさわしい舟を編む。」(文庫本p.34-35)
『舟を編む』は、辞書編集部のスタッフたちが奮闘努力して『大渡海』を刊行する物語です。私自身のこれまでの人生を振り返っても、辞書があったから広くて深い言葉の海を渡って来られたのだと思います。若い頃は新しい言葉に出会うと紙の辞書を引きました。今はデジタルの辞書ですが、辞書は今でも身近な存在です。
そして思うことは、【聖書】もまた「言葉の海を渡る舟」だということです。聖書が渡る海は「神の言葉」をも含む海ですから、辞書が渡る海よりもさらに広くて深い海です。辞書が渡る海を太平洋だとすれば、聖書が渡る海は太平洋だけでなく大西洋やインド洋、北極海や南氷洋をも含みます。しかも神の言葉は時空を超えた「永遠」の中にありますから、「永遠の言葉の海を渡る舟」、それが【聖書】だと言えるでしょう。
先月の4月28日、詩画作家の星野富弘さんが亡くなられて天に帰りました。口にくわえた筆でかかれた星野さんの詩と絵は、これからもずっと、人々に愛され続けることでしょう。星野さんは膨大な詩を遺して、これからも読み継がれて行きますから、星野さんの詩の世界もまた「永遠の言葉の海」です。星野さんの詩はどれも簡単な言葉で綴られています。ですから、辞書の舟は要りません。でも、聖書の舟はあると良いでしょう。聖書があれば星野さんの詩の海へ漕ぎ出して行けます。星野さんの詩の根底には聖書の言葉があるからです。
私はこれまでに2回、星野さんの詩画展を観に行ったことがあります。1度目は聖書にまだあまり親しんでいなかった頃、2度目は聖書に親しむようになってからです。2度目は聖書の舟に乗ることで、星野さんの詩の海を1度目よりも深く味わえるようになっていました。きょうは星野さんの詩を二つだけ紹介します。一つめは、「へくそかずら」という花の絵に添えられた詩です。
【へくそかずら】
町も人も 美しい名前が 多くなりました
でも 何だか 疲れます
ここに 小さな 花が あります
「へくそかずら」といいます
「へくそかずら」
呼べば 心が和みます
「へくそかずら へくそかずら」
「へくそかずら へくそかずら」
つぶやきながら 夕べは ぐっすり眠りました
この詩を読んで私はふとクリスマスの光景を思い浮かべました。クリスマスの日、イエス・キリストは家畜小屋で生まれました。家畜小屋ですから、動物の糞の匂いも漂っていたことでしょう。そのような中でイエス・キリストは赤ちゃんとして生まれました。赤ちゃんは自分では何もできません。星野富弘さんも事故で手足を動かせなくなりましたから、食事も下の世話もすべて人にやってもらっていました。クリスマスになると、街はきれいなイルミネーションで彩られます。もしかしたら星野さんにとっては、クリスマスの光景さえも、もしそれが家畜小屋からあまりに掛け離れた派手な装飾であれば、疲れを感じていたかもしれません。星野さんの心の内の本当の所は分かりませんが、聖書の舟に乗るなら、星野さんの心情に少し近づけるかもしれません。
もう一つ、「たんぽぽ」の綿毛の絵に添えられた詩を読みます。
【たんぽぽ】
いつだったか きみたちが 空をとんでゆくのを見たよ
風に吹かれて ただひとつのものを持って
旅する姿がうれしくてならなかったよ
人間だってどうしても必要なものはただひとつ
私も余分なものを捨てれば 空がとべるような気がしたよ
星野さんは中学の体育教師になったばかりの24歳の時に、事故で首から下を動かすことができなくなりました。前途洋々だった星野さんは一瞬の事故で希望に満ちた人生のほとんどを失いました。星野さんほど多くのものを手放した人はいないでしょう(いたとしても、ごくわずかでしょう)。そんな星野さんでも「たんぽぽ」の綿毛が飛ぶのを見て「私も余分なものを捨てれば、空がとべるような気がしたよ」と綴っています。まして私たちは、どれだけ多くの余分なものを抱えていることでしょうか?
では、星野さんが「どうしても必要なものはただひとつ」と綴った「ただひとつ」とは何なのでしょうか?それもまた、聖書という舟に乗ることで見えて来るのではないでしょうか。星野さんほどハッキリとは見えなくても、少しでも見えるようになれたらと思います。ヒントになりそうな聖句はいろいろあります。きょうの聖句のヨハネの福音書の3章8節もまたヒントの一つになりそうです。
ヨハネ3:8「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
聖書という永遠の言葉の海を渡る舟に乗ることで、星野さんが綴った「どうしても必要なものはただひとつ」を、私たちもまた知ることができたらと思います。