古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

弥生時代の倭国は九州の事

2021-12-19 13:30:44 | 歴史
邪馬台国九州説で申し訳ありません。
魏志倭人伝に登場する邪馬台国と卑弥呼
メインの部分
・女王の国まで(帯方郡:ソウル当たりから)1万2千里
・壱岐対馬を経由して末廬国(松浦半島)まで海路1万里
・残り200里で九州北部
で間違いありません。
遺跡研究からは奈良の
箸墓古墳と纏向遺跡
纏向遺跡では大きな村つくりの跡があり
卑弥呼がもらったとする沢山の鏡も出土しています。
箸墓古墳は,径100歩と卑弥呼の墓と一致
最初の前方後円墳と云われています。
魏志倭人伝にある
邪馬台国に至るには南へ水行10日陸行1月
を奴国(博多湾)を出発で南と東の間違いあり
と解釈して邪馬台国 金季節の主張です。

この二つの事実が成り立つ方法は
倭国とは九州の国の集まりで
近畿には大和朝廷の始まりの国ができ始めていた。
大陸が知る倭国の知識は
『論衡』(ろんこう)では
・周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
・成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
・周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。
紀元前1000年ぐらいです。
漢書では
楽浪海中に倭人有り、 分れて百余国を為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
後漢所では
57年 倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
実際に博多湾の志賀島で発見された「親魏倭王」の金印です。
この時代も倭国からの一方的な接触です。
その後、枠大乱が100年ほど続き
100国が30国にまとまり
女王卑弥呼が登場します。
新羅本記では
173年 - 倭の女王卑彌乎が新羅に使者を派遣した。
この時代には
邪馬台国を中心に連合国家体制が出来ていたようです。
漢は朝鮮半島に
108年に楽浪郡を設置
204年に帯方郡を設置、一大卒と呼ばれる役人たちを使って支配します。
そして魏志倭人伝では
伊都国に大陸の役人一大卒がいて恐れられています。
伊都国までの情報は間違いありません。
近くの奴国、不弥国も間違いないでしょう。
しかし、その南につまびらかに出来ない国々が
その南に卑弥呼が住む邪馬台国
さらに南に、卑弥弓呼の狗奴国です。
卑弥呼は大陸の役人を邪馬台国まで迎え入れてはいません。
邪馬台国に初めて入国した役人は
248年 卑弥呼の死後、張政らで
以後、壱与とともに新しい国造りしました。
これにて弥生時代が終焉します。
張政らは正しい邪馬台国の場所を知っていたはずですが
その場所は詳しく紹介していません。
理由は、最初に紹介した位置関係が
正しかったからです。

同じ時代に
山陰地方に出雲
近畿地方に大和
の国があり、同じように祈祷師を信仰する
祈祷信仰の連合国だったのでしょう。
もちろん、山陽地方や四国にも沢山お国がありました。
古墳時代には、それぞれの国が発展します。
後の旧唐書には
日本国は倭国の別種なり。
その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。
或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、
日本国と倭国は別で
東の国(近畿)が日本と名を変えた
それか
倭国が日本と名を変えた
それか
倭国と周囲の国々を合わせて日本とした。
いずれかはわかりませんが
倭国と日本と二つあった時代があった事は
間違いないようです。
古墳時代でも
日本は九州、出雲、大和など沢山の国々わかれていました。
その前の弥生時代は
九州も北部の倭国と南部の狗奴国があります。
九州北部が卑弥呼信仰連合の倭国で間違いないと思います。
長くなってしまいました。
次時間があるときにわかりやすく説明したいと思います。

卑弥呼の死の原因は?

