興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

山本家住宅 (その12金庫開く)

2017年12月30日 | 山本家住宅

昨日12月29日(金)テレビ東京系の「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ!スペシャル」で山本家住宅が取りあげられました。

内容は、企画のひとつである、「開かずの金庫・トビラ」でした。

リポーターは金子貴俊さんでした。

住宅の紹介も盛り込まれていました。

前回のブログで紹介した、実際開かない金庫室の金庫を開ける流れを紹介しましょう。

古い金庫の鍵を開けるプロが来て開けられましたが、残念ながらお宝はなかったようです。

重厚な扉の構造の金庫の種あかしを紹介していきましょう。

第1ステップとして、下の鍵穴に鍵を差し込んで開けるのですが、その鍵は存在しません。すでにその鍵は開いた状態という事でした。

第2ステップは、イロハの文字が書かれたダイヤルを設定された4ツの文字を右に左に廻しながら開錠していきますが、設定された4ツの文字を何回もダイヤルを廻しながら、手の感触で探し当てるのがプロの鍵開け屋さんの仕事です。

これでゴールと思ったら、もう一枚の扉が登場。
やっと開いた扉は重厚で非常に重いのですが、扉の中身には砂が詰まっているようです。

次の扉の開け方は聞き忘れたのですが、中には桐のタンスのような引き出し製の金庫となっておりました。

秘密の4ツの暗唱文字は、“カ・チ・ネ・ノ”でした。
山本眞蔵氏が設定したであろうと想像できますが、どういう意味なのでしょうか。


山本家住宅 (その11 金庫室)

2017年08月27日 | 山本家住宅

 6畳の和室で1間の床の間と金庫がある部屋です。
事務を行っていたと伝わっている部屋です。
網干銀行又網干町関係の方とのお金に関する話し合いや、莫大小(メリヤス)工場を経営していたので商談等お金に関する話し合いに利用した部屋なのでしょうか。


 大きな金庫が備え付けられています。

 竹内金庫製である事は間違いないようなので、
「鍵神博士」http://www.afrocontempodancetheater.com/ さんからからそのまま掲載させて頂きます。

竹内金庫
日本で一番古い金庫のメーカーが「竹内金庫店」というところです。
現在でこの竹内金庫製造の金庫が使われていることはほとんどないでしょう。
多くが骨董品扱いだったり、博物館に展示されているようなものです。中には現役で使えるようなものもあるでしょうが、今では使用するよりも骨董的な価値のほうが高くなっています。
もし家にとてもふる~い金庫があるというのならば一度じっくり観察してみてください。
「竹内製造」「東京市」「馬喰町」といった表記があって三本足の八咫烏のエンブレムがあればそれは竹内金庫の可能性が高いです。稀に同じようなエンブレムで「竹内製造」の表記がないものもあります。その場合は模造品の可能性が高いです。
竹内金庫が創立されたのは幕末のことです。横浜で火事が起こり、外国商館がその被害にあいました。大切な金庫も火事で焼けて壊れてしまったそうです。その金庫を直したのが竹内弥兵衛という鍛冶屋だったそうです。
このことをきっかけに弥兵衛は竹内製造を設立します。
エンブレムに描かれている「東京市」というのは架空の地名というわけではありません。明治22年から昭和18年にかけて実際に使われていた地名です。
もうひとつ竹内製造金庫の特徴をお伝えしておきます。それはダイヤル錠が「イロハニホヘト」になっているところです。なんとも時代を感じる趣ある金庫ですね。

 確かに、山本家住宅の金庫のダイヤルは「イロハニホヘト」です。
次回に写真を撮影してUPさせて頂きます。

「女性金庫診断士ちょこっと日記」http://blog.livedoor.jp/enomoto_safe/archives/52423961.html さんからもそのまま掲載させて頂きます。
日本の金庫の歴史では、洋式金庫から学んで日本で初めて金庫を製造したのが竹内金庫店と山田金庫店です。
明治初期から製造された国産金庫のさきがけ竹内金庫は鋼板と鋳物部材をリベットで組み合わせ、耐火材の砂を利用したもので、現在の金庫とは違って、漆黒の本体とエンブレムの金色が重厚なのです。
古い外国製金庫にはアンドリュース・レミントンなどがあり、日本製の竹内金庫以外の古い金庫には大倉金庫
・山田金庫・吉光金庫などがあり、さらに大谷金庫・萱内金庫・風間金庫・日本金庫・野原金庫・日の丸金庫・文祥堂・第一金庫など実際には見たことがない金庫もあります。
ちなみに・・・
*日本の金庫の歴史*
江戸時代      木製銭箱・車付長持・千両箱・からくり箱
1866年(慶応2年) 幕府献納の洋式金庫(ドル箱・金張箱)を鍛冶屋の中北米吉・
竹内弥兵衛が修理
その後、竹内金庫店・山田金庫店が洋式金庫製造
1877年       佐倉金庫店
1891年       伊藤喜商店
1899年       佐川製作所・熊平商店
1906年       黒田表紙店(コクヨ)
1909年       下田金庫(合)
1915年       大谷金庫
1916年       佐藤金庫
1917年       日進社(キング工業)
1920年       榎本金庫創業
1921年       大阪の金庫業者16名で「大阪金庫有志会」発足

竹内金庫他古い金庫について
1号 高さ1320・幅970・奥行820・重量不明
2号 高さ1320・幅790・奥行820・重量不明
3号 高さ1090・幅820・奥行760・重量不明
4号 高さ1090・幅700・奥行760・重量不明
5号 高さ 910・幅640・奥行640・重量不明
耐火材・・・砂  生産年代・・・明治初期~大正末期 1870年~1923年頃まで

