その241 言葉の現在を考える | ココハドコ? アタシハダレ?

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自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

 最近2冊の本を読んだ。中公新書から出ている「言語の本質」と言視舎という出版社から出た「小説 啄木と牧水」。これから私が始めようとしている「日本語教師」にかかわりがありそうな話題にひっかけて若干の感想など書き留めておこうと思う。

 

  

 

 まず、「言語の本質」。

 認知科学者と言語学者の共著で、人は生まれた時、最初にどのようにして言葉を身につけ、そこからどうやって膨大な言語体系である言葉を学習してゆくのか、そのプロセスを検討しながらタイトル通り「言語の本質」とは何かということに迫ってゆく。専門的な事をわかりやすく書いた知的刺激に満ちた一冊。

 

 中で、ひときわ私の関心を引いたのが「記号接地問題」。これは元々は人工知能(AI)の問題として提起された問題で、私たち素人でも感じる疑問、たとえば果物のメロンをそのビジュアルイメージとともに「甘酸っぱい」「おいしい」と教えれば、AIはメロンを「知った」ことになるのだろうかという問題である。

 同じようにイチゴも「甘酸っぱくておいしい」と教えたらAIはメロンもイチゴも同じ味と考えてしまうだろう。その違いを教えるために、「甘酸っぱい」や「おいしい」を別の言葉で説明する。更にまた別の言葉でメロンとイチゴの「酸っぱさ」や「甘さ」の違いを説明する必要が出てくる。更にそこで使う言葉にも説明が必要になる。言葉という「記号」で説明するだけでは永遠に説明が終わらない。この問題を最初に提唱した認知科学者スティーブン・ハルナッドはこれを「記号から記号へのメリーゴーランド」と呼んだそうだ。彼は人間が機械に記号を与えて問題解決をさせようとする、こうした記号アプローチを批判、記号のみによって記述しつくすことは不可能であると指摘したのである。

 「言語という記号体系が意味を持つためには、基本的な一群のことばの意味はどこかで感覚と接地(ground)していなければならない、というのが彼の論点である。」とこの本の著者は述べている。

 この「記号接地問題」はパターン認識を階層化するディープ・ラーニングによって解決できると期待されているらしいが、果たして「接地」は可能だろうか。「接地」が可能であれば、やがてAIは「人格」を手に入れることにもなるだろう。そのことの是非はともかく、AIは今はまだ「記号から記号へのメリーゴーランド」に乗っているようである。

 

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 話題を少し変えることにする。

 この身体的な「感覚に接地」した言葉というものについて思いを巡らす時、私はふたつの事を考える。ひとつは、私たち自身が言葉を記号のように扱い始めているのではないかという危惧である。あるいは「感覚に接地」した言葉を使う、その必要を感じなくなっているのではないかという危惧である。たとえばメールで顔文字やスタンプで委細構わず感情表現を託してしまう、そこに接地した感情表現があるとは思えない。いや、接地していないからこそ顔文字やスタンプを使うのだろう。それで成り立つ現代の人間関係とはどんな関係なのか。また、接地することのない記号としての言葉ばかりが氾濫すれば、本来コミュニケーション・ツールであるはずの言葉への信頼を著しく毀損してゆくのではないか、そのことの危険性を私たちはよくよく考えるべきではないのか、そういう思いを深くする。

 

 そして、言葉を「記号化」させないためにも、言葉とは何かについて考える。

 言葉のひとつひとつに歴史があり、その意味もイメージも時代とともに移り変りがあり、それが言葉の豊かさを生んでいると私は思う。だから、AIには小説を書くことはできないし和歌や詩を書くこともできない。表面上小説の形式をとったものや和歌や詩の形式をとったものを作るだろうが、それは形の上だけのことに終わるに違いないのである。

 そもそも言葉を使って小説でも詩歌でもそれを「書く(詠む)」という行為は,何よりも言葉の選択から始まる。作者の形にならない思いや感情をどのような言葉で表現すれば正しく相手に伝わるか、一字一句に呻吟すればするほどに、言葉は作者の身体に接地したものになってゆくのは必然だろうと思われる。

 