2021-08-12 20:11:56 | 歴史
前の投稿
弥生時代をざっくりと
からご覧ください。
魏志倭人伝に登場する倭国の女王 卑弥呼ですが
・隣国(南側)の狗奴国との争いが激化
・大陸の魏国に仲裁の依頼をする。
・大陸の役人 張政らに倭国派遣の命令が出る(247年)
しかし、張政らが到着すると
「卑弥呼以て死す」
卑弥呼は亡くなっていたようです。
・径100歩の大きな墓に埋葬される。
・殉職者は100名
などの記載があります。
更に
・男王が立つが国まとまらず乱れる。
・13歳の卑弥呼の宗女 台与 が女王になり国がまとまる。
張政らは、卑弥呼の死後の倭国をしっかりと描写しています。

事実を目のあたりにしたのでしょう。
但し、卑弥呼の死の原因については
「以て死す」の一言だけです。
さて
当時の倭人たちは張政らに卑弥呼の死の原因を伝えなかったのか?
考えられる事
1,あえて倭国の役人が伝えなかった。
2,伝えたが張政らが大陸に伝えなかった。
※答えは一番最後にあります。
考えられる死の原因
1,老衰による死亡
2,狗奴国による殺害
3,邪馬台国内部の内乱
4,他の倭国(伊都国や奴国)からの殺害
などが考えられています。

私自身は
卑弥呼 複数説です。
180年頃から247年(或いは248年)まで
70年ほども老女の卑弥呼が生き続けることが無理
魏国に朝貢して、「親魏倭王」金印を与えられるなど
既に祈祷師が行う治世ではない。
となると
1,老衰による死亡
2,狗奴国による殺害
引き続き、祈祷政治を続けるのであれば
次の 卑弥呼を立てればよいです。
しかし実際には、次に男王が立っています。
女性の祈祷文化に終わりを告げたのです。
後の古墳時代の始まりでしょう。
武力を持つ豪族の時代の始まりです。
考えられるのは
3,邪馬台国内部の内乱
4,他の倭国(伊都国や奴国)からの殺害
です。
倭国は男王派閥と卑弥呼の様な女王派閥と二分したのでしょう。
改めて卑弥呼の宗女 台与 が女王になります。
卑弥呼と云う祈祷師の呼び名ではなく
台与と云う女性の名前になっています。
祈祷文化は終了しますが
卑弥呼の祈祷の歴史は残ります。
多分、伊都国、奴国の男王と結婚したのでしょう。
そして、新しい国名は、筑紫と変わります。
さて
魏志倭人伝に卑弥呼の死の原因が書かれていない理由
・殺害したであろう伊都国、奴国側の説明
卑弥呼は悪者で国を惑わしたので成敗した
・殺害を止めたであろう邪馬台国の説明
卑弥呼は責任を感じて自害した
この二つが、一致しなかったので
どちらが正しいか判断できなかった。

ではないでしょうか。
卑弥呼の墓は
弥生時代の最後の集合墳
大きな古墳を造る時間はありません。
殉職者100名も卑弥呼の宗女らでしょう。
唯一、生き残っていたの台与など若い女性だけでした。

弥生時代をざっくりと。。。

2021-08-12 18:48:59 | 歴史
縄文時代と古墳時代の間の弥生時代
始まりは明確には断定できません。
大陸文化が九州北部から浸透して
徐々に東へ、南九州へ広がります。
清の時代の徐福が大勢の若い人達を連れて
倭国へ亡命した事実がありますので
紀元前5世紀位が始まりでしょう。
弥生時代の終わりは意外と明確です。
卑弥呼の死
魏国の滅亡
いずれも3世紀中ごろの事実です。
・環濠集落
・銅矛文化圏、銅鐸文化圏が無くなります。

・鉄製武器が近畿まで広がっています。

祈祷信仰から武力の時代に変わったのが古墳時代でしょう。

弥生時代
九州北部は紀元前5世紀~3世紀中ごろ
近畿など倭国東側では
紀元前2世紀ごろ~3世紀中ごろ
かなりの幅があります。
そして、卑弥呼が女王になったとされる年代も
やや幅があります。
倭国大乱の収束の時ですが
2世紀後半です。
卑弥呼が亡くなった年ははっきりしています
247年です。
弥生時代が
中期は倭国大乱の時代(2世紀頃、約80年)
後期が卑弥呼女王の時代
後の時代の名前が
鎌倉時代、戦国時代、江戸時代ですので
この二つの時代に分けても良かったかもしれません。
但し、倭国大乱の範囲や
卑弥呼が収めた倭国の領域も定かに出来ませんので
文化的な側面で、弥生時代と表現されています。
2世紀中ごろに祈祷に関する信仰が無くなり
全国的に古墳文化に突入したことは間違いありません。
弥生時代の始まりと比べると
弥生時代後期には
日本列島の交流も盛んになっていたはずです。