 山本家住宅の金庫は上の写真にもありますが、№5とありますので、5号金庫のようです。
開閉されていないので、奥行きはわかりませんが、高さと幅の寸法はあっています。

 金庫の話はこれくらいにして、床の間の設えについてお話ししましょう。

 床は畳床、床柱は鉄刀木(たがやさん)、床框は楓(かえで)、落とし掛けは桜です。
山本家住宅を案内した時、この部屋は床が新建材に貼り替えられ、応接セットも現代風の決して高価とは言えない物なので、他の部屋から比べると金庫だけがある部屋のように皆さん思われるようです。
上の住宅見取り図を見て頂ければわかりますが、金庫室は住宅の中央に位置します。
防犯を考えた時、窓際に面しない部屋にしたのは納得がいきます。
その為、お日様が入らず少しうっと暗い部屋ですが、銘木を使った素晴らしい部屋です。


 山本眞蔵氏が当主であった山本家住宅という事なので、この金庫室を語る時、網干銀行網干町支店の説明ははずせません。

実際、山本家住宅に来て頂いた方には時間があれば網干銀行網干町支店に足を延ばす様おすすめしています。

 網干銀行網干町支店は現在外からしか見れませんが、内部公開の時の写真を掲載して説明させて頂きます。

【網干銀行網干町支店】
 網干銀行網干町支店は明治29年1月に営業を開始しています。
当初の銀行が同じ場所だったのかは、わかりませんが現在の建物は大正11~12年に完成したようです。
ちなみに網干銀行本店は、旭陽村之内髙田村において明治27年11月に営業を開始したようです。
明治32年12月発行の『揖保郡地誌』と『姫路市史』から

 山本眞蔵氏は、大正3年7月に38歳で網干銀行重役に就任。
昭和5年2月の網干銀行解散までの間、頭取にもなられたようで、この建物が完成したであろう大正12年は47歳でした。

 山本眞蔵氏は、大正7年完成の山本家住宅では施主として、又同じ大正7年に大改修された興浜金刀比羅神社では工事員として設計には相当関与したであろうと思われる形跡がメモや書斎に残る建築関係の書籍が物語るように網干銀行網干町支店の設計にも関与されたと想像できます。

 山本家住宅が公開された時、金庫室の金庫については、網干銀行網干町支店の金庫と製造会社が同じかと思いましたが、住宅用の金庫と銀行の金庫については、大きさや構造などから製造会社が別のようでした。
網干銀行網干町支店の金庫については、エンブレムから大谷金庫製という事は判明しました。

「株式会社 大谷金庫本店」http://www.otani-safe.co.jp/  さんからからそのまま掲載させて頂きます。
弊社は、初代大谷栄之介が明治26年、当時の東京市京橋区に店舗を設け、金庫及び鉄扉の製造販売を目的に創業。
以来、業界に先駆してお客様のご要望にお応えしつつ、父子6代110年余年を経て、国内はもちろん、遠く海外にまで進出してまいりました。
その間、昭和35年1月、株式会社大谷金庫本店を設立、現在に至っております。また、創業よりの信条として「まさかの時、役に立つ金庫」の製作に精進して、その真価は既に大正12年9月1日に起こった関東大震災、ならびに戦災時における幾多の完全奏功の実例などの示すところです。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、これから紹介させて頂きます和室部分につきましては、立入禁止区域はございません。気になる部分があれば近くからじっくりとご覧ください。但し、調度品等にはお手を触れないようご理解・ご協力を頂きたくお願い致します。

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その10 離れ和室8畳,6畳)

2017年08月16日 | 山本家住宅

洗面所のステンドグラスを背に庭の方に廊下づたいに行くと、平屋建ての離れ和室です。
この和室は数寄屋風書院造りで、8畳6畳の続き間になっています。

和室は、床の間の設えで真・行・草と格式を分ける事ができますが、ここ山本家もこの和室が真の和室、このあと案内致します2階南側の和室が行の和室、2階北側の和室が草の和室になっていると思われます。
床の間の材料やつくり等の違いを楽しみながらご覧下さい。

8畳床の間の床柱は北山杉、床框は北山杉を割ったもの、床は畳床、部屋の天井板は天然の屋久杉です。

天井板の南半分は雨漏りの修繕をしたためか、違う板が貼られています。
下の写真は、1枚目が雨漏りの為に修繕された天井板。
2枚目の写真は左が南で、右側の天井板が当初からの屋久杉です。
3枚目の写真は当初からの屋久杉の天井板です。


床脇の天袋は欅、違い棚は楓、地板は栃です。6畳との間の欄間は桐材です。

違い棚の棚板の雛留め(ひなどめ)も見事です。

6畳の間の床の間、地袋板は欅(けやき)の玉杢(たまもく)で入手困難な高級銘木です。

襖絵は小野周文が晩年興浜に帰って来られていた時に描かれたものです。

当時の和室としては高い天井となっています。
雪見障子は「その9和室6畳」で紹介したのと同じ構造ので一般的な上下スライド式ではなく横にスライドする形式となっています。

庭側のガラス戸も標準のものより少し大きくなっています。

この住宅は迎賓館と書きましたが、この和室を含めこれから紹介する全ての和室において、遠方からのゲストが宿泊された形跡が残っています。
それは、部屋の長押(なげし)の隅に夏場に使用した蚊帳を引っ掛ける金具が残っている事です。

外側の造りもそれぞれ見事です。

大きな沓脱石(くつぬぎいし)を紹介して離れ和室の紹介を終わらせて頂きます。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、これから紹介させて頂きます和室部分につきましては、立入禁止区域はございません。気になる部分があれば近くからじっくりとご覧ください。但し、調度品等にはお手を触れないようご理解・ご協力を頂きたくお願い致します。

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その9和室6畳)

2017年08月15日 | 山本家住宅

6畳の和室の紹介です。
ステンドグラスがある廊下や洗面所を通り過ぎて、庭に面した数寄屋風和室の離れ和室に向う動線とは違う奥まったところにこの6畳の和室があります。
この和室の南側には、山本眞蔵氏が長男の博通氏の婚礼の為だけに建築したと伝わる、15畳の平屋の和室が有り、昭和30年初頭に興浜の大工によって興浜金刀比羅神社前の仕出し魚屋の「まる万」の2階部分に移築されています。
この話は、シリーズ終了後番外編として掲載する予定です。

