細菌戦から核戦略へ!!

2024-03-07 08:19:25 | Weblog
 
 
南京大虐殺

南京大虐殺

 
 

南京大虐殺(マギーフィルム)

パネー号撃

 

      
 
 
 

 
 
 
重慶爆撃
 
 
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、
日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。
(視聴者のコメント)
 

苦干(重慶無差別爆撃)

 

 


 

 
 
731部隊

 
 

731部隊展

 

 
 
 
原爆
 

ニュース257号

 

 
 
日航123便の怪
 

【森永卓郎×倉田真由美】 日本航空123便墜落事故で分かった新事実

 
 

●東京帝国大学伝染病研究所
 
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
 

●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

・1938年6月1日の伝染病研究所で石井四郎の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?精神的緊張裡とは、何のことだろうか?

 

実験医学雑報20巻 第7号(1936年)

本所職制改正

この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。

 

*特別研究室とは何だ??

 

 

実験医学雑報22巻 第7号(1938年)

学術集談会

去る6月16日(木)午後1時から本所講堂に於いて学術集談会が催され、その演題は次の様であった。

演題

1、顕微鏡写真に現れる微粒子体の大きさについて       野田省吾君

2、微生物類に及ぼす種々Glykoside類の影響について(第1報) 東風睦之君

3、トリコモナスに関する研究 第4報 牛の生殖器 トリコモナスの培養について  
                              森下哲夫君

4、家蟎(だに)の内部構造 第1報 消化器系等について    森下哲夫君

5、家蟎(だに)の再帰熱スピロヘータとの関係          森下哲夫君
6、BCG人体接種の所見                   酒井皐二君
7、瓦斯壊疽予防に関する研究          小田通男君、宮崎正之君、新井三九雄君
8、Frei反応に関する研究                    橋本康義君
家蚕膿病病毒の限外濾過試験                 矢追秀武君、渡邊静雄君

 

 

 
 

●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)

吉田裕監修 

 2001年ピュリッツァー賞受賞

 ※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!

戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!  

 

第2部    仁愛の政治

1922(大正11)年―1930(昭和5)年

 




 

 

 

 

 

 

第6章 政治的君主の誕生

 さらに日本において不戦条約が十全に受け入られなかたのは、天皇が外交と国際法の教師立(たち)作太郎からこの問題で助言を受けていたためでもあった。当時、立は、条約の意図と重要性に対する批判を公表していた。確かに天皇は、西洋諸国との協調を保つため、議会が彼の主権についての議論を終えて条約の批准が実現することを望んでいた。1929年3月から6月初めまで、彼は折にふれて議会と枢密院における条約の扱いについて田中首相に問いただしている。しかし彼は、(治世中に期限が切れるであろう)満州における日本の租借権をめぐる中国との紛争解決も、すべてこの条約の定める平和的手段によらなければならないとは考えていなかった。清朝との交渉で結ばれた条約に端を発し、のちに軍事的既成事実を背景とする合意で拡張された満州に関する条約と権利は、彼にとっては侵すべからざる、武力によってでも保護すべき祖父の遺産であった。


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