弥生時代の大陸の歴史

2021-08-01 16:37:51 | 歴史
ここで、ざっとですが
日本の弥生時代(紀元前500年位から250年ほどまで)の
大陸の歴史をまとめておきます。
秦(紀元前221年~206年)
秦の始皇帝で有名ですが、わずか一代です。
この時代に覚えてほしいのが
始皇帝に滅ぼされた斉国の方士 徐福です。
何と始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と申し出て
2度も日本へ来ているようです。
そして、最後は帰国しませんでした。
3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え
財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出

日本の各地に徐福伝説があって
各地で弥生文化の国々を立ち上げたのではないでしょうか。
海を東へ渡ると仙人が住む島がある。と云う伝説
これが、大陸が持っている日本の情報でした。
前漢(紀元前206年~9年)
新 (9年~23年)
後漢(23年~220年)
一度滅びますが、前漢、後漢合わせて400年位

57年 後漢の初代皇帝 光武帝が贈った 「漢委奴国王」の金印
実際に博多湾で発見されて、国宝になっています。
107年 倭国の王と名乗る師升等が生口160人を献じた。
この時、東の海のある倭国の正しい情報が伝わったでしょう。
後漢書に紹介される倭国は
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。
およそ百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。
国はみな王を称し、代々受け継いでいる。
その大倭王は邪馬台国に居る。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里、
その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。・・・」
この時代には、大陸の役人「一大卒」が伊都国に駐在して恐れられていたようです。

魏蜀呉の三国時代
魏志倭人伝に邪馬台国の女王として卑弥呼が紹介されています。
後漢書も三国志も後に作成されているので
お互いに、全く同じ内容が登場します。
238年 卑弥呼が魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。
247年 狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣
但し、張政らが到着すると卑弥呼は亡くなっていた。
後漢は、西方のクシャーナ朝にも「親魏大月氏王」の金印を贈っています。
遠く離れた西の国と海の先の倭国との交流は大切だと判断したようです。
魏国も265年に滅んで、大陸が乱れます。
朝鮮半島北部の高句麗が力を付けて、大陸との交流が途絶える。
朝鮮半島が百済、新羅、伽耶があり倭国と高句麗との間で争いが絶えなかった。

日本も古墳時代となって、各地の豪族の時代
筑紫、出雲、大和などが出兵しているようです。
時代が流れて聖徳太子の時代(飛鳥時代)
607年に直接大陸 隋の煬帝へ送った手紙
小野妹子らが遣隋使として渡します。
日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。
で始まります。
相当の怒りをかったことは間違いありません。