さて話を6畳の和室に戻しましょう。この部屋は建築当初何に使われていたかは不明です。
現在、タンスや鏡台等が残されていますが、これは、山本眞蔵氏の長男である博通氏(明治34年7月17日生・昭和4年2月2日つゆこさんと結婚。昭和38年10月2日没)の奥さんであるつゆこさんが博通氏が亡くなってから使用していた部屋と聞いています。
この山本家住宅で唯一生活の匂いがする部屋です。

床の間は床柱に黒柿、床框に黒檀とそれぞれ高級銘木を使用しています。





山本家住宅の障子の雪見障子は上下開閉式では無く、左右に開閉するつくりになっています。

 

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

 

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、立ち入り禁止箇所からの写真が掲載されておりますが、山本家住宅を管理しております「網干歴史ロマンの会」の了解を得ております。見学の際は調度品等を傷めるケースがありますので、赤い絨毯部分のみからの見学にご協力をお願い致します。

 

 ※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。

 


山本家住宅 (その8洗面所)

2017年07月25日 | 山本家住宅

洗面所をご案内します。
日本中探してもここにしか無いであろう、聚楽壁に埋め込まれた437枚の大和絵が描かれた貝が訪れた者を驚かせてくれます。
この大和絵が描かれた貝は、風聞では京都の美術商から購入したという事です。





離れ和室から洗面所に向かう時に突き当たる壁面にはステンドグラスがはめ込まれています。

このステンドグラスを洗面所内部から見たのが下の写真です。

洗面台は大理石を使用し、洗面部分は綺麗なマジョリカタイルが貼られています。
窓ガラスは、結霜ガラスです。


天井は、最も格式の高い、折上格天井(おりあげごうてんじょう)を照明の部分のみに施し、いっそう不思議な空間として演出されています。

 

鏡の枠は、桑の木を使用し、鏡の受けの部分は高級銘木の黒柿です。
このように、洗面所にまで素晴らしい手法を取り入れ、お客様をもてなす主人の心遣いが感じられます。

鏡の横のロウソクは電球が付くようになっています。

 驚くばかりの洗面所です。見学に来られた時はじっくりとご覧ください。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、立ち入り禁止箇所からの写真が掲載されておりますが、山本家住宅を管理しております「網干歴史ロマンの会」の了解を得ております。見学の際は調度品等を傷めるケースがありますので、赤い絨毯部分のみからの見学にご協力をお願い致します。

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その7ステンドグラス・浴室)

2017年07月19日 | 山本家住宅

洋館部分の”応接室”・”書斎”と和室部分である”離れ和室”の動線上に水廻り関係の”お手洗い”・”浴室”・”洗面所”があります。
”お手洗い”を過ぎて天井を見上げると、おしやれな六角形のステンドグラスが現れます。
天窓(トツプライト)からの自然光を取り入れる構造となっています。
当時としては斬新なアイデアだったと思われます。
自然の光でぬくもりを感じる事が出来るようになっています。
この家を訪れたゲストの皆さんを驚かした事でしょう。
暗くなれば電球で明かりが点くようになっています。


(その5書斎)で山本家のステンドグラスは、大阪の宇野澤ステンド硝子製作所が製作したようです。と書きました。
この事については、ステンドグラスについて調べておられる方からも連絡が有りましたし、これから間違い無く明らかになる事でしょう。
再度説明を記載します。

※明治23年宇野澤辰雄がドイツ留学より帰国。帰国後東京でステンドグラス製作を開始。
  明治39年宇野澤ステンド硝子工場設立。(宇野澤辰雄・辰雄養父宇野澤辰美・別府七郎・木内慎太郎)
  大正5年木内慎太郎 大阪末吉通り4丁目に宇野澤組ステンドグラス工場大阪出張所を開業。
この木内慎太郎氏の作品でしょう。
舞子ホテル(旧日下部久太郎別邸)に山本家住宅と同時期に製作されたステンドグラスがあるので掲載しておきます。

          『舞子ホテルHP』より 

天窓(トツプライト)のステンドグラスがある廊下の横に浴室・脱衣場があります。
床と浴槽が大理石で造られています。
見あげて頂くと天井も素晴らしいつくりとなっています。

浴室の天井は、和風建築のシャンデリアとも呼ばれる唐傘天井(からかさてんじょう)という珍しい天井構造になっています。
唐傘天井は、古い旧家に今でも見ることが出来ますが、その技術を伝える人が少なく、新しく家を建てる際に取り入れることは殆どなくなってしまいました。昔も、庄屋・旅籠と言った、上層階級の人が住む家や、高級な旅館でしか取り入れられず、高い技術力が必要とされました。

中央の電球が付いたところから湯気を排出していました。
大理石でできた浴槽を良くご覧下さい。
現在は外で沸かした湯を循環させる構造に変更されていますが、当初は循環させる孔はあいておらず、使用人が外で湯を沸かして左側の扉から運び込んでいたそうです。温かい風呂になるまでは相当な時間がかかったそうです。

床は大理石・腰部分はタイル・壁の板は高野槇が使われています。

脱衣場より浴室の扉を閉めてご覧下さい。
扉の取手部分が黒く輝いています。ここにも高級銘木の黒柿が使われています。

浴室の扉のガラスと脱衣場の窓のガラスは「結霜ガラス」です。

天井をご覧ください。脱衣場の天井は、格天井になっています。

 

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

参考文献:日本のステンドグラス宇野澤辰雄の世界(白楊社)

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、立ち入り禁止箇所からの写真が掲載されておりますが、山本家住宅を管理しております「網干歴史ロマンの会」の了解を得ております。
見学の際は調度品等を傷めるケースがありますので、赤い絨毯部分のみからの見学にご協力をお願い致します。

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その6廊下・お手洗い)