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 さて、「小説 啄木と牧水」。明治期を代表する歌人である石川啄木と若山牧水の交流を描いた小説だが、二人の交流は啄木の死に至る2年にも満たない短い期間で、そこへ至るまでの二人の苦難に満ちた歩みを含めて、その濃密な時間の流れを豊富な史料を駆使して再現して見せている。

 これを読みながら、「詩歌は言葉を豊穣にする」という思いを新たにした。日常生活で使うありふれた単語が、突然詩歌の中で全く違った意味を持ち、新しい息吹を感じさせる、そんなことがよくある、言葉は一定不変の記号ではないのである。

 

 はたらけど

 はたらけど猶わがくらし楽にならざり

 ぢっと手を見る

 

 私は文学史に詳しいわけではないので、確かなことは言えないのだが、このように「手」を歌った歌人というのは、啄木以前にはいないのではなかろうか。女性の手や子供の手を歌うことはあっても、労働の象徴のような「手」の存在が、少なくとも明治以前の公家社会中心の和歌の世界で歌われていたとは思えない。

 今となっては手を見る所作などさしたる感動も呼ばないが、当時は自然主義とか言文一致体とかがもてはやされ、現代的な口語文がようやく定着し始めた時代である。和歌が短歌となり、「もののあはれ」に背を向けて、ようやく自身を取り囲む現実を歌い始めた時代なのである。この啄木の「手を見る」というささいな所作の中に自身の現在を定着させた力量は当時の文学界に衝撃を与えたであろう。そう考えても許されるように思う。

 そして短歌に労働や貧困を象徴する「手」が定着されるとき、言葉としての「手」がもたらすイメージが変化し、新鮮でより豊穣な意味を持って立ち現れるようになる。身体に接地した言葉で表現を追い求める時、詩人や歌人は言葉の冒険の中にあり、その結実が詩や歌になる。その時代時代にふさわしい新たな意味やイメージを言葉に加え、より豊穣なものにしてゆく。詩や歌によって「言葉」が変わる、そういうことがあるのだということは知っておいてよいことだと思う。

 

 

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 詩や歌のような瞬発力はないとしても、小説を書くにも作家独自の身体に接地した言葉があり、文体がある。「文体」というと「話し言葉」や「書き言葉」、「である調」やら「ですます調」を指す言葉ととられそうだが、私の言う「文体」は作者の接地した言葉が生み出す独特な香りのようなもの、音楽で言えばリズムや和音、調子のようなものである。どんな作家にもそれはある。

 「小説 啄木と牧水」はいわば伝記小説で史実に即して書かれた部分が多く、どこまでが史実でどこまでが創作であるのか判然としないのだが、啄木と牧水、更には啄木夫人の節子に対して非常に距離の近い、寄り添うような筆の運びが印象的で、特に節子の啄木への献身ぶりなど短く直截な言葉を重ねながら読み手の涙を誘うところがある。おそらくは節子という人物への作家の共感が、そのまま読み手である私の共感を呼び起こすのであろう。

 啄木と節子は熱烈な恋愛の末に周囲の反対を押し切って結婚している。彼女は自身にも歌の才があり、啄木の才能を強く信じていた。ひたすら信じ、貧困の中にあろうが、夫が病床にあろうが最後まで啄木に尽くした女性で、啄木の死後1年余りで啄木と同じ肺結核でなくなっている。

 ほとんど殉死のような死なのだが、私が共感したのは人を信じる、その強さへの共感である。この強さはどのようにして育まれるのか。私たちは疑うことに慣れすぎてはいまいか。信ずることによって失うもの、それは確かにあるだろう。しかし、疑うことでも失うものがあることを忘れてはいないか。いや、私たちは「疑う」という行為を漠然と「信じている」だけではないのか。そんなことを思わざるを得ない。

 

「言葉への信頼が失われた時代」とは1970年代にはすでに言われていたと記憶する。以来、言葉が豊かさをもって復権したことは一度もなかった。言葉の荒廃はそのまま人間の荒廃にちがいないのだが、それがフェイクに踊らされるネット空間だけの事であればよいが、

 

果たして現実は、、、

 

 

 

 

 

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