古代の言葉 ひい、ふう、みい ②

2021-08-01 12:23:53 | 歴史
前の投稿の続きです。
大陸の文化が古代日本に大きく影響を与えた時期は
・弥生時代
 大陸人が移住して、農耕や建築などの大陸文化を伝えます。
 青銅器や鉄製品が伝わり、武器になります。
・平安時代
 仏教と共に漢字が伝わります。
 遣隋使や遣唐使の派遣など、積極的に大陸文化を取り入れます。
古代ですので、言葉も少なかったでしょう。
古くからあったはずと云えば
・地名(氏名)などの固有名詞
・自然界の出来事や物
 山、川、海や雨や風など
 もちろん、住む為の建物や器などの土器もあります。
 残念ながら、何と発音していたのか?わかりません。
・数と単位など
 残念ながら、距離の単位 里 や時間などは無かったようです。
 その代わり、 距離は 歩
 一日で移動できる距離 など単位になります。
 数を数える言葉
 指を折りながら十進数 ひい、ふう、みい・・・とう 
 はこの時代よりあった言葉です。
 時間も 朝や昼、夜ぐらいではないでしょうか。
 四季がはっきりする日本列島、春夏秋冬はあったでしょう。
現代も残る地名で、漢字の意味、読みが不明な地名
大和、飛鳥、筑紫、出雲、飛鳥、安芸、吉備・・・
「古事記」神武東征のルートを見ると
当時の国々の名前や場所がはっきりします。
これらは、古墳時代より以前よりあった国名(地名)です。
大和 と書いて、ヤマト
出雲 と書いて、イズモ
漢字の意味は良いのですが、読みと合わないですね。
筑紫はチクシ、漢字の意味も良い上に、読み方もあっています。
いずれも発音が3音です。
弥生時代を紹介している「魏志倭人伝」では
福岡の博多湾あたりが、奴国
糸島あたりが伊都国 ですが
これらの発音の地名は出てきません。
壱岐、対馬が、一大国、対馬国 
たまたまかもしれませんが、島の数と漢字が一致します。
博多湾にあったはずの奴国も伊都国も
後の神話などにも登場しません。
古墳時代には、筑紫国になっていたのでしょう。
平安時代後期には、国名(地名或いは一族名)は
発音で3音が主流になっています。
大陸から移住した弥生人に権力が移動したのでしょう。
さて、数の数え方
ひい、ふう、みい・・・は
弥生時代に大陸人が使った言葉でしょうか?
大陸文化であれば、この時代に
イー、アン、スーに変わっていたはずです。
ひい、ふう、みい は弥生時代より前の言葉ではないでしょうか。
いずれも二音で、最後が母音です。
日本神話の天照大神の天岩戸隠れで
天児屋命が「ひふみの祝詞」が
ひふみよ いむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ
意味不明ですが、始まりが
ひふみよ いむなや こ・・・
一から十まで。。。。
数の数え方は、かなり古くよりあって
始まりは、発音で一音ではなかったのでしょうか。
一音では、他の言葉と重複してしまうので
ひい、ふう とが、一音だけ母音をつけて
数とわかりやすく変化させた。
と思うのですが、如何でしょうか。
現代に至っては
ひとつ
ふたつ
みっつ
よっつ
と 最後に つ を付ける様に変化しています。

古代の言葉 ひい、ふう、みい ①

2021-08-01 12:23:07 | 歴史
日本語から歴史を遡るのも楽しいです。
古代から残っている言葉
・縄文時代の言葉
・弥生時代の言葉
・平安時代以後の言葉
に分けてみます。
もちろん、縄文時代から弥生時代への変化の年代は定かではありません。
紀元前500年位から大陸文化が九州北部に伝わり
徐々に西へ広がっていきます。
弥生時代から古墳時代の変化は結構はっきりしています。
卑弥呼の死、魏国の滅亡
3世紀中ごろに急激に全国で古墳を造る風習が広がります。
平城京、長岡京、平安京と都と移動した歴史もはっきりしていますが
近畿の歴史であり、その支配が広がるの平安時代以後です。
これらを踏まえて、現在の数値の読み方です。
一 二 三 =>いち、に、さん
間違いなく中国語が元になっています。
イー、アル、サン・・・
一方、現在でも、物を数える時は
ひとつ、ふたつ、みっつ
こちらは
ひい、ふう、みい・・・
です。
当時の書物である「古事記」や「万葉集」なども平安言葉ですが
数は、ひい、ふう、みい です。
漢字に音読みと訓読みがあります。この時代の影響ではないでしょうか。
例えば、四季(全て二音)
春 はる、シュン
夏 なつ、カ
秋 あき、シュウ
冬 ふゆ、トウ
貴族の間では、古来からの日本語を使う一方
役人や仏教関係者は、中国語の影響を受けた
新しい日本語を使っていたと思います。
観世の伝来と大陸の文化(仏教や政治など)で
日本語の発音が大きく変わったでしょうし
言葉も増えたはずです。
続いて、漢字伝来より以前の言葉を探してみます。
もちろん、ひい、ふう、みい・・・も
観世の伝来より古い日本語です。