2017年07月15日 | 山本家住宅

応接室・書斎の洋館から和室への動線部分の廊下のしつらえも見所となっております。
タイトル写真は、大正期独特のゆがんだ窓ガラスで、いま日本では作られていない貴重なものです。
桟も一つ一つ面取りをして、高級な仕上げとなっています。

明治時代に本格的に導入されたガラス戸は近代和風建築の重要な要素です。
ガラス戸越しに見える風景が新時代の風景であったのでしょう。
ガラスの表面の凹凸のせいで歪んで外の風景が見えます。
桟木と共にガラスも面取りされており、建具職人の丁寧な仕事がみられます。

天井も曲線に加工されており手の込んだつくりとなっています。


これからこのブログで御案内する部屋においても、建具・表具・天井のつくり・床の間のしつらえ等、全て違った仕上がりとなっておりますので、注意深くご覧下さい。




お手洗いですが、便器とタイルについては、当時のものでは無いと思われます。
陶器でできたスリッパの形をしたものは、男性が用を足す際の立ち位置を示すもので、これを履いて歩く事は無かったと思われます。


現在貼られているトイレのタイルは修復された一般的なタイルですが、(その8洗面所)で紹介する予定の洗面所等に貼られているタイルはマジョリカタイルという金型で花柄など凹凸のレリーフを施したタイルで、筆で一色ずつ数種類の色釉を載せるなど製造に手間のかかった装飾タイルです。文政年間に淡路島の南端、現在の南あわじ市で賀集珉平翁が始めた珉平焼を継承したというタイルメーカーの淡陶社(現ダントー(株))は日本で最初にマジョリカタイルを製造した会社です。『株式会社DantoTile』HPより

ですので、元々はこのトイレもマジヨリカタイルが貼られていたと思われます。
何かの理由で剥がされて貼り替える事になったのでしょう。
一連のシリーズが終了後、マジョリカタイルと大正時代の網干の建物について報告できればと考えています。
お楽しみに。

この山本家住宅は大正時代のいろいろな物が残されていますが、大正時代のガラスの代表と言っても良い「結霜ガラス」がたくさん残されています。まず、このお手洗いに登場です。山本眞蔵氏がお気に入りだったのでしょうか。これからも紹介していきますのでお楽しみに。

【結霜ガラス (けっそうがらす)】
(グルーチップグラス・Glue Chip Glass、フェザーグラス・Feather Glass)
すり硝子の上に膠(にかわ)の水溶液を塗り低温で加熱すると、収縮した膠がガラスの表面を削り取ることを利用した硝子です。
剥離したように削られた部分が透明に、その他が曇りガラスの状態で、結果、全体にシダのような、また鳥の羽のような模様がまるで「ランダム」にできます。
結霜ガラスは20世紀の初め、大正中期から昭和初期に多く使われました。
現在の型板ガラスの前身で、後には模様の付いた雌型を硝子にプレスして模様を付けるようになります。
明かりを採りつつ、見えそうで見えないガラスはこうしてできあがります。
当時日本のガラスの厚さは2mmと薄いのも特徴です。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その5書斎)

2017年06月25日 | 山本家住宅

今回は書斎です。
タイトル写真は、山本家住宅の見所のひとつである、植物の曲線を取り入れたアールヌーボー風ステンドグラスの出窓です。
部屋からと外側からの写真を並べています。

山本家のステンドグラスは、大阪の宇野澤ステンド硝子製作所が製作したようです。
※明治23年宇野澤辰雄がドイツ留学より帰国。帰国後東京でステンドグラス製作を開始。
  明治39年宇野澤ステンド硝子工場設立。(宇野澤辰雄・辰雄養父宇野澤辰美・別府七郎・木内慎太郎)
  大正5年木内慎太郎 大阪末吉通り4丁目に宇野澤組ステンドグラス工場大阪出張所を開業

【アール・ヌーボー】
19世紀末~20世紀初頭にかけて、ベルギーやフランスを中心にヨーロッパ各地に波及したデザイン様式。
植物の茎や蔓、炎、波を思わせる曲線の流れに特徴があり、建築・家具では、ビクトール・オルタ、ヴァン・デ・ヴェルデ、エクトール・ギマール、工芸ではエミール・ガレなどの作品がこの様式の典型とされ、スペインのアントニ・ガウディにもこの傾向との共通性が認められる。
1895年パリにできた美術店、アール・ヌーボーの名に由来しています。


蟇股の付いた大理石のマントルピースがあり、まるで部屋全体が応接室と同じようにエ芸作品の様になっています。

床の寄木細工は応接室とは、模様も木材も違っています。
高級銘木の欅(けやき)・楓(かえで)・楢(なら)を使用しています。

壁紙の模様は、複雑で綺麗な模様です。

天井の照明の中心飾りの漆喰装飾はこの書斎の物が一番複雑な模様で手が掛っているように思われます。

応接室同様、この部屋の調度品も葉アザミの模様をモチーフにしているようです。
もちろん、オンリーワンの特注オーダー品ですね。

机の上には、山本真蔵氏の感謝状等々が飾られています。

机の引き出し取っ手部分は高級銘木の黒柿です。

このキャビネットの側面の綺麗な板は楢(なら)材です。

小さな鏡も付いて細やかな細工が施されています。

扉を縦割りの木材で構成して曲線にスライド開閉するように細工されています。

この本棚も葉アザミ模様が入っています。この取っ手部分も高級銘木黒柿です。

隣のサンルームとの窓には、タンバリンを持って新体操をしているような、ステンドグラスがはめ込まれています。

書斎隣りのサンリームは、見学時は立ち入り禁止区間になっております。
綺麗なタイル貼りの部屋で、天井照明の漆喰での中心飾りも他の部屋とは異なっています。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、立ち入り禁止箇所からの写真が掲載されておりますが、山本家住宅を管理しております「網干歴史ロマンの会」の了解を得ております。
見学の際は調度品等を傷めるケースがありますので、赤い絨毯部分のみからの見学にご協力をお願い致します。

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その4応接室)

