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玉日姫との結婚譚

2024年04月19日 | 親鸞聖人

『親鸞に秘められた古寺・生涯の謎』(山折哲雄編者)からの転載です。

 

『親鸞正明伝』が記す九条兼実の娘玉日姫との結婚譚

 現代では親鸞の妻というと忠信尼のイメージが根強いだろうが、「親鸞は恵信尼と一緒になる前に別の女性と結婚していた」とする伝承も真宗教団では古くからみられた。その女性というのが、第1章でも言及した、関白九条兼実の娘とされる玉日姫だ。親鸞と玉日姫の結婚について詳述するのはり「親鸞正明伝」である。親鸞は法然の門下に入っておよそ半年後の建仁元年(1201)十月、すなわち二十九歳のとき、法然の指示によって玉日姫と結婚したのだという。同書のそのくだりを、要約して記してみよう。

 〈建仁元年十月上旬、九条兼実が法然の吉水の禅房を訪ね、仏法談義をかわした。そのとき、兼実が「出家の念仏と、私のような在家の念仏とでは、その功徳に違いがあるのでしょうか」と訊ねると、法然はこう答えた。

 「持戒と無戒の念仏は全く同じで、功徳に優劣はありません。女犯や肉食を戒めて念仏をすれば功徳があるというのは自力を旨とする聖道門の教えです。他力の浄土門では持戒も無戒も関係なく、出家と在家の違いもありません」

すると兼実が言った。

 「持戒でも無戒でも念仏の功徳に差がないというのであれば、あなたの弟子の中から一人、不犯の清僧を選び、破戒させて私の娘と結婚させてください。そしてそれを、末世の在家の男女であっても見事に往生できるという模範にしてくださらないでしょうか」

 「なるほど、その通りです」と答えた法然は、「綽空(親鸞)よ、あなたは今日から兼実公の仰せに従いなさい」と命じ、親鸞を兼実の娘玉日姫と結婚させようとした。親鸞は出家の戒律を犯すことになるので涙を流して拒んだが、法然は「あなたは今年の初夏(四月)、

(六角堂で)救世観行から尊い夢告を受けていたはずです。今さら隠すことはないでしょう」と言い、親鸞に改めて遁世した理由を訊ねた〉

 このあとは兼実と法然、門弟たちを前にした親鸞の告白が続き、かつて慈円の弟子として比叡山にいたとき、慈円が朝廷の求めに応じて優れた恋の和歌を詠んだことがきっかけで「一生不犯のはずの高憎が男女の恋のあやを知っているのはおかしい」という風評がたち、そのスキャンダルに親鸞もまきこまれ……という詰が語られるのだが、長くなってしまうのでここでは省かせていただく。ともかく、この騒動によって親鸞はすっかり比叡山がうとましくなり、六角堂参詣を思い立ち、やがて思いがけず法然のことを知るに至ったのだという。

 遁世の経緯を語り終えた親鸞は、六角堂夢告で救世観世本によって示された女犯偈のこともみなに打ち明ける。女犯偈とは、第1章で紹介したように、「行者宿報設女 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」の四句からなるもので、女犯・妻帯を往生の道として許容している。

 親鸞は、尊敬する師の指名とあれば反対することもできず、また兄弟子たちの勧めもあったので、ついに当時十八歳の玉姫との結婚を決意する。

『親鸞正明伝』はこの親鸞と玉日姫の結婚譚について、「兼実公は凡夫往生の正信を広く伝えたいと思って、愛娘を貧しい黒衣の妻にし、法然上人は阿弥陀仏の教えが優れていることを明らかにするために、愛弟子を在家修行者の先達とした」と総括している。ちなみに、この結婚があったという建仁元年の時点で兼実は五十三歳であり、関白を退任して政界を引退してから五年が経過していた。

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