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今回は、

「自我を消す」ことで初めて個性が出てくる

 

という話です。

 

 

 

文学の世界の話になりますが、

皆さん、「則天去私」という言葉をご存知でしょうか。

 

私の頃には高校あたりの国語の教科書に載っていたので、

ご存知の方も多いかと思います。

 

夏目漱石が言った言葉で、

小さな自分に囚われず、

大きな自然や普遍的な妥当性に従う、

という様な意味です。

 

文学者として最晩年に到達した一つの境地です。

 

未完の絶筆である「明暗」辺りの時期に当てはまる様です。

 

詳細は省きますが、

この「明暗」では、

まさに怒涛の展開が始まる直前で絶筆となってしまいます。

しかし、そのあたりの描写は、

これまでの作品を一段超えた凄みを感じます。

 

なんというか、

小さい自我が思いついたのでは無い、

運命の必然性の様なものが感じられます。

 

まさに、則天去私の境地で書かれた作品です。

 

 

また、

文学ではありませんが、

手塚治虫の火の鳥とかブッダあたりにも、

そういう境地を感じます。

 

 

 

音楽で同じ様な境地を感じられるのは、

ベートーベンの後期弦楽四重奏曲(12番~16番)あたりでしょうか。

 

時代の分類ではモーツアルトと同じ古典派ですが、

小さい自我を超えて、

人の生き死にのレベルから物をみた様な、

凄みと不思議な透明感があります。

 

20代半ばの頃に、

仕事によるうつ状態で、

死にたいと思って富士五湖に一人で車で行った時に

(なにも無く生還しました)、

一番自分の心に寄り添ってくれる感じがしたのが、

この曲でした。

 

 

 

ここで演奏についてですが、

そもそも、偉大な芸術家によって作曲された作品は

小さい自我でつくられたものではありません。

 

その作品を演奏するのに、

演奏者が自我を出して演奏するのは何か変です。

出来るだけ同じ次元で応じようとすべきです。

 

非常に簡単に言えば、

作品に対して「献身的」になるということです。

 

音楽に対して、

作曲された作品に対して、

そして、自然の法則や普遍的な妥当性に対して、

まずは献身的に接することが大切です。

 

そうして演奏した結果、

出てくる音楽に対して、

自分が心を動かされるかというのが正しい順序です。

 

先に、小さい自我に従っても誰ともその音楽は共感できません。

 

 

 

そして、

自我を消した、

献身的な表現の結果によって出てくるものが

初めて個性を持つのだと思われます。

 

アマチュアでやっていると、

たまに、

偉い先生に見てもらったのを自慢げに吹聴する人を見かけます。

 

しかし、偉い先生は、

見本は見せてくれるし、

客観的立場からは色々言ってくれるけど、

結局は自分の力でその地点に行かなければならないと感じます。

 

仏教で言うところの、「自灯明」です。

自我という余分な明かりを消しての自灯明ですね。

 

私自身、

かすかな灯かもしれませんが、

自分で自分の道を照らしながら、

少しづつでも成長していきたいと思います

 

ということで、

「自我を消す」という話でした。

 

それでは。