2017年06月12日 | 山本家住宅

山本家住宅は、玄関から入ってすぐ左側の応接室とその奥の書斎と階段室が洋室の設えになっています。
その他の部屋は中には窓が洋風である和室もありますが、基本は和室です。
全ての部屋に言える特徴は、当時としては天井が高い事と、銘木が使用されている事です。
それぞれの部屋が特徴を持ち、他の部屋に無い設えになっている事に驚きを感じます。
まずは、応接室をご案内致します。

床は寄木細工、壁は玉杢(たまもく)の楓(かえで)材による腰板張りの上部クロス張り、天井は漆喰の装飾仕上げに暖炉があるという完全な洋風の造りとなっています。

床は、少し解りずらいかもしれませんが、薄くスライスした銘木を寄木細工にしています。 


壁は玉杢(たまもく)の楓(かえで)材による腰板張りの上部クロス張り。
洋室の全ての腰壁に使用されている、楓は吉野より取り寄せたと伝わっています。

 


天井は漆喰の装飾仕上げに、枠の部分は木曾桧(きそひのき)を使用しています。

風聞では、この家には煙突が無い為に暖炉は炭暖炉でした。薪では無く炭の熱を利用して、天井の隅にある通気孔から熱が伝わる構造であったようです。

暖炉は、西洋では部屋の格式を決める上での重要な調度品でした。
日本の建築でいう床の間にあたり、その部屋の顔でした。

暖炉のマントルピースは大理石で、その上に飾られている鏡の枠の部分は、高級銘木の黒柿を使用しています。
黒柿の孔雀杢(くじゃくもく)という入手困難な金額を付ける事ができない程の最高級品です。
山本家住宅の特徴のひとつと言っていいのかはわかりませんが、高級銘木の黒柿がいたるところに使われています。


高級銘木の黒柿の孔雀杢くじゃくもく)

銘木で作られたソファやテーブルの家具調度類も当初のままです。


この部屋の調度品は、葉薊(ハアザミ)、別名(アカンサス)をモチーフにされています。

楓材のテーブルは、象嵌(ぞうがん)寄せ木細工で作られた、もちろん山本家住宅のみのオンリーワンの家具です。
象嵌寄せ木細工とは、一つの素材に異なった素材を嵌(は)め込む技法です。
アンティーク家具においては、切り絵のように色をつけ、その絵にそって切り取った木片で家具の表面を飾る技法です。
その中でも象嵌は「インレイ」と呼ばれ、家具の表面をくりぬいて、異なる木材や貝殻をはめ込む技法のことです。

クロスのまわりは珍しい紐綱飾りをまわし高級感を演出しています。

今ではとても手に入れることのできない厚手のドレープカーテンも必見です。

【マントルピース(mantelpiece)】
マントルピースとは、壁つきの暖炉につける前飾りのことで、焚き口の廻りを囲む飾り枠などを指します。
暖炉の焚(た)き口の周辺部分。また、暖炉の上部の飾り棚。
暖炉のたき口を囲む飾り。木,石,煉瓦,大理石等で造る。上部に炉棚(マントルシェルフ)を設ける。
暖炉の炉の上部・側面を囲むかたちで壁面に設けられる飾枠。
木,煉瓦,タイル,石,大理石等で造られ,室内の重要な装飾要素となる。
上部には炉棚mantelshelfが設けられ,ここに陶器や美術品,写真,置時計などを並べることが多い。
その上の壁面には装飾レリーフを施したり絵画,鏡などを飾る。
マントルピースは洋室における飾棚を兼ねるもので,和室における床の間に類似した機能をもつといえる。

【ドレープカーテン】
厚手の生地や織物の総称。視線の遮断や断熱など、機能的なカーテン。

【カーテンの歴史】
日本でカーテンが使われるようになったのは江戸時代の初期で、長崎の出島に外国公館が出来た頃というのが通説になっていますが、外国公館で使用されたというもので、実際に日本人が使い始めたのは、幕末から明治にかけての時代であったと考えられています。
当時は「窓掛け」といわれ、ほとんどが輸入品の重厚で高価なものでした。
「カーテン」という言葉が使われる様になったのは、明治末期になってからで、素材として綿・毛・絹・麻などが用いられ国内で生産され始めました。
大正期に入って中産階級が増え、生活改善運動の影響もあって次第に広まっていき、関東大震災後は建築の近代化及び洋風化が進み、カーテンも増えてはきたもののまだ一部の上流階級のものでした。そして昭和30年代に入り、一般住宅に本格的にカーテンが普及し始めました。それは日本住宅公団によるアパート建設が始まってからの事であり、住宅産業が盛んになり、カーテンが生産されるようになりました。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    銘木関係:原匠江尻店長

※山本家住宅を見学された方はご存じのように、立ち入り禁止箇所からの写真が掲載されておりますが、山本家住宅を管理しております「網干歴史ロマンの会」の了解を得ております。見学の際は調度品等を傷めるケースがありますので、赤い絨毯部分のみからの見学にご協力をお願い致します。

 ※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その3玄関)

2017年06月06日 | 山本家住宅

今も昔も、玄関床に敷かれた大理石を見て驚かなかった方はいないでしょう。
明治大正時代、上がり框(かまち)に正座し、頭を下げて来客を出迎えていた状況からすれば、ここ山本家住宅での玄関でのお出迎えは立ったままでの状態であり、当時としては不思議な世界だったかもしれません。
ただし靴を履いたままで屋敷内に入る正式な洋館と違い、洋室と和室が混在する為、靴を履いたままで屋敷内に入る事はなかったでしょう。
この玄関ホールで上履きであるスリッパに履き替えていたのでしょうか。
現在、山本家を案内する時は、大理石貼りの玄関ホールに入る手前のスノコを敷いた所で靴を脱いで頂き、寒い時期はスリッパに履き替えて頂いています。ここ最近は、暖かくなったので靴を脱いだ状態でスリッパは履かずに、家に入って頂いています。
大正時代のゲストはこの大理石貼りのホールで靴を脱ぎ、そこに置いていたのか、お手伝いの方が一旦片付けたのかは想像するしかありません。



