「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
1995年8月15日
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
南京大虐殺
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)
731部隊
ニュース257号
2023年の記事
原爆投下直後の惨状を克明に描いた映画「ひろしま」(1953年、関川秀雄監督)が8月4~10日、宝塚市のミニシアター「シネ・ピピア」で上映される。
原爆投下直後の惨状を克明に描いた映画「ひろしま」(1953年、関川秀雄監督)が8月4~10日、宝塚市のミニシアター「シネ・ピピア」で上映される。
広島で被爆した子どもたちの文集「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」を基にし、全国の教職員の寄付で制作された。
広島市出身で宝塚歌劇団員だった月丘夢路さんや、岡田英次さん、山田五十鈴さんらが出演。被爆者を含む延べ8万8000人の市民がエキストラとして参加し、原爆投下後の救護所や水を求める人で埋まった太田川の様子、戦後の被爆者の苦しみを再現した。
1955年にベルリン国際映画祭で長編映画賞を受けたが、「反米的」などの理由で当時は上映の機会が限られた。6年前に映像を鮮明にしたデジタル化を終え、制作から70年を迎えた今年、全国で公開している。
「ひろしま」の上映活動を続ける映画プロデューサーの小林開さん(50)は、祖父がこの作品の監督補佐を務めたといい、「犠牲者への鎮魂や原爆被害を風化させたくないという願いを込めて多くの市民が映画にかかわり、その思いがスクリーンににじんでいる」と話している。
日航123便の怪(1985年8月12日)
- 東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。
・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
雑報10号(22巻、1938年)
※中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
三田村は、真実を隠すだろう。
尚所長に代わって述べられた三田村教授の追悼の辞は次の様であった。
故中込亘君を想う
三田村篤志郎
君の第4種の研究は細菌の生物学的性状に関するものでこれに属するサルモネラ菌属の生物学的性状を検査された研究はわが国におけるこの種の研究中衆に先つものの1つであります。又赤痢菌及び大腸菌のデヒドロナーゼに関する研究は君の博士論文でありますが、この研究によって赤痢菌及び大腸菌の分類学上の重要な一規準が発見されたのであります。
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
吉田裕監修
2001年ピュリッツァー賞受賞
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第2部
V
9月15日、外相幣原は奉天総領事から、関東軍が大規模な攻撃を始めようとしているとの極秘電を受け取った。その後数日にわたって報告が相次ぎ、幣原には関東軍の企みの大要が明らかになった。にもかかわらず、幣原は満州事変の当初数ヵ月間、被害者である日本は条約の尊厳を守るため、単に自衛権を発動しているにすぎないと主張して、西洋諸国に対する関東軍の中心的弁護者となった。南は、参謀本部第1部(作戦)長の陸軍少将建川美次に書簡を託し、新任の関東軍司令官本庄繁に私的にそれを届けるよう依頼した。