細菌戦から核戦略へ!!

2024-04-12 10:50:36 | Weblog
 
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
 
 
南京大虐殺 

 
南京大虐殺(マギーフィルム)
パネー号撃沈
 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

731部隊 

731部隊展
 
 原爆    
ニュース257号

 
1946年にピューリッツァー賞を受賞したこの本により、アメリカが隠蔽しようとした事実が慎重に、そして確実に、世に公表されました。
※本記事は「Esquire」UK版のコンテンツディレクター、ウィル・ハーシーが寄稿した記事を抄訳したものです。
史上最も偉大なジャーナリズム、
『ヒロシマ』に記された衝撃とは?
 
 その内容のほとんどが、生存者たちの目を通して語られています。例えば、「藤井医師は死ぬと思う間もなく、自分が生きていることに気がつきました。2本の長い材木に胸を挟まれ、2本の巨大な箸につままれた肉塊(にくかい)のように圧迫されていたのです」
 
 恐ろしく、そして心を揺さぶられる作品です。細部の描写、控えめな散文、そして今では「現代的」と言えるかもしれないカット割りのスタイルが相まって、火事・荒廃・ゾンビのような隣人・飢餓・毒といった目を背けたくなるようなものに直面した6人の男女の運命をつづっています。今振り返れば、「若い頃の自分が『アステリックス』のようなコミック本ばかりに夢中になっていて良かった…」と思えるほど、その内容は悲哀と遺憾に満ちていました。
 
 

日航123便の怪(1985年8月12日)

 

 

     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より

 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報12号(22巻、1938年)
学術集談会
去る11月24日(木)午後1時から講堂に於いて、下記の様に学術集談会が催された。
演題
1、結核海猽の臓器組織呼吸に関する研究    大林啓二
2、Slide Cell Cultureに関する研究      清水文彦
3、猩紅熱の予防接種について         矢追秀武
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 その晩、宮中グループは原田の私邸に集まった。出席者は木戸(『木戸日記』は利用価値の高い資料である)、近衛、貴族院議員岡部長景に、華族がもうひとりいた。そろって40代の彼らは西園寺や牧野には批判的で、満州問題を武力で解決しようとする軍部に同調するところがあった。彼らは、上級司令部の命令がまったく遵守されていない状態にあること、そして事態の悪化を防止し、これ以上国際世論を損なわないようにするとの当初の内閣の要望に天皇が同意していることを確認した。
 
 
 

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