いつまでも大理石に見とれていてはいけません。天井をご覧ください。
照明の上の中心飾りは漆喰装飾です。
欧米でもこのような装飾が沢山ありますが、欧米での作り方は、まず木で装飾を施した型枠をつくり、そこに石膏を流し込んで作りました。しかし日本の左官職人は、石灰・ふ糊・麻を混ぜ合わせた漆喰を少しずつ盛り上げては鏝(こて)で丹念に浮彫りに整形する作業を繰り返し、その場所にしかない、オンリーワンの細やかな細工の漆喰装飾をつくりあげていました。

洋室にあるそれぞれの違った照明の中心飾りの漆喰装飾も紹介します。


玄関ホール

 


書斎

 
サンルーム


階段室 

腰板は楓(かえで)材を使用しております。これから案内します洋室部分の腰板は楓(かえで)材です。
楓(かえで)材の中でも玉杢(たまもく)という高級品です。
枠の部分は木曾檜(きそひのき)を使用しています。
山本家住宅の洋室の腰板は全て楓が使用されています。
山本家より4年遅れの大正11年(1922)に完成した旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎である名古屋市市政資料館の会議室の腰壁と同じです。

 

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
     銘木関係:原匠江尻店長

 

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その2玄関前)

2017年06月01日 | 山本家住宅

今回は正門をくぐり玄関前からです。
玄関は唐破風(からはふ)屋根になっています。
玄関まわりは檜(ひのき)材を使用しています。


その前に少し私のライフワークである、興浜の金刀比羅神社について触れたいと思います。
山本家の前の網干1号線の道路を隔てて北側に祀られています興浜の金刀比羅神社は、大正時代に大規模な改修工事が行われました。
その時に多額の寄付をしたのが、金刀比羅神社に崇敬が厚かった山本家当主の山本眞蔵氏です。
芳名板には、三百円(現在の300万円以上)の寄附が残っています。
大鳥居の寄進、又五十円(現在の50万円以上)の永代御鏡料の寄進もされています。

この大改修工事で金刀比羅神社の拝殿・本殿は洪水対策の為、1m近く地揚げされました。
完成は、山本家住宅と同じ大正7年です。
ここ興浜では、山本眞蔵氏が三階建ての住宅を建てる時に、金刀比羅神社を見下ろすのは失礼だという事で地揚げを行ったという話も伝わっている事等から、山本家と金刀比羅神社は切り離して考える事はできないと思われます。
玄関の唐破風(からはふ)屋根は金刀比羅神社の拝殿・本殿の唐破風(からはふ)屋根を模したものと考えられます。
金刀比羅神社は現在銅板の屋根ですが、当初は檜皮葺き(ひわだぶき)の屋根でした。
山本家住宅の屋根は杮葺き(こけらぶき)の屋根だったと伝わっています。(※現在の工事価格では、檜皮葺きより杮葺きの方が高価)

唐破風は曲線が美しく、大工の匠の技が表現される部分です。
唐破風には、「招き入れる」という意味が託されている事から、当主山本真蔵氏が網干の名士として来賓をもて成す為に建てられた迎賓館である山本家の玄関にはふさわしい意匠です。


玄関前の敷石は、金刀比羅神社の参道敷石のように真ん中をふくらませて水が溜まらないように加工されています。
表面は羽ビシャン仕上げで、外周の基礎石・山本家住宅洋館部分の大きな基礎石や金刀比羅神社の燈籠等、石工前川俵治が好んで採用した仕上げ方法です。
山本家に使用されている石材は、香川県の青木石です。同時期に行われた金刀比羅神社の改修工事に使われた石と同じ産地です。 
※明治18年(1885)3月 青木石の石切り場開く
  (丸亀市沖の北西約11キロの距離にある塩飽諸島最大の島である「広島」の青木浦字甲路に石切場を開いたのが始まり)

            
          羽ビシャン(はびしゃん)仕上げに使う道具
 
             洋館の基礎石
            
玄関に上がっていく石段は新在家の網干神社の拝殿前の石段と同じつくりです。

              網干区新在家の網干神社の拝殿の階段石
網干区新在家の網干神社は、明治42年3月2日に大国神社と宇賀神社を合祀し、同じ年の8月13日に社号を恵美酒神社から網干神社に改称したと魚吹八幡神社の記録に残っています。
その当時の8月13日は現在の魚吹八幡神社秋祭りの原形である魚吹八幡神社法放会が行われていた8月15日の前々日であり、この年に網干神社の改革があったと想像できます。

網干神社の石階段が先でそれを気に入った山本眞蔵氏が玄関に採用したのかもしれません。

二階東側の部屋は、鎧戸(よろいど)の上に千鳥破風(ちどりはふ)のつくりとなっていますが、これも金刀比羅神社の拝殿・本殿屋根を意識した形なのかもしれません。
山本家の信仰心が洋風建築に神社建築をミックスさせたのかもしれません。
『姫路市史第15巻下』にこう書かれています。
二階は、北面については出窓上部から望楼までの中央部分が半間程張り出し、全面ガラおス、引違いの掃き出し窓となっている。この部分には外側に高欄が付くという奇抜な造りとなっている。
私の意見を述べさせて頂けるなら、
この後のシリーズで紹介しますが、山本家北側2階和室と3階望楼からは金刀比羅神社を遥拝するつくりになっています。 

来客時には、窓ガラスを取り外し、窓ガラス越しでは無くオープンに外側の景色を見て頂いていたと思われます。
2階の窓ガラスは取り外されるので、転落防止の役割の高欄が付き、それが外部からのアクセントにもなっていると思われます。
写真下の2階北側の窓ガラスがある部屋は窓ガラスの内側の縁側のような部分の内側に雨戸が付いています。
これは昼間は窓ガラスを取り外した状態で、もてなした来客を宿泊して頂いた時に窓ガラスを付けずに雨戸を閉めたものと想像できます。
宿泊された証拠にこの部屋には蚊帳を架ける金物が今も残っています。
ですので、これは奇抜な造りでは無く、考えつくされた構造であると思われます。
 