邪馬台国九州説の主張

2021-07-03 14:56:37 | 歴史
邪馬台国の所在地の大勢は
九州説と近畿説です。
九州説は、魏志倭人伝など歴史書がベース
近畿説は、遺跡など発掘がベースです。
九州設の主張です。
・邪馬台国の名前は魏志倭人伝にしか登場しない。
 近畿の大きな遺跡があっても
 それは、他の国
・邪馬台国まで1万2千里(海路10日陸路1月)
 壱岐対馬を経由して博多湾の奴国まで1万6百里
 残り1千4百里では近畿までは無理
・邪馬台国は倭国の南端
 奴国など玄海側国の南に30国
 その南に邪馬台国
 更に南に、邪馬台国に属しなく狗奴国
・めぐりまわる事5000里
・東へ海を渡る(海路1日)で倭人の国
倭国が九州北部で周防半島から四国へ渡り倭人の住む国

魏志倭人伝に対する近畿説の主張
・奴国へ到着した後に
・南へ海路20日で投馬国
・更に南へ海路10日陸路1月
これでは九州を飛び出して南海の孤島へ
ここには陸を1月地域は存在しない。
だから方角を南と東を間違っている。
確かに
博多湾(奴国)から東へ海路で出雲
出雲から海路で東へ、若狭湾
そこから南へ陸路で1月で大和
これに対する九州説の主張
奴国を紹介した後に
投馬国、邪馬台国は紹介しているが
出発地点はあくまでも帯方郡(現在の平壌?)
帯方郡から南へ海路20日で投馬国(それなり大きな国)
帯方郡から南へ海路10日+陸路1月で邪馬台国
帯方郡から末路国(松浦半島)まで海路で1万里
一日1000里で10日
そこから陸路で28日
陸路1日100里で2800里程
奴国まで600里なので残り
2200里程で邪馬台国
別のルートで行くと1万2千里
松浦半島から有明海へ出るルートだと近道で
2000千里・・・
皆さんは九州の地図をみて
邪馬台国はどのあたりと想像されますか。

漢の時代に大陸人が移住し始めて弥生時代に
玄界灘の倭国と関係が深くなった(漢委奴国王の金印)
魏の時代の情報は伊都国経由
邪馬台国の祈祷師 卑弥呼を中心に30国の連合国
その南に、狗奴国
もう一つ大国 投馬国(ズマ国)があった。
多分、ズマ国は出雲(イズモ)??
こんな感じと考えているのですが
如何でしょうか。


日本神話「国産み」から考える日本地図

2021-07-03 13:26:07 | 歴史
日本最古の歴史書「古事記」に登場する
イザナミとイザナギ(夫婦神)による
日本の国土が出来たお話です。
国産み
最初は失敗、流産があったようです。
水蛭子(ヒルコ)
淡嶋(アワ島)
生々しい表現もあります。
あれをしたら子供が生まれる事は知っていた。
正しい声掛けの手順も紹介しています。

大八島国
淡道之穂之狭別嶋(アワヂノホノサワケ島) - 淡路島
伊豫之二名嶋(イヨノフタナ島) - 四国(四つの顔)
・愛比売(エヒメ)
・飯依比古(イヒヨリヒコ)
・大宜都比売(オオゲツヒメ・オホゲツヒメ)
・建依別(タケヨリワケ)
・隠伎之三子島(オキノミツゴ島)
隠岐
筑紫嶋(ツクシ島) - 九州(四つの顔)
・白日別(シラヒワケ)
・豊日別(トヨヒワケ)
・建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)
・建日別(タケヒワケ)
伊岐嶋(イキ島) - 壱岐
津嶋(ツ島) - 対馬
佐度嶋(サド島) - 佐渡
大倭豊秋津嶋(オホヤマトトヨアキヅ島) - 本州