                     興浜金刀比羅神社拝殿

 

             興浜金刀比羅神社東側の高い所からの山本家住宅千鳥破風部分

『姫路市史第15巻下』にこう書かれています。
屋根は洋室部分上部に反りのある切り妻屋根を架け、望楼部分は寄棟となっている。
特に注目されるのは、この切妻部分に付く懸魚の形である。
一見しただけでは日本の古い形式と見違うが、ギリシア建築の棟飾りなどに用いられるアンチフィクスが用いられている。
また、望楼の寄棟には燈籠状の棟飾りが付けられているのも面白い。
とあります。

  
〔唐破風(からはふ)〕
 屋根の切妻に付ける合掌形の装飾が破風です。
 唐破風は中央部の高い曲線をもち、玄関や門、向背などの屋根や軒に多いのが特徴です。。

〔千鳥破風(ちどりはふ)〕
 主に屋根の斜面に取り付けられる三角形の破風。装飾的に用いられる事が多く、城郭などでは唐破風と組み合わされる場合も。
 姫路城が名高い。
 興浜金刀比羅神社の拝殿・本殿も唐破風と千鳥破風が組み合わされています。

〔柿葺き(こけらぶき)〕
 こけら葺きは、日本古来から伝わる伝統的手法で、多くの文化財の屋根で見ることができます。
 防火上の見地から現在これを一般建築に用いることはできません。    
 また、こけら板とは、桧、マキなど比較的水に強い木材を長さ24㎝前後、幅6~9㎝、厚さ数mmの短冊形の薄板に挽き割りしたものです。
 厚みによって、柿葺き(こけらぶき)、木賊葺き(とくさぶき)、栩葺(とちぶき)と呼ばれています。

 柿葺き(こけら葺き)・・・最も薄い板(こけら板)を葺く。板厚2~3mm
 木賊葺き(とくさぶき)・・・こけら板より厚い板(木賊板)を葺く。板厚4~7mm
 栩葺き(とちぶき)・・・木賊板より厚い板(栩板)を葺く。板厚10~30mm
 尚、こけら葺きは、板葺きの総称として使われています。
 代表的建築物 柿葺き・・・金閣寺・銀閣寺
 ※檜皮葺(ひわだぶき)とは、屋根葺手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を用いて施工します。
 日本古来から伝わる伝統的手法で、世界に類を見ない日本独自の屋根工法です。
 多くの文化財の屋根で檜皮葺を見ることができるます。

協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド
    石 関 係:播州石材(株)・八田石材(株)・石田造園
    銘木関係:原匠江尻店長
参考文献:『姫路市史第15巻下』

 

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


山本家住宅 (その1外観・正門)

2017年05月28日 | 山本家住宅

久しぶりの投稿となります。
去年から第1,3日曜日に公開されている姫路市網干区興浜70番地の山本家住宅についてシリーズで投稿する予定です。
その1として外観と正門について書いてみます。
タイトル写真は、金刀比羅神社東側から高所作業車を使用して少し高い角度より撮影した写真です。

右奥の大屋根は大覚寺です。左上の煙突はダイセルです。

山本家住宅は平成元年7月1日付けで姫路市都市景観重要建築物等に第1号で指定されました。
山本家住宅洋館部分は大正7年に竣工しました。



大正10年揖保郡郡会議長時代の山本眞蔵(45歳) 『兵庫県郡役所事蹟録』より

応接間に掛けられている写真、昭和9年網干町長退任時(58歳)の時の写真と推定されます。
数年前、亡くなられた山本眞蔵氏のお孫さんの昭氏に見せて頂いた事がありますが、重厚な額縁に入った大きな写真だったので網干町役場に掛けられていた歴代町長の写真と推定しました。

この洋館を建てた山本眞蔵氏は、大正7年(42歳)当時の役職は次の通りです。
網干銀行重役(大正8年監査役・大正13年頭取就任?)
網干町会議員名誉助役(昭和4年町長就任)
揖保郡会議員副議長(大正10年議長就任)
燐寸製造業である山本合名会社代表(明治38年の職工数130名)

明治・大正時代の地方の名士にとって、洋館を建てることが大きなステータスだったのでしょう。



外側の壁板は日本建築の縦張りで建物の壁板は明治・大正期の西洋建築に多用された下見板張り(したみいたばり)という水平張りになっており、木材は何れも栂(とが)材を使用しており日本建築と西洋建築を見事にミックスして正面からの視覚効果を考えたつくりになっています。
(※下見板張り:ダイセル異人館・塩舎・昔の網干小学校の校舎)


屋根瓦は普通のものより小さく軒瓦には山本家の家紋である桐が焼かれています。


3階建の建物に圧倒されて、どうしても上ばかりを見てしまいますが、外壁の基礎となる石積みが、非常に丁寧な仕事が施されています。
石工(いしく)と呼ばれる職人がひとつひとつの石を曲線に加工し表面を叩き上げて積み上げています。
これらは全て手仕事です。建築年代と仕事の丁寧さから大覚寺の雨水桝と参道敷石、興浜金刀比羅神社の燈籠と山本眞蔵が寄進した鳥居を施工した地元余子浜村のこのブログに良く登場しました石川俵治の作と思われます。
山本家の玄関廻りの石積みや裏側の高い石積み又庭の石仕事も石川俵治の仕事と思われます。

建物を見上げながら、正門の門扉をくぐられる時に、電話3番と書かれた板札をご覧ください。
この家の電話番号を示したものです。この地方でいち早く電話をひかれた事がわかります。

これからシリーズで紹介します建物は、住居としてではなく、山本眞蔵氏が迎賓館として建てたものです。
内部の特徴は、洋室・和室共に天井が高くつくられ、圧迫感がなく、より広い空間をイメージさせています。
財をなして贅を尽くし、材料についても金額に糸目をつけなかったと伝わるように、銘木や高級石材が随所に使われています。



協力:網干歴史ロマンの会・あぼしまちボランティアガイド

※山本家住宅は、第1、第3日曜日の10時00分~16時00分に公開中です。


本町橋で候 その1 祝本町橋開通式

2014年11月09日 | 興浜道普請

 

 

 揖保川に新しく架かった本町橋の開通式が今日行われた。

 渡り初めに三代夫婦に加えて、興浜の檀尻が曳き出される予定であったが、未明から降り続く無常の雨の為曳き出しは中止となった。

 平成13年の魚吹八幡神社武神祭興浜当番の時を思い出させる、晴れ間続きの中をその日だけピンポイントに狙った雨である。

 浜田側から見学させて頂き写真を撮影。雨の中でもこれだけの渡り初め式は珍しいかもしれない。

 個人的には、浜田側も興浜地番なので都に上る方向で渡り初めをと考えるが致し方ない。

 住民の皆さんの渡り初めのあと、興浜檀尻に変わり興浜鐘檀尻が渡り初めを行った。

 


 

 揖保川の渡りについては、江戸時代は渡し舟であったが、今回新しく架かった本町橋の位置に明治26年5月に初代本町橋架橋、三代目は昭和32年3月に架けられた今まで我々が渡っていた本町橋、今回の新橋が三代目となる。

 明治26年(1893) ―60年― 昭和32年(1957) ―57年― 平成26年(2014)

 余談であるが、明治13年に架橋された本町橋があるようであるが、現在の本町橋より一本南側の大覚寺の筋に架かっていたようである。

 今回の開通式を機会に本町橋について書いてみようと思う。

 昭和32年3月の渡り初めの事が掲載された『広報ひめじ』昭和32年3月号

 

  

 


網干新在家産業遺産を訪ねて 手塚傳治君の碑

2014年08月11日 | 網干公民館歴史ウォーク

   
石碑については2年前の8月13日に掲載した、「新在家墓地完成ニテ御座候」と同じになりますが、もう一度紹介させて頂きます。

今からちょうど95年前の大正8年8月16日の出来事です。

当時浦役場事務責任者であった興浜の茨木利雄氏が『播磨』に掲載された郷土雑話12にその時の様子が詳しく書かれているのでその一部を紹介します。


【水難救護の犠牲者 手塚傳治】
大正8年8月16日午後4時過ぎ「ヤマゼ」(海鳴りのする西南風)が吹いていた。
網干沖で難破した船から救助を求めて来たので、網干漁業組合へ救助船一艘出すように依頼がある。
鍵本重太郎・赤木嘉吉以下8名の屈強の者ばかり乗り込んだ救助船が出動。
手塚傳治は艫櫓(ともろ)を持って居て群を抽いた大男の青年で、結婚して一子を揚げて数カ月を経たばかり。
救助方法は、波浪が高いので到底難破船には接近出来ぬから乗組員各自の体に網を付け海中に飛込ませて曳き上げる方法であった。
救助船が高波におそわれ船は覆没し乗組員は海中に投げ出されたが乗組員は10~20分で陸地へ泳ぎ付いた。
8名救助に向かったはずが7名より上陸して来ないので、残る1名は誰かと点検したら手塚であった。
第二第三の救助船を手塚傳治の捜索にあたらせたが、その日午後8時捜索隊は引揚げた。
翌8月17日
苅屋漁業組合・勘兵衛新田漁業組合の応援を求め隣保班・親族班・明友班・在郷軍人会班・漁業組合班・等々1船に3,4名乗組約数拾組4,5百名の捜索隊を編成して、御津・網干・大津の沿岸一里余の間を隈なく捜索したが遂に発見できずに終わる。
網干町婦人会応援の下に数カ所で炊き出しが行われた。
8月18日
捜索隊を縮小して隣保班・親族班・網干漁業組合班等4,5艘で捜索した処が親族班が網干港の西岸350間ある突堤の先端で腰部から足先迄白骨となっている死体を発見収容した。
8月20日
愈々死体を発見したので町葬が執行された。
斎場は網干小学校校庭
当日参列した主な人は、兵庫県知事代理・網干町会議員全員・網干警察署長以下職員・網干専売局出張所長以下職員・各村惣代・網干漁業組合長以下役職員全員・網干町婦人会長以下役員全員・網干町青年団役員全員・網干小学校生徒2,500名外教職員全員を筆頭に町民有志者一般の参列者無数。広い校庭も立錐の余地もない状態であった。

難破船の救助を求めた者は広島県大浜村の明静丸船主麓政太郎であった。

網干塩業組合へ石炭を輸送し陸揚げを終えて勘定を受取新在家の料亭福徳楼で散財中暴風となって救助を求めて来た。
遭難の場所は興浜と新在家の境界線で沿岸から4,5町離れた海中であった。
※明治晩年から大正12年頃迄難破船の取扱件数は約37,8件内死体取扱27名。
 遭難船は毎年正月と盆会の新旧暦の前後が大部分であった。


石碑だけではわからい事実が茨木さんの話から明らかになりました。

このお盆、新在家の墓地を通る事があれば、手を合わせて石碑をご覧ください。


網干新在家産業遺産を訪ねて 網干神社

2014年06月29日 | 網干公民館歴史ウォーク

 ここ網干神社には、下記の石碑に記されているように、新在家南の塩田の鎮守として祀られていた塩竈神社が合祀されている。塩の生産地であった網干のように塩にかかわる土地に祀られている神社という事で産業遺産のひとつとして紹介します。今回のウォークのコースでは最終ポイントでしたが、整理・再調査の都合で、網干神社について書いてみます。

 網干神社について改めて書く事も無いので、今回は境内にある大きな石碑の解読をしてみました。

 石碑と同じ事が書かれた、その隣にある縁起由来の説明書きが見えにくくなっているので、こちらも解読してみました。