幾つか考察します。
1,北海道が登場しません。
 当時の大和朝廷が把握していたのは 本州まで
2,九州と四国は、四つの顔 を紹介
 本州の次、大きな島です。
 4つに分けています。
 実際に4つの権力があったのでしょう。
3、本州に顔がありません。
 吉備の国、出雲の国などいくつも顔(権力)があっと思います。
 東海や関東など地域も紹介してくれてると良かったのに??
4,淡路以外の島は、すべて日本海
 順番で、近畿に一番近い 淡路島
 四国が産まれて、隠岐の島
 九州が産まれて、壱岐対馬、佐渡
 最後に本州
 九州の一番大きな天草が登場しない?
 奄美の島々~沖縄
 小笠原諸島、北方四島など登場しません。
 当時の大和朝廷では支配どころか知ることも出来ていない。
 次に生まれる、六島
吉備児嶋(キビノコ島) - 児島半島
小豆嶋(アヅキ島) - 小豆島
大嶋(オオ島) - 屋代島?
女嶋(ヒメ島) - 姫島?
知訶嶋(チカ島) - 五島列島
両児嶋(フタゴ島) - 男女群島?
5,やはり長崎と瀬戸内海の島々です。
 伊勢湾や東海地方にも沢山の島がりますが
 一切登場しません。
 大和朝廷が東海や関東地方と交易がなかった?
 いえいえ、古くから遠くは東北地方と近畿の交易はありました。
 大和朝廷が重要視する(歴史的評価がある)地域は
近畿から
中国、四国~九州であった事は間違いないです。
大和朝廷から見た倭国は
近畿(大和)~出雲~筑紫
のルートと中国地方、瀬戸内海の地域
そして歴史は流れて
後の室町幕府、江戸幕府と東京へ
現在の東海道新幹線のルートと同じになっているのが不思議ですね。
当時にトンネルを掘る技術はありませんの
現在の鉄道ルート、国道ルートは
今も昔も変わらないです。
もちろん
新幹線となると近代の経済活動を考慮して決定されていますが
そこには日本地形と関係あると思います。
一例ですが、九州

門司~博多 玄界灘側ルート
長崎本線  有明海側ルート
鹿児島本線 有明海側ルート
季節がら波風が強い限界側、太平洋側より
有明海側ルートが交易には有利です。
栄えていた国々がありました。
この事は「古事記」で作成された日本神話には
詳しく書かれていません。
「古事記」は
大和朝廷の正当性を主張する歴史書だからです。

2世紀から5世紀までの国造り

2021-05-01 20:56:29 | 歴史
6世紀と云えば
・25代継体天皇
・仏教伝来(漢字の普及)
・蘇我氏VS物部氏(飛鳥時代)
・聖徳太子(沢山の寺院)
「古事記」「日本書紀」の内容も信ぴょう性があります。
2世紀(弥生時代)~5世紀(古墳時代)の倭国は???
頼りにしたい「古事記」なども
大和朝廷の正当化
各地伝承の集大成
初代神武天皇の即位を紀元前600年に設定
かなりの矛盾が発生しています。
私なり、こう考えるとスッキリする・・・です。
2~3世紀の倭国
九州王朝と大和王朝の2王朝説がありますが
私ももっと沢山、多王朝だと思います。
「魏志倭人伝」に登場する倭国大乱(2世紀位)
倭国とは九州の事です。
30国がありお互いに争っていた
九州北部の30の集落です。
環濠集落、戦争で亡くなったと思われる遺体
九州北部に集中しています。
鉄製の武器も九州集中です。

武器を信仰した銅矛文化圏も九州です。

九州南部は狗奴国(こちらもいくつかの集落の集合体)
他にも、出雲王朝、大和王朝の他、山陽、四国、北陸にも
沢山の集落が集合体を形成し始めた時代です。

卑弥呼の死後(3世紀後半)護国も滅んでしまい情報が途絶えます。
この時の九州は
北部の筑紫(伊都国。奴国連合)
豊国(大分:台与の国)
肥国(宮崎?熊本?)
南部の熊襲国(狗奴国)
まだ一つにはまとまっていません。
この時代(古墳時代)に鉄製品が山陽から近畿へ広がります。
これが神武東征の伝承
神倭伊波礼毘古命兄弟(兄の名前がイツセなのでもっと簡単な名前があったはず)
一族が日向を出発、宇佐(豊国)、岡田宮(筑紫)に立ち寄ります。
目的は鉄製品と鉄職人を得る事
山陽ルート(安芸、吉備)で長年滞在して鉄製品を普及
この調子で近畿もと思い・・・
ナガスネビコが待ち構えていて敗退
南へ迂回、多分、伊勢方向へ向かうも途中で台風にあい熊野で上陸
奈良盆地で国づくりを始める。
宿敵ナガスネビコを倒して名前をヤマト(邪馬台)とする。
4世紀ぐらいでしょうか。

古事記による天皇家は
日本武尊の熊襲征伐(12代景行天皇の子供)
神功皇后の三韓征伐( 14代仲哀天皇の妻)
4世紀後半とすると、やはり7~8代は
割愛しないと年代が合いません。
そして、この時代
大和朝廷の支配力は九州までは及んでいません。
宗像大社の秘宝を考えても九州王朝は健在の様です。
出雲王朝、越国などもあったでしょう。
百舌鳥古墳群古墳群(5世紀~6世紀)

16代仁徳天皇~25代武烈天皇の時代も
大和朝廷の領域は変わらなかっと思います。
この時代、倭の五王
九州を通らないと行けない朝鮮半島へ出兵
倭の五王は
筑紫王朝、或いは出雲王朝の人達ではないでしょうか。

6世紀は古事記の通り
・26代継体天皇
近畿と越国(北陸が一つにまとまる)
まだ九州は筑紫で大和朝廷には反攻中です。
527年 磐井の乱 でやっと九州が手中に
・仏教伝来、聖徳太子
・蘇我氏VS物部氏
近畿も乱れて権力闘争に明け暮れる。
・大化の改新
京都の大和朝廷が西日本を一つにまとめた時代です。
意外とスムーズに腑に落ちると思うのですが
如何でしょうか。

古代の信仰の流れ

2021-04-29 18:14:22 | 歴史
今日の投稿をまとめておきます。
詳しくは前の投稿をご覧ください。
1,縄文時代
  約一億年位前から日本列島に住み着いた縄文人が
  長い時間を経験して日本独特の縄文文化を創り出します。
  当時の縄文人の信仰は自然界の全てです。
  めったに見ることが出来ない自然物
  ・大木や大きな岩など
  ・大きな泉や滝など
  に祈りをかけています。
2,弥生時代
  農耕が大陸から伝わり集落生活が広がります。
  身分や専門の仕事など分業が進みました。
  そして現れたのが自然界の神様と交流できる祈祷師 ミコ
  銅矛や銅鐸が祈祷の道具として使われます。
  権力高い祈祷師 ミコ は鏡なども使い
  専用の建物の中で大勢で生活し、周囲は武人で守られています。
  そして、30の国から信仰を任せられた祈祷師がヒミコです。
3,古墳時代
  卑弥呼の死後、神様への信仰が無くなり
  その土地の王が権力の頂点になります。
  その権力を維持する為に大きな古墳を造り
  ご先祖様の意志を感じる先祖信仰にかわります。
4,飛鳥時代
  蘇我氏(聖徳太子なども)が勧めた仏教の布教です。
  近畿に沢山の寺院が建てられますが
  蘇我氏も暗殺され、大化の改新へ
5,平安時代
  都を京都へ移して、天皇家を倭国の代表とする大和朝廷の国造りです。
  仏教の経典に負けない広大なストーリーを文書化します。
  「古事記」の上巻に書かれている日本神話です。
  各地にあった先祖崇拝を取り止め、出雲の様な強力な信仰は取り入れ
  天照大神の子孫が本家で神宮
  その他の神様は分家扱いで大社
うまい事、国をまとめた平安時代の識者に感服します。
当時の神社制度が現在も脈々と続いています。
高天原に残った天照大神
その子孫、ニニギに三種の神器を渡して天孫降臨(高千穂)
その子孫、神武天皇兄弟が東征(日向から瀬戸内海経由で奈良へ)

三種の神器は近畿を転々として、倭姫によって
現在の伊勢神宮へ
三種の神器の一つ 草薙剣は、天孫降臨の道案内を務めた
猿田彦を祀る熱田神宮に祀られています。
京都を中心に、西に出雲大社、東に伊勢神宮は偶然でしょうか。

出雲大社のある松江市に、黄泉の国への入り口があります。
太陽神である天照大神は日の出の方向がふさわしいと思うのです。
この時代、国をまとめるには信仰は不可欠です。